42. 氷の禁術
どのくらいたった頃だったろう。
やっと重力制御で天井近くまで物を持ち上げられるようになって、リディアはふと息を抜いた。術式が違うため、下方向に叩き付けるのにはまだまだ時間がかかりそうだった。
集中したせいで固まってしまった背中をぐっと伸ばす。部屋の反対側では、フレイがなにか詠唱していた。彼の周囲の空気は冷気をはらんできらきらと凍り始めている。何気なくそれを眺めて、一瞬後に目を瞬かせた。
(って、え、氷……の禁術!?)
弟が詠唱を終えた瞬間、ざり、と空気が凍結する音が部屋の壁を震わせた。同時に、演習室の中に巨大な氷柱が出現する。床から天井までを一本でつなぐ、黒々とした氷の柱だ。たちまち室内の気温が下がり、あまりの寒さにリディアは思わず自分の肩を抱えた。
(さ、さむ……。ほんと、あの子はどんどん強くなるなー……)
見上げる高さの、膨大な質量の氷。詠唱だけでこんなものを作り出せるなんてにわかには信じがたい。両手で二の腕をさすりつつ、心の中で拍手を送った。――おそらく、この黒い氷柱は、水属性と闇属性を混成した禁術。『黒き業火』が使えるだけでも相当なものだというのに、いつのまにこんな術を習得したのだろうか。
フレイはもともと闇属性の適性が高いのだが、その他の基本属性にも低くない適性を持っていて、攻撃魔術なら何でもそつなくこなす。攻撃――黒魔術が苦手なリディアから見たら、うらやましいことこの上ない。
(あれ、でも、そういえば……)
ふと、前に一緒に眠り竜の討伐に行ったことを思い出した。あのとき弟は『黒き業火』を使っていたのだが、たしか、最初の一発目は失敗して外していた。爆発音で眠り竜を目覚めさせてしまったときはかなり焦った覚えがある。
今考えてみると不思議だった。なぜフレイは、術を失敗したのだろう。
前までは、リディアのスキル『異界の理』のせいかと思っていたのだが……推測するに、あのスキルは空間魔術にかかわるもののはず。術のミスの原因は、何かほかのところにあったのだろうか。
そんなことを考えている間に、部屋の中の氷柱は床に溶けて消失していた。視線の先では、術を終えたフレイが自分の手を見つめたままぼんやりとたたずんでいる。術力をかなり消費したのだろう、疲れきった様子だった。心配になって、思わず足がそちらを向く。
けれど、リディアが近づくと、彼ははっと我に返って顔をあげた。そのまま慌てて後退り、しかめ面を作る。
「フレイ、大丈夫?」
「あ、ああ。問題ない」
目が泳いでいた。明らかに、何か隠している態度だ。怪訝に思って、リディアは弟の姿をじっくり眺めた。両手で持った杖を、背中に押し当てたまま後ずさる弟。その不自然な姿勢に疑問を持って……すぐに、気付いた。
「……手、見せて」
「だから、何でもないって」
「いいから、見せなさい」
姉の特権とばかりに、背中に両手を隠そうとする彼を押し退けてその手をつかむ。触れた瞬間、ひやりとした感触に肌が粟立った。
「ちょっ、なにこれ……。手、凍ってるじゃない」
フレイの手は、薄氷に覆われて完全に凍りついていた。同じく氷をまとった杖と張り付き、うっすらと霜が降りている。もっとよく見ようと、リディアは指先に力をこめた。
「っ、離せ!触ったらお前まで……」
「え……」
慌てて身をよじった弟に手を振り払われる。けれど、そのときにはもう遅かった。リディアは、自分の指に起こった変化に唖然とした。みるみるうちに、爪先が、指の根が、手のひらがぱきぱきと冷えて固まっていく。一つ瞬いた間に、弟の手に触れた右手は凍りついてしまっていた。肌の表面は熱いのに、中の感覚がない。しびれたように指先を動かすことができなかった。
「……フレイ、これはなに」
間を置いて尋ねた口調は、我ながらどこまでも硬質だった。声に温度があるとすれば、間違いなく今この部屋の気温より冷たいだろう。目を合わせようとしない弟をまっすぐに見つめる。
「……さっきの氷の禁術の名残だ。触れたものをすべて凍りつかせる」
「そう。で、どうして術を唱えたフレイの手が凍るの」
「それは……まだ、術が安定しないからで……。それよりリディア、お前早くその手なんとかしないと」
「私の手なんて、どうでもいいから。そんなことより……こういうの、よくあることなの?こんなふうに、凍ったりすること」
「……ああ。だから、上手くできるように訓練するんだろ」
やっとこちらを見た弟は、ふてくされたようにそんなことを言う。リディアはすっと息を吸った。
「……フレイは、この術を一人で訓練しようとしてたの?今日偶然私が来なければ、誰にも知らせず一人でやってた?」
詰め寄ると、彼はいぶかしげな表情のままうなずいた。それがどうかしたのか、という顔だ。
リディアはぎゅっと歯を噛み締めて、足を半歩踏み出した。わずかな距離を詰め、無事だった左手で――弟の胸ぐらを掴む。
「どうして、そんなことするの?どうして!今日は手だけだったけど、もしかしたら体全部凍っちゃうかもしれないじゃない!なんでそんな術一人で使うの!」
こんな訓練の仕方は異常だった。通常、リスクのある術は教師陣の監視のもとで行うものだ。フレイの場合は扱う術が高度で、教えられる人間が片手で数えられるくらいしかいないのかもしれないが……だからといって、弟が最近急激に活躍しているのがこんな無謀な訓練の成果なのだとしたら、許しがたかった。
剣幕に気圧されたのか、弟は何もしゃべろうとしない。言いながら、どんどん怒りが湧いてきて、リディアは掴んだ襟を引き寄せてそのまま弟に体ごとぶつかった。
「なんで、そんな無茶するの……!」
「……」
見上げれば、フレイは口を引き結んで何かとても居心地の悪そうな表情をしている。一瞬迷うように言葉をためらいかけ……しかし、すぐに短く言い切った。
「お前には、関係ない」
「なっ……」
「俺の問題だ。どうしようと勝手だろ」
言い捨てて、彼は炎の術の詠唱を始める。すぐに呼び起こされた小さな火焔が、肌に触れないぎりぎりの位置で、ちろちろと二人の腕の側を這った。あっけなく手の氷を溶かし、消えていく。もともと凍らせた本人の術なのだから、解除も難しいことではないのだろう。残ったのは、ただ感覚の麻痺した手だけ。
「こんなの……」
リディアはうつむいた。氷は消えたけれど、本当の意味で治ったわけではない。放っておいたら、指先の感覚が戻るまでに相当な時間がかかってしまう。『治癒』とささやいて、弟と自分の手を治療した。――リディアはこうやって治癒魔術を使うことができるが、使えない弟はいつも一人でどうしているのだろうか。
「やだ……」
気付いたら、そう言っていた。眉を寄せる弟に、もう一度言葉を重ねる。
「関係、ないのかもしれないけど。でも、嫌だ」
「お前、何言って……」
「フレイが一人で訓練して、一人で怪我するのは嫌。……私が、嫌なの」
「そんなこと―」
弟は何か言いかけたけれど、リディアはその前にはっきりと宣言した。
「私、これからフレイの訓練には絶対付き添います」




