3. 夕刻の待ち合わせ
夕刻。午後の講義が予定より早く終わったため、リディアは一旦家に帰ろうかどうか迷っていた。
王都ノーヴァでは、王城から街の城壁に向かって放射状に貴族の居住区、学業・職人区、商業区、平民の居住区、下層区といった形でエリアが形成されている。
学院は学業区に位置するため、貴族区にあるファビウス邸まで帰ると、下層区にある酒場からは遠ざかってしまう。
(待ち合わせもあるし。どうしようかな)
日はそろそろ傾き始めている。迷いながら、学院のエントランスへ向かった。
「リディ」
エントランスを出ると、騎士鎧を着た人物が近づいて来た。目を引く緋色の髪に均整のとれた体つき。ファビウス家の次男、アシュヴィル・ファビウスだ。
「アシュ兄さま、なんで、もう?」
リディアは驚いて兄を見つめた。まだ待ち合わせの時刻まではだいぶ時間がある。
「俺の可愛いリディに早く会いたくて、ね」
アーシュは意味ありげな微笑を浮かべて妹の頬に手を伸ばした。耳から顎にかけてのラインをするりとなでる。整った容姿をしているため、そういった仕草をすると色気がすさまじい。
そのまま指を持ち上げてリディアの頤を上向かせると、とろりと甘い黒の瞳で彼女の顔をのぞきこんだ。
「俺に会えない間も、いい子にしていた?」
ささやくように妹の耳元に問いかける。多くの女性を虜にする、低く甘い声。しかし。
「兄さま、今日も気持ち悪いわ」
リディアは呆れ顔でべしっと兄の手を振り払った。さっさと一歩後退して距離をあける。兄の悪ふざけはいつものことだから、もう慣れている。
できればこういう周りの誤解を招きそうな言動は慎んでほしいなー、と切に思う。事実、近くを歩いていた学院の生徒たちが、ちらちらとこちらを見ている。王宮騎士団の鎧を来た人物と魔術学院の生徒が道端で何やら親密な雰囲気を醸し出しているのだから、目を引くのも当たり前だ。
誤解しないでください、ただのシスコンです。リディアは心の中だけでそっと言い訳をした。
「それで、ほんとはなんで今ここにいるの?まだ鎧着てるのと関係あるの?」
「手厳しいなぁ。お前に会いたかったのは本当のことだよ。最近、あまり長く話す時間がとれなかったしね」
アーシュは苦笑して肩をすくめると、言葉を続けた。
「残念だけど、このあと任務が入ってしまったんだ。くだらない仕事だけど行かないわけにも…ね。それを伝えに来たんだ」
任務、と口にした時、アーシュはさも嫌そうに顔をゆがめた。民のあこがれである聖騎士とは思えない口ぶりだ。
いつも飄々としている兄らしからぬ表情に不安を覚え、リディアは尋ねた。
「なにか、あったの?」
「たいしたことじゃない。聡明な王太子殿下のいつものお戯れ、ってところかな」
「それって…また例の召喚儀式?エーレンフリート殿下も飽きないね」
ノワディルド王国第一王子のエーレンフリートは、今召喚に夢中になっているともっぱらの噂だ。それも、ただの精霊召喚ではなく、異世界から幻獣を召喚しようとしているらしい。魔術が存在するこの世界においても、そんな話は荒唐無稽だ。そもそも、異世界という概念が一般的ではない。それを知っているから、リディアだってほとんど他人に前世の話をしたことがないのだから。
初等学院で何度か見かけた王子の姿を思い浮かべる。性根の悪い人物には見えなかったが、残念ながら頭の出来はあまり良くなかったようだ。
「俺は、あんな馬鹿げた遊びに付き合うために魔術を学んだわけじゃないんだけどな」
魔術学院の建物を見上げて、兄はため息をついた。アーシュは学院の卒業生で、騎士であると同時に優秀な攻撃魔術の使い手でもある。王子の気まぐれのたびに、護衛要員として駆り出されているらしい。最近、非番だと言っていることが多い割に家を空ける時間が長いのは、そのせいだろうか。
「せっかくのリディとの甘いひとときを奪うなんて。ほんと、馬鹿は死滅するべきだね。いっそひとおもいにさっくり殺っちゃおうか」
「えーっと、いきなり過激ね、兄さま?」
妹の両肩に手をおいて悩ましげに漏らした後、アーシュはさわやかな笑顔で言い放った。王家と国の平和を守るべき王宮騎士のくせになんという価値観。
この兄の二面性は今に始まったことではないが、こうも往来で王家の陰口を叩くのも気が引ける。リディアはなんとかしてを話を変えることにした。
「んっと、じゃあ、フリッカの酒場には私一人で行くね」
「それはダメ。可愛い妹を、あんな狼どもがうようよいるところに一人で行かせられる訳がないだろう?」
即答が返る。そんなこと言われても。リディアは困惑した。だいたい、前回も自分一人で行ったのに。頬を膨らませかけた妹に気付いたのか、アーシュが言葉を続けた。
「もうすぐ国王誕生祭があるから、ここ二、三日で人出が増えてるんだ。昼から酒を飲む輩も増えているようだし」
落ち着かせるように妹の頭をなでる。かがんでリディアと目線の高さを合わせると、心配そうな表情を作った。
「俺は不安なんだよ。大事な妹を心配しない兄なんていないだろう」
「兄さま…」
「それに、リディは可愛いから…酔っぱらいに絡まれて、あんなところを触られたり、こんなところをなでられたりしたらどうしようって」
言いながら、すっと肩から手を下ろし、腰のラインをなぞるように、手のひらをすべらせる。いつの間にかまた体が密着していて、これでは周りから見たら抱きあっているようにしか見えない。
「わかった、わかったから離して!」
リディアはあわてて叫んだ。ちょっとでもほだされてしまった自分が悔しい。兄はリディアが家族らしいふれあいに弱いのを知っていて、わざとこういうことをするのだ。
「セクハラは犯罪です!これ以上さわったら、もう絶対兄さまとは討伐に行かないから!」
そう言った瞬間、兄の手の力がゆるんだ。その隙を逃さず、リディアは体をずらして兄から離れた。今度こそ十分な距離をとってアーシュをにらみつける。
「ひどいな、リディ」
兄は傷ついたような顔をしてこちらを見ている。
「ただでさえ、フレイとばかり外に出てるのに、これ以上俺をのけ者にするんだ?」
いや、これは傷ついているというより……怒っている?
自分自身が怒っていたばかりなのを忘れて、リディアは目を丸くした。
確かに、リディアはアーシュと一緒に街の外に出かけることが少ない。ただ、それは城勤めの兄よりも同じ学生のフレイのほうが時間の自由がきくからだ。大体、リディアと一緒に依頼品の採取や討伐に出かけたところで、アーシュには何もメリットがない。
そういえば最近討伐依頼も受けるようになってからは、一度も兄と出かけていなかった。
「兄さまも、外に出かけたかったの?」
今まで気付かなかったが、実はアーシュも城壁外に出たかったのだろうか。確かに、城詰めは大変な仕事だ。たまには息抜きをしたくなるのかもしれない。
「ごめんなさい、全然気付かなかった。次からは兄さまも誘うね」
素直に謝ると、兄は毒気を抜かれたかのように苦笑していた。
「まあ、別にいいけどね。今の言葉忘れちゃダメだよ」
忘れたら…わかってるよね?と目で語って自らの唇に人差し指を当てる。リディアはこくこくと首を縦に振った。兄の報復はおそろしい。
結局、フリッカの酒場には召使いと一緒に行くことにして、なんとか納得してもらった。一人で行くと言い張って、往来であれ以上セクハラされるわけにもいかない。
アーシュと別れて道を歩きながら、リディアはため息をついた。家族とうまくやって行くのは難しい。納得させるのにすっかり手間取ってしまった。
辺りを見渡すと、街はとっくに夜になっていた。