25. 白魔術科食堂
ぎっ、と軋んだ音を立てて研究室の扉が開いた。かぎ慣れた匂いが鼻に届いて、ひどく心を落ち着ける。手近な台に鍵を乗せて、リディアは部屋を見回した。
(やっぱり、ここが一番落ち着くわ)
魔術学院応用科、三階の個人研究フロア。その中程にリディアの研究室はある。前にトキワを案内したときは三人で入ったため少し手狭に感じられたが、一人で過ごすには十分な広さだ。
いつもの椅子に腰をかけて、調合の素材や読みかけの魔術書を確認する。フォートべア討伐後の騒ぎで何日も部屋を空けていたので、どうなっているのか不安だったのだ。
幸いなことに、調合中の素材は無事だった。時間が経過しても劣化しないものを扱っていたのが救いだったのだろう。魔術書のほうも危険なものにはちゃんと封印がほどこされており、当面問題はなさそうだ。
ほっと息をついて、リディアは机の上に突っ伏した。一安心したら昨日からの出来事が思い出されて、それだけでなんだか体から力が抜けてしまったのだ。
(うーん、色々あったなあ。私はあり得ないほど高位の空間魔術使ったらしいし、トキワはいつのまにか密偵やってるとかいうし、フレイはびっくりするくらいお姉ちゃん子だし…)
弟は意外とあのアーシュよりもシスコンなのかもしれない、などと失礼なことを考えながら今朝のことを思い返す。あのときのフレイはとても不安そうだった。先日リディアが目の前で消えたことがよほどショックだったのだろう。テラスで別れた時の反応もどこかおかしかった。
しかもなぜか、あの後朝食の席で会ったときは全く目を合わせてくれなかったのだ。討伐前夜以来初の、兄弟四人が集まった食卓だったというのに。
(まあ、いいけどさ。複雑な年頃なんだよね、きっと)
その一言であっさり納得して、リディアは別のことに思いを馳せた。もっと重要なことを朝食の席で聞いてしまったのだ。
(それよりも…冒険者ランクだよ)
教えてくれたのは、アーシュだった。リディアが途中で消えたせいでうやむやになってしまったフォートべア討伐だが、あのあとアーシュとフレイが森を抜ける途中で一頭倒して、依頼を完遂していたというのだ。報告もすでに終わっており、依頼は達成済みらしい。
話を聞いて慌ててステータス・カードを確認したところ、リディアの冒険者ランクはばっちりDに上がっていた。リディアは討伐時あまり役立っていなかったので、なんだかずるいような気もするが。
(一応あのフォートべア、最初の四頭倒すのは私も手伝ったわけだし。ま、いいよね)
思わずほくほくとゆるんでしまう頬を押さえて、リディアはもう一度自分のステータス・カードを見てみた。何度見ても、”冒険者ランク D”の文字は変わらない。Dといえば、迷宮探索も許されるランクだ。迷宮で手に入る魔素材は、フィールドとは段違いに種類が豊富で、貴重なものも多い。研究好きのリディアとしては今すぐ飛んで行きたい気分だ。
(…行かないけど。特殊スキルのことがある以上、みんなにこれ以上迷惑かけられないし)
当たり前だが、大事な家族に怪我をさせてしまったことや、いきなり行方不明になって心配をかけたことはかなり反省している。何か対策を立てるまでは、危険なことは控えるべきだろう。…そんなことは重々承知だ。ただ、それでもうきうきしてしまうくらいの魅力が”冒険者ランク D”にはあるというだけで。
そんなことを考えるうちに昨日思い悩んでいた矛盾に再び思い至って、リディアは研究室の天井を仰いだ。
(まあ、冒険の対策はまた後で考えよう。迷宮に行ける可能性があるっていうだけでもかなりの収穫なわけだし)
体を起こすと、今度はぺちぺちと自分の頬を叩いて、気を引き締める。実は目下のところ冒険より先に考えなくてはいけないことがあった。
――間近に迫った社交シーズンのこと、である。
クライブも言っていたが、まもなく本格的に社交の季節が到来する。リディアは、一応のところ伯爵令嬢。しかも年齢は十六歳。いい加減社交界デビューしなくてはいけない年頃である。今までは「学業の妨げになるから」とさんざん拒んできたのだが、世間的に見て、今年こそは参加しなくてはならないだろう。
(兄さまに言われるまで完全に忘れてた、っていうのは秘密にしておこう)
魔術研究と冒険でいっぱいいっぱいで、貴族同士の社交のことなんて考える余裕はなかった、などとは口が裂けても言えない。
(それにしても、夜会ね…。私そういうの向いてないと思うんだけどな)
夜会――それは、きらびやかに着飾り、微笑みの下に野心を隠して社交を行う場。リディアにとっては完全に専門外だ。むしろそういうことに向いているのは、クライブやアーシュだろう。
(そうは言ってもしょうがない…。覚悟、決めなきゃね)
軽く頭を振って頭を切り替えると、目前の魔術書を手に取った。せっかく研究室に来たからには魔術の術式の一つでも覚えて帰るつもりだった。
昼時。学院全体に響く鐘の音で、リディアははっと我に返った。どうやら、午前中いっぱい魔術書を読みふけってしまったらしい。空間魔術と他属性魔術の混成について書かれたその術書は、たいへん興味深かった。黒魔術科の演習室にあったような『魔障壁』についても載っていて、かなり勉強になった気がする。
もう少し読めば、もっと色々覚えられるかもしれない―。ものすごく心惹かれたが、逡巡しつつ、ぱたんと本を閉じた。椅子から立ち上がると、臙脂色のローブの裾をさっと払う。そのまま、研究室の扉を開いて廊下に出た。昼食の約束をしていたので、遅れるわけにはいかなかったのだ。
「ドリー、マリエル、ひさしぶりー」
向かった先は、白魔術科の食堂。少し離れた位置から友人たちの姿を見つけて、リディアは声をかけた。
「あっ、リディー!ひさしぶり、元気だった?」
「おひさしぶりですわ」
二人は一斉に振り返って、軽く手を振った。亜麻色の髪のドリーと、輝くような金髪のマリエル。タイプは違えど、二人とも人の目を引く女の子だ。
ドリーはリディアと同じ臙脂色のローブに身を包んで、嬉しそうに目を輝かせている。健康的に焼けた肌に浮かぶそばかすがチャーミングだ。一方のマリエルは、金髪が映える白のローブを着て、ゆったりと微笑んでいる。さすがは侯爵令嬢というところか、まとうオーラからしてすでに高貴だった。
誘われるままに、リディアは二人のそばの席についた。すぐに給仕が注文を取りにきたので、いつも通りの野菜のスープをオーダーして二人に向き直る。
途端に、ドリーからもっともな質問が飛んだ。
「で?リディはこの何日かどこに行ってたわけ?研究フロアでも全然見かけなかったけど」
「…あー、えっと、それはまあいろいろ、ね。体調崩したりしてて」
いきなりの質問に、リディアは一瞬返答につまる。しかしクライブの有無を言わせぬ笑顔が頭をよぎって、とっさに適当なことを答えた。
「体調を?それは大変ですわ。…そういえば、先日魔物の討伐に行くとおっしゃってましたわね。まさか、それで怪我でもなさったの?」
「え?あ、うん、まあそんなところかな」
マリエルからかなり正解に近い指摘をされて、曖昧にうなずく。確かに、討伐に出かけて怪我をしたのだから嘘ではない。本当は討伐対象ではない魔物に襲われて、あまつさえ数日間行方不明になっていたわけだが、それは今のところ口外するべきではないだろう。
しかしその答えに、二人はさっと顔色を青くした。気遣うような視線でリディアを眺める。
「そんな…もう怪我は大丈夫ですの!?」
「そうだよ、もう学院に出てきたりして大丈夫?」
親友たちをだますようなことをして心苦しくなりながらも、リディアは二人を安心させるように微笑んだ。
「うん、もうすっかり治ったから心配ないよ」
「そっか、よかった」
それを聞いて、彼女たちもほっと胸をなで下ろす。そのとき、ちょうど料理が運ばれてきたため三人は一旦おしゃべりを中断した。野菜の彩りが美しいサラダ、香ばしく焼けたギャレット、チーズのたっぷり入ったリゾット、それにリディアお気に入りの野菜スープ。女性の好きそうなものばかりが並んだテーブルは、見ただけで食欲をそそる。
「おいしそう!」
「きれいですわね」
口々に料理をほめて、彼女たちは微笑み合った。女子同士で食事をするときの儀式のようなものだ。
前世の癖で「いただきます」と小さく口にしてからリディアは目の前の昼食を食べ始めた。他の二人も嬉しそうに自分の料理に手をつけている。しばらくすると、たくさんあった料理は半分ほどが空になっていた。
「あ、そういえば…」
満腹になってきたのか、ドリーがフォークを握る手を止めた。そろそろまた、おしゃべり再会の頃合いである。
「私、リディに聞きたいことがあるんだよね」
ようやく女の子たちを出せました^^
(ちなみに女子会のルールは私見ですので、あまり気にしないでください)




