31. 春の夜風
ホールに残されたクライブとギルトラッドの間には、何とも言えない微妙な空気が流れていた。二人とも、押し黙ったままマリエルとリディアが薔薇の間から出て行くのを目線で追う。
少女たちの姿が完全に視界から消えた時、ようやく彼らはお互いに向き直った。
「どうも、先ほどは妹が大変失礼いたしました」
先に口を開いたのはクライブだ。深く丁寧に一礼して、妹の非礼を詫びる。その顔に浮かべられているのは、ふわりと優しげな微笑み。彼の本性を知らない者ならば、誰一人その言葉が本心と真逆のものだとは気付かないだろう。
「いや、それはかまわないのだが。踊っている最中に、急に気分が悪くなったようだ。体調でも悪かったのか?」
「……そういう話は、聞いていませんね。時に、殿下。妹とはどのような話を?どうも、拝見したところ、ダンスよりも会話に夢中、といったご様子でしたが」
「見ていたのか。趣味の悪いことだ」
クライブの言葉に、第二王子は明らかに顔をしかめた。
「少し世間話をしていただけだ。彼女とは、同じ学院の生徒だしな」
「へえ、世間話を?殿下には、わざわざこの夜会でダンスに誘ってでも、妹と話したい”世間話”があったんですね?」
あいかわらずにこにことしながら、クライブは言葉を紡いだ。しかし、表情とは裏腹に、彼のまとう空気は非常に冷ややかだ。
彼らの頭上では、なぜか、きらびやかなはずのシャンデリアが翳り始めていた。どす黒い靄のようなものがホールの天井から染み出しているのだ。
「…目が笑っていないぞ、ファビウス伯爵。それと、こういった場で闇精霊を操るのはどうかと思うが」
「ああ、失礼。リデュイエーラが心配なあまり、つい精霊制御が緩んでしまいました。兄馬鹿なもので、いくつになっても妹が可愛いんですよ。お許しください」
ふふっと小首を傾げてみせるクライブを、王子は半眼で睨みつけた。しかし、相手に応えた様子はない。
現ファビウス伯爵が『闇の精霊の守護』をスキルとして持っている、というのは有名な話だった。彼の感情に呼応して、その周囲にはいつでも闇の精霊が集まるという。
「それで、本当は何をお話ししていたんですか?……教えていただけないと、心が落ち着かなくて、精霊の制御もままなりません」
「答える義理など―」
「―ああ、困ったな。精霊が暴走してしまいそうだ。薔薇の間を闇で覆う気など、私にはないというのに……。このままでは、王家主催の夜会が台無しになってしまいますね?こんな些細なことでお開きになったとあれば、王家の権威の失墜にもつながるかもしれないな……」
今や、二人の間の気温は急降下していた。話している間にも、少しずつ闇が部屋を浸食していく。それは、クライブの力によるものだということがわからないように、巧妙に制御されてホールの照明を覆っていった。
談笑していた人々は、何事かといぶかしげに天井を見上げ、ざわめき出している。混乱が起きるのも時間の問題だった。
「……話せばいいんだろう、話せば」
ギルトラッドが根負けしたのは、それからすぐのこと。彼がそう言った瞬間、室内の闇の膨張がぴたりと止まった。
「わかっていただけて何よりです」
クライブがにっこりと目を三日月型に細めたのと、天井を覆う闇が晴れたのは、完全に同時だった。
◇◇
「ここなら、あまり人が来ませんわ」
マリエルがリディアを連れてきたのは、薔薇の間から少し離れた位置にある小部屋だった。さすがに王宮内だけあって美しく整えらているが、二人の他に人影はない。来るまでに通った通路も同様で、最低限の明かりが灯されているだけだった。
休息や密談やその他諸々の艶っぽい用途のため、夜会の折には必ずこういった場所が用意されている。いずれの場合も人気が少ないことが求められるため、使用人たちも用がない限りこの辺りには近づかない。その静けさが、今のリディアにはありがたかった。
「とりあえず、体を休めたほうがいいですわ。楽にしてくださいまし」
親友の言葉に甘えて、長椅子に浅く腰掛ける。その間にも、マリエルは手際よくクッションを整え、水差しを用意し、窓を開けて新鮮な夜気を入れる。人を介抱することに慣れた様子だった。
(そっか、マリエルは白魔術科で治癒の術者として訓練してるんだもんね。当たり前か……)
学院で学ぶ彼女は、一人では着替えも出来ないようなただの深窓の令嬢とは違う。おそらく、何か明確な将来像を抱いて、そのために毎日白魔術科で学んでいるのだ。ぼんやりと彼女の動きを目で追いながら、リディアは心の表層の方でそんなことを思う。
一種の現実逃避かもしれない。本当は、頭の中ではまだ先ほどの王子の言葉がぐるぐると回っていたのだから。
(ああもう、何をどう考えればいいのか…)
マリエルの様子に、普段と変わったところはなかった。リディアの気配が異常だということに気付いているのかいないのか、判別するのは難しい。疑い出すときりがなくて、どうしたらいいのかわからなくなる。
「はい、どうぞ」
思わず頭を押さえたリディアの前に差し出されたのは、水の入ったグラスだった。顔を上げると、部屋を動き回っていたはずのマリエルが、いつのまにか正面に座っていた。サファイアブルーの瞳が、心配げにこちらを見つめている。
「あ……ごめんね、何から何まで……」
「私はちっともかまいませんわ。それより、今はこちらを」
マリエルの白い手がグラスを指し示す。大人しく、差し出された冷たい水を飲むと、混乱していた頭が幾分かすっきりした。
「えっと、ありがとう、マリエル」
「いえ、気分が治ったのなら良かったです。顔色も少し戻ったようですわね」
「うん、ちょっとさっきは取り乱してたみたい。もう大丈夫」
リディアは、親友を安心させようと微笑みを作る。たとえどう思われていようと、マリエルがリディアにとって大事な友人であることに変わりはない。心配も迷惑もかけたくなかった。
「……先ほどはギルトラッド殿下と一緒にいたようですけれど、何かありましたの?」
「え?ううん、何もないよ。夜会って初めてだから、少し緊張しちゃっただけ。王子様と踊ることになるなんて思わなかったしね」
相変わらず鋭い彼女に、内心どきりとするが、なんとか言い繕う。マリエルは一瞬不審げな表情を見せたが、口に出しては何も言わなかった。代わりに、空になったグラスに再び水を注ぐ。グラスの中で溶けかけた氷が崩れ、カラン、と涼やかな音を立てた。
「もう一杯いかが?」
「あ、うん、ありがと。……私、もうちょっとここで休んでいくよ。マリエルは、先に戻ってて?」
「大丈夫ですの?」
「うん、ちょっと風に当たりたいだけだから。しばらくしたらあっちに戻るよ」
「そう……。わかりましたわ」
マリエルは、ふっと息をつくようにそう言って、立ち上がった。こちらを気にするように振り返りながらも、薔薇の間へ引き返していく。
その後ろ姿を見送って、リディアはぼすりと長椅子に背を沈めた。背後の窓からは、早春の夜風が流れ込んできている。頬に当たるその冷たさが今は心地よくて、まぶたを閉じた。
(ああ、ちょっともう、つかれた……)
色々なことがありすぎて、頭も心も追いつかない。リディアはこういうことは苦手だった。しばらく、そのままの姿勢で体の力を抜く。できればもう薔薇の間には戻りたくなかった。あの場にギルトラッド王子がいることを考えると、余計に。
(ダメだ、でも、ちゃんとしなきゃ。……戻ろう)
リディアがそう決意したのは、夜風でずいぶんと体が冷えた頃だった。ぱちりと目を開き、体を起こそうと足に力を入れる。
――そのとき、ぴりぴりと肌を焼く気配を感じた。感覚で、魔術だとすぐ気付く。どことなく刺々しい印象のそれは、攻撃魔術のようだった。
「なに……?」
起き上がって後ろを振り返ると、窓の向こう、夜の暗がりから濃密な魔力の気配が伝わってくる。よくよく耳を澄ませば、術者が詠唱する声もかすかに聞こえた。
「これは……風の攻撃魔術?」
気付いて、はっと顔をこわばらせる。術は、明らかにリディアを標的として構築されていた。




