37. 影の中の魔獣(1)
前半は、魔獣視点。
"それ"は、黒い影の中で体を休めていた。影の中はじわりと暖かく、体を置いているだけで傷が癒されていく。周りを包むのは、ゆりかごのような優しい空気。目を閉じていても、四肢に力が蓄えられていくのがわかった。
時折ぼんやりと目を覚ますと、影の持ち主である少女の気配が感じられた。赤ん坊の頃から見守ってきた、大切な少女だ。
”それ”にとって、少女はかけがえのない友人であり、同時に、何を置いても守るべき主人だった。聡くて、意志が強くて、けれどどこか危なっかしい少女。いつだってそばに寄り添ってきたから、たとえ言葉が通じなくとも、彼女との間には特別な絆があった。
そして……森で魔物に襲われたあの一件。血の契約によって、彼らの絆はより強固なものになった。薄闇の空間で契約を結んだときのことを思い出して、"それ"はうっそりと微笑った。
半分眠り、半分覚醒し、その繰り返しの中でずっと喜びをかみしめていた。
「キラ……」
外界から遮断されたこの影の中では、聞こえるのは少女の呼びかけだけだ。夢うつつをさまよっていた”それ”は、少女の声に耳をそばだてた。しかし、彼女はそれ以上の言葉を発することなく、呼びかけは途絶えてしまう。さびしげな声だけが印象に残った。
どうしたのだろう、と首を傾げても外界をのぞき見ることはできない。急に心配になって、その場を駆け出す。外に出ようとしてみたが、どこまでも行っても黒い影以外の場所にたどり着くことはなかった。
”それ”は己の体を見下ろしてみた。少女をかばって魔物から受けた傷は、ほとんど治りかけている。どうして出られないのか、不思議だった。さびしげに己の名を呼ぶ声が耳に蘇る。
――そばに行きたいのに、なぜ行けないのだろう。
かすかに苛立って黒い虚空を睨み付ける。そのとき、遥か遠くに何かがあることに気がついた。けげんに思って近づいてみると、それは、巨大な扉だった。頑丈な作りの両開きの扉で、中程に巨大な閂と鍵がかかっている。
顔を近づけて確認してみると、わずかな戸の隙間からかすかに風が流れてきているのがわかった。扉の向こうから届くのは……外界の匂いだ。
――出口。
ここを抜ければ主のもとに行けるのかもしれないと、希望がこみ上げた。もう一度、扉を見る。ところどころ蔦の絡まった背の高い扉。石造りのアーチに、分厚い框戸がはまっている。これでは、体当たりをしても開きそうにはない。閂を外し、鍵を開けなければ出ることはできないだろう。
首をめぐらせて、辺りの様子をうかがう。見たところ、近くに鍵はなさそうだった。とにかく、第一に鍵を探さなくてはいけない。長いこと人と一緒に暮らしてきた”それ”は、人がそういった道具を使うことをよく心得ていた。
◇◇
「……なるほどね」
リディアはいつもの研究室で本を読みふけっていた。昨日大図書館で借りてきたばかりの、魔獣とその主の契約について書かれた本だ。朝から休みなく読み続けていたので、窓の外はすでに薄暗い。それでも手を止めることなく、机上の小さなランプの明かりだけを頼りに、文字をたどる。
本には、さまざまなことが書かれていた。例えば、契約の前の基本について。魔獣と人の契約は、人間本意の一方的なものではなく、契約を望む人間は、まず第一に魔獣に選ばれ、認められる必要があるということ。魔獣は、出会った瞬間にその人間を主とするかどうか判断するということ。その判断基準はまだ解明されていないため、魔獣を従えることを望む人間は、とにかくたくさんの魔獣に会ってみなくてはいけないということ。
なんだか大変そうだが、この辺りの情報はリディアには関係がない。何しろ、生まれて間もないころからキラがそばにいたのだから。
母親によれば、キラはある日、父エルレインから渡された指輪から現れたという。愛しい男からもらったプレゼントから獣が出てきたのだから、当然母は驚いた。しかし、その獣はうなり声をあげることも吠えることもせず、ただただ生まれたばかりの赤子のそばに寄り添った。その金の目は賢く優しげで、とても害のある生き物には見えなかったそうだ。その様子に、エルレインのそばに控えていた契約魔獣のメイを思い出した母は、獣を娘とともに育てる決意をしたのだという。
リディアはぱらぱらと本のページを進めた。欲しいのは、契約した後についての情報だった。古びた紙をめくる指が、本の中程にたどり着く。契約については、この辺りに書かれているようだった。
”主人となる人間の血を分け与え、魔獣がそれを承諾して飲み込めば、契約は成立する”
契約の方法の欄には、薄闇の空間で父に教えられた通りの方法が載っていた。確かに、リディアとキラはこれを実行した。契約した後の、体中の血が沸騰するような熱さをよく覚えている。
さらにページを繰ると、契約魔獣が傷を負った場合について書いてあった。
”人間と契約した魔獣は、主人の命ある限り、生き物として死ぬことはない。活動の停止を余儀なくされるような重傷を負った場合は、主の影の中で眠って傷を癒す”
おそらく、今のキラに当てはまっているのは、この状況だろう。読み進めると、”大抵の場合は十日もすれば回復する”らしいということがわかった。
「あれ?」
リディアは首をひねった。十日で治る、とはどういうことだろうか。薄闇の空間で契約を結び、キラが影の中に入ってからすでに半月ほどが経っている。本の通りだと考えれば、すでにキラの傷は癒えていてもおかしくない。
「じゃあ、なんで出てこないんだろう……。やっぱり、あの傷相当深かったからまだ治ってないのかな?それとも、私の影の中の回復力が低い、とか?」
本には、影の中で魔獣が傷を癒す際、関係してくるのは主人の魔力の高さだと書いてあった。リディア自身、平均的な魔術師と比べれば魔力は高い方だと思うが、いかんせんキラの本性である大地属性はそこまで得意とは言えない。よくわからないが、その辺りが関係しているのだろうか。だとすれば、それはいますぐどうにかできる問題ではない。
「もう、よくわかんないよ……」
リディアは本をめくる手を止め、顔を手で覆った。実のところ、物心ついて以来、キラとこんなに長く離れたのははじめてだった。何も知らなかった幼少期も、前世の記憶を取り戻した時も、周りの人間を誰一人信じられなくなった時も、そして初めて王都に来て戸惑っていた時も……リディアとキラは、ずっと一緒だった。
心がざわつく。こういうのを、心細いと言うのだろう。優しい金の瞳がどうしようもなくなつかしかった。
ぱたり、と机の上の本を閉じる。もう完全に日が落ちていた。そろそろ帰らなければいけない。
「ほんとは、意味ないのかもしれないけど」
杖を手に取って床の上にしゃがみ込む。それは、薄闇の空間から帰還して以来、日課になっていることだった。自分の影に向けて、使い慣れた術をかける。
「『治癒』」
杖から、淡い白銀の光の粒が落ちる。術の対象がいないためか、その光は床の上のリディアの影に吸い込まれ、消えていった。いつもと同じで、誰にも効くことのない術。影の中――キラに術の効力が届くことはないと、わかっていてもやめられなかった。
少し長くなってしまったので、今回は二話に分けました。




