39. 家路と帰宅
三日月の落ちた帰り道を、二人はゆっくりとした足取りで歩いていた。その手はゆるくつながれている。街灯の下を通るたび、大小二つの並んだ影が大通りの石畳の上で揺れた。
なんとなくそれを目で追いながら、リディアはぼんやりと一つ瞬きをした。ひとしきり泣いたらすっきりして、少しだけ冷静な思考が戻っていた。考えてみると、いくら人通りがないとはいえ、往来であんなに泣きじゃくってしまったのは少し恥ずかしかった。
(でも……)
ちらりと隣を見上げると、人の形をしたキラが、どうしたの?と微笑み返してくる。
先程聞いたら、彼は影の外に出る際、扉を開けるために人型になったのだと言っていた。今リディアの足元に広がる黒々とした影、その中に、人の姿をとらなければ開けられない大きな扉があったのだ、と。
よくはわからなかったが、彼が語った影の中の世界はとても寂しいもののように聞こえた。なんだかやっぱりまだ離れがたくて、その手をぎゅっと握る。
「ねえ、キラ」
「うん?」
呼びかければ、思慮深い金の瞳が再びこちらへ向けられる。目が合うと、自然と微笑みが浮かんだ。
「ありがとね」
「……うん」
つないだ手が暖かかった。キラがそばにいるのだと思うと、それだけで心の重圧が消えていく。ここ数日間ずっと悩み続けていたはずの思いは、ゆるやかに溶けていった。
二人の間に、それ以上の会話はなかった。何も話す必要がなかったのだ。黙っていても、そこには暖かい沈黙が満ちていたのだから。
――橙色の魔術灯で照らされた夜道には、しばらくのあいだ、こつこつと石畳を踏みしめる二つの足音だけが響いていた。
「あ……」
そんな沈黙を破ってリディアが再び声をあげたのは、家の門をくぐった直後のことだった。
「どうかした?」
「いや、えっと……」
「?」
言いよどむと、キラが不思議そうに首をかしげる。
「あのね……このまま帰ったら、まずい……よね?」
「?」
何がまずいのかわからないといったようにきょとんとしたキラをよそに、リディアは差し迫った問題に頭を抱えた。
「どうしよう、兄さまたちに見つかったらなんて言われるかわからない……」
そう、うっかり当たり前の事実のように受け入れていたが、今のキラはどこからどう見ても人間だった。リディアは目を見ただけで自分の魔獣だとわかったが、果たして兄たちはこの青年を見てキラだと信じてくれるだろうか。自問しておいて、リディアは軽く首を横に振った。――否、おそらくそれは難しい。
兄たちの反応を想像すると、自然とため息がこぼれた。過保護な兄たちのことだ、見ず知らずの青年を警戒しないはずがない。きっと、説明するのには多大な時間がかかるだろう。
(今日はもう遅いし、とりあえずこっそり部屋に直行しちゃおうかな。説明は明日ってことで……)
思わず投げやりになってしまう。心配そうに見つめるキラと手をつなぎ直して、リディアはエントランスの扉に手をかけた。帰宅したのがばれないように、ゆっくりと静かに把っ手を引く。そのまま、召使いに見つかる前に二人で自室に上がるつもりだった。
――だが。間が悪い、とはこういうことを言うのだろう。そこには、ちょうど帰宅したばかりのアーシュがいたのだった。
鉢合わせるやいなや、彼はリディアの隣に立つ青年を見てまなじりを上げた。その顔は、二人の手がつながれているのを見てとるとさらに歪められる。もの言いたげにリディアに視線を流し、口を開きかけた。
けれど、それが声になる前に、奥の開いた扉から黒い魔獣が飛び込んできた。キラの母親、メイだ。吠えながら思いきり駆けてきて、リディアたちの前まで来るとぴたりと足を止める。人の姿をしたキラをじっと眺めるその視線は、なぜだかとても意味ありげなものだった。
さらに今度は、その魔獣を追いかけてフレイが姿を現した。彼はホールに集まった人々を見て一瞬いぶかしげな表情を見せたが、すぐに姉のそばに立つ見知らぬ青年に目を留めた。そして二人の手元に視線を落とした瞬間、全身に不機嫌なオーラをまとう。敵意に満ちた視線が飛んでくるまでに、さして時間はかからなかった。
エントランスホールが、一種異様なぴりぴりとした空気に包まれる。
「えーと……ただいま?」
とりあえず、とリディアが口を開いたが、誰からも返事はない。アーシュもフレイも無言でキラを見つめている。いつもは飛びついてくるはずのメイまでも、じっとりとした視線を向けてくるだけだ。
対応に困って隣のキラを見上げてみると、彼は気にした様子もなくふんわり笑っていた。目が合うと、小首をかしげてみせる。この状況に全く動じていない。
リディアは引きつった笑いを浮かべた。これはやばいと本能が告げていた。――だが、どうしようかと一歩後ずさろうとしたとき。吹き抜けの階上から声が落ちてきた。
「おかえり、リディア」
顔を上げると、そこにいたのはクライブ。二階の手すりにつかまって、目を細めてこちらを見下ろしている。外からの風に煽られて、細い銀髪が空気をはらんで舞っていた。とても穏やかな表情だったが……なぜだろう、目が合うと背筋にひやりとしたものが走った。
「ちょっと、こちらへおいで。話をしようか」
にっこりと、有無を言わさない微笑。こうなったクライブは心底恐ろしいのだと、経験則で知っていた。言葉は疑問系だったけれど、もちろん断れるはずはない。
――こうして、リディアたちは全員広間へ移動することになったのだった。
「……で?リディアはこれがキラだ、というんだね?」
説明は、一刻以上に及んだ。途中で、物陰にいたらしいトキワも会話に加わって、広間に集まったのは総勢六人と一匹。――いや、キラは魔獣なので正確には人間五人と魔獣二匹と言うべきか。とにかく、集まった面々にリディアはこんこんと説明した。この金髪の青年はリディアの大事な魔獣なのだ、と。その間もキラがリディアから離れないものだから、寄せられる視線はかなり厳しかったけれど。
「……なんで人の形になれたのかはわからないけど、これは絶対キラだよ」
「まあ、主従の契約を結んだリディアが言うのなら、きっとそうなんだろうね」
言葉とは裏腹に、クライブがふうと息をついた。アーシュやフレイは、形ばかりはうなずいているが、いまだ信じられないような表情だ。トキワなど、ふてくされたようにそっぽを向いている。皆、納得していないのは明らかだ。
すると、ずっと黙っていたキラがおもむろに口を開いた。
「僕がキラだと、信じられない?」
静かな口調で、じっとただまっすぐな視線を一同に向ける。
「……そういうわけでは、ないが」
金の瞳に捉えられて、アーシュが眉を寄せた。
「ただ、俺たちはリディアと違って体感的に理解しにくい。なにか、証拠のようなものはないのか?」
「……証拠?」
「例えば、キラの使っていた地の術を使える、とか」
「そんなことでいいの?なら――」
キラが歌うように不思議な韻律の言葉を唱えると、彼の後ろ、広間に飾ってあった観葉植物が突如ぐんぐんと成長し始めた。鉢を割らんばかりの勢いで急激に枝を伸ばしていく。リディアも含め、広間にいた全員が目を見張ってそれを眺めた。大地属性の魔術であることは明らかだった。だが、これほど自在に操れる使い手はそうそういない。――そう、地属性の魔獣でもないかぎりは。
天井に届かんばかりに伸びたところで、やっと観葉植物の成長が止まる。大きく枝葉を伸ばした緑が、完全に彼の背後を覆っていた。
「これでいい?」
ふふっと笑ったキラに、一同はうなずくしかなかった。
納得させたあとは、話はとんとん拍子に進んだ。とにかく、今晩キラが泊まる部屋を用意させようということになる。リディアの影の中でもよかったのだが、なんとなく淋しげな影の世界にキラを戻すのは嫌だった。
だが、どこの客間にしようかと相談していたところで、急にキラがリディアのローブの裾を引いた。
「どうしたの、キラ?」
「人のままだと、今までのように一緒に眠れないの?」
振り返ると、不思議そうな顔でそう尋ねてくる。今までのようにというのは、獣の姿だったとき、一緒の寝台で眠っていたことを指しているのだろう。リディアが幼い頃から、二人はずっとそうして一緒に眠ってきた。
「そうだね。それはちょっと、無理かも」
苦笑して、リディアは首を横に振った。人の姿のキラと一緒の寝台で寝るのは、さすがにためらわれた。淑女として、そこは譲ってはいけないラインだろう。
「……それなら、今は人の手足はいらない」
「え?」
つぶやいたキラの声は小さかった。聞き返すと、曖昧な微笑みを作る。何を思ったのか、彼は床に伸びるリディアの影に足を踏み入れた。
ふと、その体の線がぐにゃりとぼやける。輪郭が崩れて、人の形がリディアの影に溶けていく。驚いて目を見開いている間に、今度は影から別の形が現れた。重心が低く、横に長い形――まるで、狼のような立ち姿。
「……キラ?」
大きく伸びをすると”それ”は賢そうな金の瞳でリディアを見上げた。ふわふわの金の毛並み、ぴんと立った耳、つぶらな瞳。間違いなく、獣姿のキラだった。リディアが腕を回して抱きしめると、嬉しそうに尻尾を振る。どうやら、獣型のときは人の言葉は話さないようだ。
突然のことに一同は目を丸くし、そして嘆息した。気のせいか、今まで張りつめていた空気が一瞬で緩んでいく。
「……できるんだったら、始めからこの姿に戻ればよかったんじゃ……」
フレイのつぶやきに、リディアをのぞく部屋中の人間全員が賛同したのだった。
魔獣型にも戻れますよ、という話。もふもふ再来です。




