34. せめぎあう気持ち
翌日。リディアは、いつも通り魔術学院にいた。受けなくてはいけない講義もあったし、何より家で悶々と悩むよりも、研究室で何か調合でもしていたほうが気がまぎれると思ったからだ。何となく家族に顔を合わせづらくて、朝食の席には顔を出さずにそのまま家を出てきてしまっていた。
午前の講義を終えた後、自分の研究室にこもる。今日はヴァレッタ石と呼ばれる石を使って魔力安定具の作成に取りかかる予定だった。昨夜の襲撃の際、杖の代わりとなる安定具の必要性を痛感したのだ。杖がないと魔力のコントロールは本当に難しいけれど、魔術師がいつも杖を携行できるとは限らない。持ち運びやすいアクセサリ型の魔力コントロール装置があれば便利なはずだ。
手のひら大の石を、小ぶりのハンマーで叩いて砕いていく。結構な騒音の出る作業なので、熱中していたリディアは扉がノックされたことに気がつかなかった。
「おい」
「ぇっ!?」
背後から急に声をかけられて、作業中のアイテムをあやうく取り落としそうになった。振り返ると、後ろに立っていたのは黒ローブ姿のフレイ。どうやらノックに返事がなかったため勝手に入ったらしい。
「……どうしたの?こんなところまで」
黒魔術科からこの応用魔術科までは結構な距離がある。昨日の第二王子の言葉が頭に蘇って、つい身構えてしまった。もしかしたら、この弟もリディアの異質さに気がついているのかもしれないのだ。
そんな姉を不審そうに見つめて、フレイは眉を寄せた。
「どうした、って……。お前こそどうしたんだよ。昨日刺客に襲われたんだって?夜中に帰ってきたかと思ったらすぐに部屋に引っ込むし、今日も朝から姿見せないし」
「あ……うん。でも大丈夫、平気だよ」
無理に口角を上げて微笑んで見せると、彼はいっそう顔をしかめた。
「本当に?お前もともと夜会乗り気じゃなかったし、他にも何かあったんじゃないか」
フレイは、もともと結構するどい性質だ。その上、リディアとは妙に感覚の波長が合うところがあるから、隠し事をするのは難しい。返答に困って、リディアは一瞬目を泳がせた。ギルトラッド王子の件を話すのはためらわれた。
「何か?あー、えーっと、ほら、私、半分平民の血引いてるじゃない?だからそれで他の人にちょっと馬鹿にされちゃった…かな」
なんとか記憶を引っ張り出してそう答える。確か、アーシュを取り巻いていた女性たちの一部がリディアを指して”薄汚い下賤の女”とかなんとか言っていた。事実だし別にあまり気にならなかったのだが、この際利用させてもらうことにする。
「……それだけか?」
「うん」
しおらしくうなずいてみたが、ごまかせたかどうかは怪しかった。フレイは、自分の姉が出自を馬鹿にされたくらいで傷つくほどか弱くないことをよく知っている。疑わしそうな弟の視線から逃げるように、リディアは軽くうつむいた。その目に、一歩踏み出した彼の足が入る。二人の距離は半歩もないくらい近づいていた。
「リディア」
耳元で促されて仕方なく顔を上げると、すぐそばにフレイの顔があった。おそらく、昨夜アーシュやギルトラッドと踊ったときよりも近い距離――そこから、自分と同じ黒の瞳がじっとこちらを見つめていた。だが同じ黒でも、フレイの闇色の瞳は光を撃ち抜く強さを持っている。
リディアは瞬くこともできずにただ弟を見上げた。
「……お前、嘘つくの下手すぎ」
しばらくすると、フレイは呆れたようにため息をもらした。言いながら、両手でリディアの髪をぐしゃぐしゃと乱す。
「ちょっ、なにすんの」
「あんな顔しといて、何が”大丈夫”なんだ。阿呆か」
ひとしきり姉の薄茶の猫っ毛をぼさぼさにしてから、弟はやっと手を離した。ふと真面目な表情になると、静かに告げる。
「別に、言いたくないことならそう言えばいいだろ。変に嘘つくなよ」
「フレイ…」
言葉はぶっきらぼうだったが、その裏に垣間見えるのは弟なりの心遣いだ。急に目の奥が熱くなって、リディアはぎゅっと奥歯を噛んだ。こんなに心配してくれる彼を信用することの出来ない自分が、最悪の人間に思えた。
「あー、もう、だからなんでそういう顔するんだ」
リディアが泣き出すと思ったのか、目の前では、弟が困ったように口をへの字にしている。先ほど彼自身が乱した姉の髪を、今度は指先で梳いて整える。
それでも何も答えられないでいると、ぐっと手を引かれた。体が前のめりに倒れて、すっぽりとフレイの腕の中に収まる。いつかの早朝のように抱きしめられているのだ、と気付くまでに一拍かかった。
「誰に何言われたのか知らないけど、そんなの気にする必要ないから」
無愛想な、でもこの上なく真摯な声色。身長差の関係で、フレイの声は耳の少し上のあたりから聞こえる。それが直接心に届くような気がして、リディアは薄く目を閉じた。ふれあう体温はとても温かく、彼がすぐそばに存在する生身の人間なのだと教えてくれる。もしかしたら、弟は少し照れているのかもしれない。聞こえる鼓動は、心なしか早かった。
ぽんぽんと背をなでられると、どうしてか心が落ち着く。いつのまにか自然に微笑むことができた。
「これじゃ、この前の朝靄のときと逆だね?」
「……あのときのことは忘れろ」
「えー、なんで」
「……ったく。やっともとに戻ったかと思ったらこれかよ」
くっつき合ったまま普段通りの会話をするのは、なんだかくすぐったくて不思議な感じがした。少しだけ体を離すと、リディアは腕を伸ばして弟の黒髪に触れる。さっきのお返しにぐしゃぐしゃにしてやった。
「お前な……」
「仕返し。でも、フレイはもともとくせっ毛だからあんまり変わらないね」
「あーそうですか、それはよかったですね」
半眼で見返してくる弟の口調は、いかにも面倒くさそうだ。けれど、よく見れば嫌がっていないことはすぐわかる。リディアは軽く背伸びをすると、フレイの耳元に口を寄せた。聞こえるか聞こえないかの声でつぶやく。
「ありがとう」
わざわざ、心配して顔を見に来てくれて。落ち込んでいる自分を励ましてくれて。そういう気持ちを込めたことが、おそらく通じたのだろう。彼はただリディアの背に回した手に力を入れた。
――本当に、いくら感謝してもしたりないと思う。自分には過ぎたくらいのいい弟だ。けれど、だからこそ逆に……心の中にあったもう一つの言葉を、言い出すことはできなかった。
フレイが帰った後、一人で残っていると、いつもの研究室が普段より少しだけ広く感じられた。
リディアは、誰もいない部屋の中で「ごめん」とつぶやいてみる。結局、本人には言うことが出来なかった。……あんなに側にいて、あんなに心配してもらっているのに、自分はフレイに隠し事をしている。それがとてもうしろめたく、申し訳なかった。
けれども、どうしてもまだ、ギルトラッド王子の言葉の真偽について聞き出す踏ん切りはつかなかった。だって、さっきのような些細な幸せさえも、真実を口にしたら崩れ去ってしまうかもしれないのだ。もしも弟がリディアの前世を知って態度を豹変させたら。そう考えると、悪寒が止まらない。そんなことあるわけがない、と言い切れるほどリディアは強くなかった。
相反する気持ちが、胸の内でせめぎあう。もう少しだけ心の整理をする時間が必要だった。
夕刻、複雑な気持ちを抱えたままリディアは帰宅した。出迎えてくれる魔獣がいないことに失望しながら、門をくぐる。部屋に戻る途中、召使いに呼び止められて足を止めた。なぜか、クライブに呼ばれているという。
着替える間もなく執務室に顔を出すと、兄二人が話し込んでいるのが見えた。しかし、沈みかけた西日の射し込む執務室は薄暗く、彼らの姿ははっきりとしない。明かりをつけるのも忘れるくらい、深刻な話でもしているのだろうか。
「クライブ兄さま、話って何?」
扉の側から声をかけると、クライブとアーシュが同時に振り返った。窓を背にしているせいで、その姿はほとんど真黒の影に近い。
「……ああリディア、ちょうどいいところに来たね。お前に伝えることがあったんだ」
話を中断したことで周りの様子に気付いたのか、すぐにクライブがぱちりと指を鳴らした。室内に暖色の照明が灯り、執務室は急に人の居場所らしくなった。
「昨日の夜会や、これからのことだけど……」
言いながら、上の兄はソファを指す。勧められるままにアーシュの隣に腰掛けて、リディアはクライブの話に耳を傾けた。




