1. リディア・ファビウス
(ごめんなさい)
リディアは、夢の中で謝っていた。
夢の中の彼女は、冷えたレールの上に身体を投げ出している。ホームから転落したのだ。遠くから大きな音が近づいていて、このままでは危険だとわかっているのに、足が痛んで思うように動かせない。どこかで、悲鳴が上がる。立ち上がれないまま、上半身だけで振り返ると、まぶしい光が目に入った。
(わたし、は…)
警笛の音があたりに響く。いつも使っていた電車。今にもこちらへ突っ込んでくるその車輪。瞬く間に近づく凶器。まもなく、彼女の身体は切り裂かれる。
ぼんやりと見開いていた目をつぶった。もう遅いと、わかっていた。
痛かったのは、よく覚えていない。ただひたすら、罪悪感でいっぱいだった。
何不自由ない暮らしをしていた。彼女には、心配してくれる家族や悩み事を相談できる友人がいて、毎日はそれなりに充実していた。けれど、それらはどこか空虚で、いつも現実感を伴わなかった。まるで、夜の砂漠を裸足で歩いているような。彼女にとって、日常は、足の裏をざらざらと流れて行く砂粒のようなものだった。
生きている感覚が薄かった、と言ってもいい。どこにも根を張ることができず、心のどこかで、いつ死んでもかまわないと思っていた。
けれど。死を目前にしたとき、気づいてしまった。
このまま死にたくない、と感じている自分に。
彼女は、後悔していた。きっと残された家族は、彼女のために泣くだろう。悲しんで、その死を嘆くだろう。
(どうして、わたしは、みんなをもっと大切にしなかったんだろう)
こんなふうに死ぬのなら、その前に、何かできたことがあったはずだ。砂粒のような毎日は、すべて彼女にとって大切な思い出だった。空虚だと感じたのは、ただ、彼女がそれに向き合っていなかったから。気付くのが、あまりにも遅すぎたけれど。
心の中に、家族の顔を思い浮かべる。
(ごめんなさい。そして、さようなら)
そうして彼女は、一度目の人生に別れを告げた。それは、もう遠い、異世界の記憶。
「…ひさびさに、昔の夢見たような気がする」
リディアは、寝台の中で目の前のもふもふのかたまりをぎゅっと抱きしめた。頭の奥では、まだ夢の光景がちらついている。あまり良い寝覚めではなかった。
この夢を見るのは、ひさしぶりだ。この世界に生まれてから、はや十六年。異世界転生をしていることに気づいたのは、四歳のときだった。ある夜唐突に熱を出して数日間寝込み、くりかえし先ほどの夢を見た。目覚めたときには、それまでの記憶に前世の記憶が混じり込んで溶け合っていたのだから、不思議な話だ。
今世の彼女は、リデュイエーラ・エル・メネス・ファビウスという。魔術の名家として高名なファビウス伯爵家の娘だ。幼い頃、実の父であるエルレイン・ファビウスに引き取られ、それ以来ずっとこの王都の伯爵家で生活している。ごく当たり前に王立魔術学院に通う毎日だ。けれど、記憶を取り戻して以来何年経ってもこうして思い出したように前世の死に際の夢を見る。
夢の中の彼女は、いつも罪悪感にさいなまれていた。
実際のところ、前世のことは死に際以外、鮮明には覚えていない。なんと言う名前で、どんな風に毎日を過ごしていたのか。
死ぬ前に思い返したはずの、家族の顔もおぼろげだ。思い出そうとすると、それは今の家族—ファビウス家の兄弟たちの顔にすり替わる。
(次は、あんなふうには死なない)
二度目の人生では、絶対に家族を大切にする、と決めていた。親はもういないけれど、兄弟たちやまわりのみんなに「家族」孝行するのだ。大切にしてくれる人を大切にするのが、一番大切なことなのだから。
決意を新たに、リディアは再びぎゅーっともふもふに顔をうずめる。柔らかい毛並みが心地よい。
「キラも、大切な家族だからね」
そう言って、その毛並みをなでる。大型犬ほどの大きさの金色の獣だ。犬と呼ぶよりは、狼といったほうがしっくりくるかもしれない。
キラは、地属性の魔獣で、リディアが前世の記憶を取り戻す前からそばにいる存在だ。落ち込んでいるときも楽しいときも、いつも一緒に過ごしてきた。
リディアの言葉に反応したのか、賢そうな金の瞳が彼女を見つめた。頭をすり寄せるようにして、ぺろぺろと彼女の顔をなめる。ありがとう、といっているようにも見えた。
「くすぐったいよ」
寝台の上で身じろぐと、リディアの猫っ毛が枕の上に広がった。やわらかいその髪は、前世で言うところのミルクティー色だ。珍しい色ではないが、彼女自身は結構気に入っている。
「さて、そろそろ起きなきゃかな」
こうして、キラと寝台でごろごろしているのは至福なのだが、もう太陽が高い位置まで昇っている。そろそろ起きなければ、遅刻してしまうかもしれない。ひとつ伸びをして、彼女は床へ足をおろした。
そのまま、自分で朝の支度を済ませると、鏡台の前に座る。肩につくくらいの長さで切りそろえた髪を、櫛で簡単にとかした。鏡の中には、小柄な少女が映っている。甘い色合いの髪に反して、その瞳は硬質な黒だ。
ふと真剣にそれを眺めて、リディアは息をついた。
(前世も、こんな顔だった)
まだ今朝の夢にひきずられているのか、そんなことを考える。鏡の少女は、こちらをじっと見つめている。前世でも、こんなふうに目ばかりが大きい、幼い顔立ちをしていた気がする。
(きっと、思考パターンも変わってないんだろうな)
リディアは、基本的に面倒なことが嫌いだ。嫌なことはなるべく避ける。自分の時間を削られるのは最大の苦痛だ。
(ああいう終わり方をしちゃったのは、そういう性格のせいなのかもしれないけど)
今世の目標は、家族を大事にすること。そして、どうでもいい人生を送らないこと。放っておくと、すべてのことが面倒になるので、意思の力で軌道修正しないといけないのだ。
人からはよく、薄情だと言われる。でも、それは心外だ。興味がないものは、どうでもいいと思ってしまうのだ。裏を返せば、それは、興味のあるものには積極的にかかわるということ。
一度なにかに没頭し始めると、我を忘れてそれにのめり込む。多少の労力や難儀は惜しまない。彼女はそういう性格だ。
そしてリディアはこの世界で、魔術研究の虜となっていた。今は、研究のためなら真夜中からドラゴン狩りに出かけることだってできる。
魔術というものはとてもおもしろい。その仕組みも、呪文の構成も、他への影響の与え方も。ファビウス家の一員として、リディアにももちろん魔術を行使する才能があった。魔術院ではそれを駆使して日々研究に取り組んでいる。
といっても、魔力はそこまで高くないのだが。弟のように禁術も使えないし、上の兄のように召喚が得意だというわけでもない。補助魔術や空間魔術といった、メジャーでない術ばかりに適性がある。少しばかり前世の記憶があるからといって、特にものすごく有利なことがあるわけではなかった。
「ま、とにかく。昨日のドラゴンの爪、早く魔術院に出さなくちゃね」
リディアは、ゆるく頭を振って、頭の中から物思いを振り払った。