28. 王宮へ
ほの暗い夕刻の街並が、窓の外を流れていく。まもなく日没を迎える王都の大通りでは、ところどころに設置された魔術灯が点灯し始めていた。夜の訪れを感知してちかちかと瞬き、オレンジ色の暖かそうな光が灯る。揺れる馬車の中で、リディアの黒い瞳は見るともなしにその光景を映し出していた。
「……緊張しているの?」
問いかけられて、はっと物思いから覚める。見ると、正面の席に座る兄が苦笑しながらこちらを見ていた。 二番目の兄、アーシュ。今夜のリディアのエスコート役だ。 今日の彼は、光沢のある上品な夜会服に身を包んでいる。一目で仕立ての良さが見てとれるそれは、華やかな容姿の彼によく似合っていた。
「ちょっとだけね」
そちらへ向き直り、顔の筋肉を緩める。しかし、上手く微笑むことができたかどうかは怪しかった。
「あまり、肩に力を入れることはないよ。今日の夜会は王の御前で開かれるものだけれど、別に特別なことをするわけじゃない。ただ、人と話して、美味しいものを食べて、少し踊るだけだから。ただの顔見せだと思えばいい」
表情の硬い妹を心配したのか、そう言いながらアーシュの手がリディアの頬に添えられる。触れてみると、兄の指先はひやりと冷たい。
「大丈夫、俺がついている。それに……今夜のお前は、本当に綺麗だ。世界中の誰よりも可愛らしいよ。自信を持ちなさい」
冷たい手と相反するように、こちらを見つめる彼の瞳は心なしか熱を帯びていた。狭い馬車の中、至近距離で伝えられる言葉に、リディアは少したじろいだ。なるほど、この兄が数々の令嬢を魅了するのもうなずける。こんな顔で、こんな声で、こんなことを言われれば、大抵の女性はくらりとしてしまうだろう。
確かに、今日のリディアは、夜会のため常とはだいぶ違う格好をしていた。 裾に向かってふわりと広がった水色のガウンドレスに、短くしていることが目立たないよう飾りをつけてまとめられた髪。大きく開いた胸元を飾るのは、ファビウスの色を表す黒剛石だ。
正直な所、今日の服装が自分に似合っているかどうかはわからない。けれど、侍女たちが時間をかけて整えてくれた格好をほめられて、悪い気はしなかった。
「ありがとう、なるべくがんばる」
兄の目を見つめ返して、目元を緩める。今度は、先ほどよりましな笑顔が作れた。アーシュのおかげで、いくらか緊張がほぐれたのかもしれない。
すると彼は、ふっと軽く息を漏らした。
「ああ、でも、本当に可愛いな。…他人になんて、見せたくないくらい――」
言いながら、リディアの頬に添えていた手を滑らせ、指先で軽く耳に触れる。そのまま自然な動作で、すっと顔を寄せた。
「リディ、くれぐれも俺以外の男と踊らないようにね」
熱のこもったまなざしで、吐息がかかるくらいの距離からのぞきこまれて、リディアは目を瞬かせた。兄の黒の瞳は、自分のものとまったく同じ色のはずなのに、なぜか宿す温度がまったく違っているように感じられたのだ。
けれど、それも一瞬のこと。すぐに、相変わらずシスコンな兄に嘆息してみせる。
「兄さま、冗談が過ぎるわ」
リディアはいつものようにちょっとあきれた顔をして、兄の胸を押し返した。アーシュは不服そうに眉を寄せたけれど、構っていられない。夜会の場で、兄以外の男性と踊らない、などということができないことはよくわかっていた。
今夜行われる夜会は、国王が主催するものだ。参加するのは爵位を持った貴族とその家族で、参加者の総勢は五百人を超える。
しかし、その中にリディアが親しくしている人はほとんどいなかった。一応魔術学院に入る前は貴族の子女が通う初等学院に通っていたので、その頃の知り合いはいるかもしれないが…その他となると、もうマリエルくらいしか思いつかない。
つまり、今夜はよく知らない人々の中に飛び込んで、そつなく伯爵令嬢を演じなくてはならないのだ。たとえアーシュという付き添いがいたとしても、周りの男性にダンスに誘われれば、断ることは難しいだろう。
ちなみに、貴族の子弟であっても魔術学院に通う男性は通常こういった場には出席しない。男性は一人前にならないと社交界には入れない、という暗黙のルールがあるのだが、魔術師は学院を卒業して初めて一人前と認められるためだ。このせいで、リディアと同い年のはずのフレイもこの場にはいなかった。――もしそんなルールがなければ、喜々として道連れにしたというのに。彼は今夜も、いつも通り自室で過ごしていることだろう。居心地のよい屋敷の中を思い出すと、少しうらやましくなる。けれども、そんなことばかりも言っていられない。
馬車を降りたリディアは、前を歩くアーシュに手を引かれ、一歩踏み出した。王宮へ続く外階段には、鮮やかな赤色の絨毯が引かれている。踊り場には細かい装飾が施された魔術灯があり、訪れる人々をほのかに照らし出していた。左手を兄の肘に添え、右手でドレスの裾を持ち上げて、一段一段ゆっくりと階段に足をのせる。上りきった先にあるとてつもなく大きな扉――あれをくぐれば、その先にあるのは、貴族たちの世界だ。思わず手に力を入れた妹に気付いたのか、アーシュが目配せして軽く微笑む。目線だけで「大丈夫」と伝えているようだ。リディアも無言でうなずき返し、再び足を進めた。
王宮の一室、薔薇の間と呼ばれるメインホール。それが今夜の会場だ。たどりついたそこには、華やかな光景が広がっていた。吹き抜けになった広大な空間に集まっているのは、思い思いにに着飾った人々。男性は黒を基調とした上下で、女性は色とりどりのドレスに身を包んでいる。彼らの頭上、天井からは豪奢なシャンデリアが吊り下げられ、きらびやかな黄金の光を放っていた。照らし出される天井画や壁の装飾は繊細かつ緻密で、それらを描いた職人の技術の高さをうかがわせる。ところどころには生花も飾られ、みずみずしい香りを会場に漂わせていた。
人で混み合う入り口付近をゆうゆうと通り抜けて、アーシュはどんどんホールの奥へ進む。途中、知人らしき人たちと軽く挨拶を交わしながらも、ほとんど足を止めない。リディアも、勝手が分からないまま必死で兄に合わせて会場を歩いた。せめて見た目は堂々として見えるよう、せいいっぱい姿勢を正して兄と腕を組む。本当はちょっと他の女性のドレスや会場の装飾が気になったが、きょろきょろと辺りを見回すわけにもいかない。
社交の場に初めて顔を出すリディアは、すでに人々に注目されているようだった。ただでさえ目立つアーシュの連れなのだから、当たり前かもしれない。「”魔性の騎士”が新しい女性を連れている」、「あの令嬢は誰なのか」、「あんな娘今まで見かけたことがない」……。混雑しているにもかかわらず、ひそひそとささやかれる声が耳に入ってくる。覚悟はしていたものの、こんなふうに好奇の目にさらされるのは初めてで、やはり戸惑ってしまう。しかし、アーシュは周りの雰囲気にはまったく動じずにゆったりと構えていたので、リディアも真似をしてできるだけ優雅に微笑みを作ってみせた。
ざわめきが遠くなり始めたころ、二人はようやく足を止めた。着いたのは、ホールでもかなり奥の位置――高位貴族だけが足を踏み入れることが許される、敷居が一段高くなった空間だ。入り口の辺りと比べると、格段に人が少ない。気のせいか、人々の格好も他より豪奢なようだった。
「ここが、ファビウス家のための場所だよ」
アーシュが指し示したのは、壁際に置かれた、食事の用意がされたテーブル。小ぶりな椅子が四脚ほど用意されている。見れば、他の壁際にも、ぽつりぽつりとテーブルが用意されていた。高位貴族にはそれぞれの休憩場所が用意されているようだ。
「座ってて、いいの?」
椅子があるということは、座って食事をしてもよいということなのだろうか。不思議に思って、リディアは兄を見上げた。
「後で、踊り疲れたらね。でもまずは、飲み物とダンスが先」
言いながら、彼は給仕から白葡萄酒を受け取る。妹にも一つ渡してから、優雅な仕草でグラスに口をつけた。緊張のためか喉が渇いていたので、リディアもためらわず自分のグラスを傾けた。すっきりした飲み口の液体が喉を潤す。完全に飲み終えると、再びアーシュが口を開いた。
「それじゃ、とりあえず踊ろうか。……お嬢さん、俺と踊っていただけますか?」
いたずらっぽく微笑んで、リディアの方へうやうやしく手を差し伸べる。貴族の正式な礼儀作法にのっとったダンスの誘いだ。不覚にも、リディアは一瞬どきりとしてしまった。
「……私も、今度からアシュ兄さまのことバカ兄って呼ぼうかな」
口ではそんなことを言いながら、そっと兄の手を取った。そのまま、二人で中央のダンスフロアへ進む。真ん中に近づくにつれて、人々の好奇の視線がまた寄せられるのがわかった。強がっていても、これが自分のお披露目のダンスになるのかと思うと、どうしても手が震えてしまう。そんなリディアに、アーシュはまた視線だけで「大丈夫」と笑いかけて、つないだ手をぎゅっと握った。
あつらえ向けに、新しい曲の演奏が始まる。お互いの目を見交わして呼吸を合わせると、二人はホールの中央で踊り始めた。




