47. 重なる呼吸
ごう、と耳元で風がうなる。最初に襲ってきたのは風圧だった。前方から押し寄せる暴力的な風に、リディアは体ごと吹っ飛ばされそうになる。杖を床に押し付けてなんとか耐え、とっさに術を唱えはじめた。もうほとんど条件反射のような行動だった。
「トキワ、下がれ!」
前方の少年に向けて、弟が叫んでいる。トキワのほうが王子に近い位置にいるのだ。頭の片隅でそれを聞きながら、リディアは詠唱をやめない。――早く、早く。早くしなければ。
トキワがジョザイアの体を引きずってすぐそばまで下がってきた。倒れ込んでいる騎士の隣に白魔術師を放り投げ、自身も体勢を整え身を起こそうとする。その背を追いかけて、今度はぶわりと空気が爆発した。轟音が響き、演習室がまばゆい光に包まれる。風が一気に高熱をはらんだ。
――火の海。まさにその言葉をそのまま表した光景だった。ギルトラッド王子の体を中心に、色のない高温の炎が燃え広がる。天井の高さまで達した火は、床を、壁を伝ってあっという間にこちらへ迫った。
「……っ、苛烈なる炎より我らの身を守れ、『魔障壁』!」
火柱が目前に届いたのと、リディアの防御魔術が完成したのはほぼ同時。瞬間、ばちばちと火花が散った。薄い光が走って、術者とその周りを覆うように、天蓋に似た形の膜が張られる。リディア、フレイ、そして倒れ伏した騎士と白魔術師。半ば爆風に吹き飛ばされるようにしながら、トキワもその中に飛び込んだ。
鼻先に迫った炎を、透明な防御膜が防ぐ。膜にぶつかった火柱は赤い粉になって空中に弾けた。すべてを飲み込もうとする炎と、かろうじてそれに耐える『魔障壁』。びりびりと空気が震え、衝突音が耳を突く。
杖を支える体に信じられないほどの負担がかかって、リディアは身の内からごそりと術力が奪われていくのを感じた。それでも、遠のきそうになる意識を、ぎりぎりのところでこらえる。
(ここで、倒れるわけにはいかない)
この防御魔術が消えれば、火柱は室内のすべての人間を焼き尽くすだろう。もはや、目の前の炎は演習などというレベルの術ではない。現に、背中を焼かれたトキワは、すぐそばの足元で苦しそうに膝をついている。治してやりたいが、今はその余裕がない。
リディアは唇を噛み締めて、薄れる意識を必死で集中させた。渾身の力を込めて防御魔術を強化する。炎の禁術に対抗するため、とっさに選んで構築したのは、氷を織り込んだ『魔障壁』。火属性の反対にあたる水属性の氷を使うことで、激しく襲いくる火の手に耐えようとしたのだ。
――けれど。次の瞬間、そんな努力をあざ笑うように、室内の炎が一斉に激しく燃え始める。火の壁の向こうに見える王子は、どこか常軌を逸した表情で笑っていた。
「っ……」
炎を防ごうと一気に術力を行使したせいで、リディアの視界は真っ暗になった。なんとか保っていた意識が途切れかけ、杖なしではもはや立っていることも難しい。
「リディア!!」
「ごめん……だい、じょぶ」
あわてて駆け寄った弟に、体を支えられる。なんとか微笑み返して、震える足を叱咤した。少しでも気を抜けば、織り込んだ氷が溶かされ、『魔障壁』が崩れてしまう。
(守るって決めたんだもの……)
床にうずくまるトキワも、じっとこちらを見つめるフレイも。リディアがこの二度目の人生で得た、なによりも大切な者たちだ。きっとそれは、これから何が起こっても変わらない。
(絶対に、これ以上傷つけさせない)
前方をにらみつけ、リディアは再び杖を持つ手に力を込めた。
――そこに、もう一つ手が重なる。
「フレイ?」
「……俺も、やる」
真後ろから腕を回して、フレイがリディアの杖に手を添えていた。
「お前だけじゃ、破られるのは時間の問題だ。俺も手伝う」
何を、と聞けるほどの余裕はすでになかった。ただこくりとうなずいて、『魔障壁』を支えることだけを考える。耳元でフレイが詠唱を始めたのを聞きながら、ひたすらそれに呼吸を合わせた。
目の奥がちかちかして、視界がかすむ。熱気で揺らぐ視界に映り込むのは、燃え盛る炎と、その向こうに立つギルトラッドの姿だけ。朦朧としながら、それでも、弟の声で術が構築されていくのはわかった。少しずつ、けれど着実に、リディアの防御魔術にフレイの魔力が組み合わさっていく。術に織り込んだ氷が徐々に形を変えていく。
――その段になってようやく、リディアは弟の意図を悟った。
ふと、耳元の詠唱が途切れる。リディアの手の上に重ねられた指に、力がこもった。
「準備、いいな?」
「……うん」
何の、と尋ねる必要はもうなかった。最後の気力を振り絞って、意識を集中させる。
――そして。燃え盛る火の海の中で、ファビウス家の姉弟は同時に口を開いた。
「「暗き深淵にたゆたう水の精霊よ……」」
声が落とされた瞬間、ぞくり、と空気が震える。それは、さながら仄暗い水面に投じられた一石。さほど大きな声ではなかったはずなのに、波紋が広がるように室内に響いていく。
「「我ら、闇の庇護を受けし者の呼びかけに応えよ」」
目を伏せた二人の足元からは、揺らめく魔力が立ち上っていた。重なる声に導かれ、杖の先端が薄暗い光を帯びる。
「流れし水は時として、凍てつく氷に姿を変える」
「氷の果てに訪れるは、静寂なる安寧の空間」
フレイが紡ぎ、リディアが詠う。二人が声を発するたび、言の葉が目に見える形となって織り合わされていった。室内の熱気が一遍に引き、大気が急速に冷えてきらきらと結晶化していく。
観覧窓の向こうでそれを目撃した人々は、みな自分の目を疑った。――共同詠唱。それも、さまざまな属性が入り交じった、難解な術式。こんなことをやってのける魔術師が、このノワディルドに一体何人いるだろう。
「望むは、すべてを壊す、無情の剣」
「望むは、すべてを守る、無比の盾」
声が、そろう。まるで、神話の双子神のような完璧な調和。
織り上げられた魔力が、緻密な光の陣を描いた。それはリディアが作り出した『魔障壁』を覆い、天へと立ち上る。
一瞬の沈黙の後、二人は同時に顔を上げた。
「「すべてを、凍らせよ。『絶対なる氷結』!」」
――その瞬間、氷の禁術が完成した。
強烈な冷気が場を圧倒する。リディアたちの前に出現したのは、黒々とした氷の壁だった。床から天井に達する巨大な氷壁が、攻めくる炎の前にそびえ立つ。一切の侵入を許さない、絶対の防壁。――まさに、”無比の盾”と呼ぶにふさわしい。
そして。同時にそれは、”無情の剣”でもあった。
氷の壁に触れた部分から、炎が凍りついていく。比喩ではなく、言葉どおり燃え盛る形のまま動きを止めて結晶化していくのだ。ざりざりと音を立て、リディアたちの周りに放射状に氷の塊が連なっていった。炎を飲み込み、氷は一気に演習室の隅にまで到達する。
そこには、呆然と立ち尽くすギルトラッドがいた。
「なんだ、これは……。これがファビウスの姉弟の……?」
言う間に、王子のつま先が凍りついた。ふくらはぎから膝、腰を伝って、たちまち氷が体を覆っていく。全身が凍り付くまでに要した時間は、わずか数瞬。
後に残ったのは、驚愕に目を見開いた表情で凍結した王子の氷像だけだった。
すべてが凍り付いた演習室は、静寂に包まれた。
――どさり。
そこに、何かが倒れる物音が響いた。氷壁に守られた安全領域の中で、リディアとフレイが床に崩れ落ちたのだ。
術力を使い果たした彼らは、気を失う寸前、互いに目を見交わした。
「これで、さすがに……」
「俺たちの勝ち、だな……」
ふっ、と口を微笑みの形にしたまま、二人は意識を手放した。




