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24. 未明の朝靄

 あくる朝。リディアは早朝に目を覚ました。

 昨日はトキワがいなくなった後、まだ早い時間帯に眠ってしまったのだ。…現実逃避した、ともいう。もともと怠け者ぎみなリディアにはあれ以上考えるのがもう億劫で、部屋から出る気が完全になくなってしまった。くたくたの頭を抱えてさっさと寝台のシーツに潜り込んだら、驚くほどすんなりと眠りに落ちたのだった。

 おかげで、今日の目覚めはすっきり爽快。頭痛はすっかり治っていた。


(よく寝たー。やっぱり、いろんなことがあって疲れてたのかな)


 寝台の上で盛大に伸びをして、体を起こす。夜が明けたばかりの外は少し薄暗く、起き出して活動するにはまだ早い。どうしようかな、と少し思案してからリディアは部屋着の上に薄い上掛けを羽織った。やわらかい室内靴を履いて、テラスに面した窓の所まで移動する。


(うわ、これはすごい…)


 窓の向こうに広がっていたのは、一面の朝靄(あさもや)だった。少しずつ射し込む朝の光に、きらきらと茜色の靄が輝いている。窓を開けて一歩踏み出すと、冷たい空気が頬に触れた。季節は早春。ついさっきまで雨が降っていたのか空気は湿気を帯びて、辺り全体が水の気配に覆われていた。

 誘われるようにテラスを進んで、リディアは階下の中庭を眺めた。暗くてよくわからないが、どうやら庭は朝靄の中に沈んでいるようだった。もっとよく見てみたくて、小さく『(ライト)』と口ずさむ。言葉と同時にリディアの手元にかすかな明かりが灯って、あたりをほのかに照らした。


「…リディア?」


 そのときだった。リディアの左側、テラスの奥から声がかけられたのは。その人物は、『灯』を頼りにリディアの方へと歩みを寄せる。一歩一歩近づいて、朝靄の中でも顔が判別できるほどの距離に来てから、彼は立ち止まった。


「…フレイ」


 現れたのは、弟のフレイだった。彼も自室からテラスに出ていたのだろうか。黒髪が朝露で湿り気を帯びて、しっとりと濡れている。


「おはよう。朝、早いね」

「…何となく、目が覚めただけだ」

「そっか。私も同じ」


 言葉少なに会話を交わして、リディアは軽く微笑む。こんなところで会ったのもあまり不思議ではなかった。双子のように育ったからだろうか、この弟とは妙な所で波長が合うことがよくあった。


「怪我、もういいのか?」

「うん、昨日クライブ兄さまがきれいに治してくれたよ」

「…絶対安静とかって聞いたけど」

「え?なに、それ」


 きょとんとした顔で弟を見返す。昨日の怪我の治療はあっという間に終わったし、クライブだってリディアの体調が悪くないことはわかっていたはずだと思うのだが。


「昨日はすぐ治療終わって、その後トキワとちょっと話してすぐ寝たけど…それがどうかした?」

「いや、なんでもない。ちょっと………クライブに、まただまされた」


 一旦は手を振ったフレイだったが、話しながら目を閉じてこめかみに手を当てた。


「どういうこと?」

「…あいつ、俺には”リディアは絶対安静だからしばらく部屋に近づくな”って言ったんだ。でも、トキワは夕べお前のとこに行ったんだろ?」

「うん」

「つまりは…話の邪魔させないために俺を遠ざけたってことだろ、どうせ」


 言いながら、フレイは忌々しそうに舌打ちする。あっさりとだまされたことが相当悔しかったらしい。


「あー、まあ、しょうがないよ。クライブ兄さまだもん」


 弟の肩を軽く叩いて、リディアはそうなぐさめた。おそらく、トキワがリディアの専属の密偵になるという話にはクライブも一枚噛んでいるのだろう。あの兄ならば、話の邪魔をさせないために弟をだますことくらいは平然とやってのける。まあ、それくらいでなければ貴族の当主など勤まらないだろうから、当然と言えば当然のことだ。


「…別に、気にしてないからいい」


 明らかに気にしている声音でそう言って、フレイはふいっと横を向いた。それに苦笑しつつ、つられてリディアも中庭の方を見る。そして――息を飲んだ。


「フレイ、これ…」

「ああ…」


 手の中の『灯』を消して、リディアは弟の服の裾を引っ張った。同じものに気付いたのか、彼もただ呆然と中庭を眺めていた。


 それまでの小さなことなど全て吹っ飛んでしまうような、美しい光景が目の前に広がっていた。だんだん明けていく空と、一面に広がる朝靄。太陽が昇るにつれて、ひとつひとつの粒子がきらきらと金色に輝き、中庭に光が満ちる。差し込んだ陽光が濃い靄の中で一条の線を描き、おぼろげに透ける木々の影がゆっくりとあらわになっていく―。


 しばらくの間、二人は言葉を忘れて目の前の夜明けに見入っていた。ひどく幻想的で、綺麗な景色だった。




◇◇




 どのくらい経った時だっただろうか。朝靄の中で、フレイはふと隣に立つ姉の方に目をやった。リディアの薄茶の髪は、靄の中で光を透かして淡く発光しているかのようだった。光に縁取られた横顔をのぞけば、その目はまぶしそうに細められ、明けていく空を見ている。

 姉の姿など普段から見慣れているはずなのに、数瞬、目が離せなくなってしまう。その横顔からいつもより危うげな印象を受けて、フレイは自分の胸の辺りをぎゅっとつかんだ。

 リディアは数日間も姿を消していて昨日やっと戻ってきたばかりなのだ。危うげに見えるのも、当たり前なのかもしれない―。頭をよぎる不安を否定するように、中庭に目を戻す。


「なんか、儚かったね」


 リディアがぽつりとそう口にしたのは、その後ずいぶんと経ってからだった。まだ、夢のような景色の余韻から覚めやらぬ口調。濃度の高かった朝靄は、ゆっくりと薄れ始めていた。もう少し時間が経って、日が昇りきれば完全に消えるだろう。あれだけ美しかった中庭も、いつもの朝の景色に戻る。


「そうだな」


 それだけ言ってうなずいて、フレイはもう一度姉の方に向き直った。今度は視線に気付いたのか、リディアもフレイの方を見返す。

 しかし、次の瞬間。光線の加減か、後ろから強い光が射し込んだ。フレイの見つめる前で、リディアの姿が逆光となる。急に影が生まれて、すぐそばにいるはずなのに、その表情が見えなくなる。――まるで、あの時のように。

 フレイは、思わず姉の腕をつかんでいた。


「っ」


 そのときフレイを支配していたのは、純粋な恐怖だった。彼女が驚いて目を見張るのにも構わず、ぐっとその腕を引き寄せる。


「…っリディア。もう、消えないでくれ…」


 つぶやいた言葉は、懇願するような響きとなった。とっさのことに、彼女はフレイを見つめたまま何も答えない。黒い瞳がただ自分の姿を映し出していた。どうしたらいいかわからなくて、フレイはそのまま細い体を腕の中に閉じ込めた。少しでも離したら、リディアが消えてしまうような気がしたのだ。


「もう、たくさんだ。俺の目の前でいきなり消えるなんて…」


 口から、心のままに言葉がこぼれだす。南の森で見た光景が頭に焼き付いて離れなかった。傷を負いながら、忽然と姿を消したリディア。守ろうと決めていたのに、目の前で黒い空間に飲み込まれていく姉に、自分は何をすることもできなかった。


「フレイ…?」

「どうしてお前は、いつも…」


 きっとリディアには意味が分からないだろう。それでも、言葉を止めることができなかった。フレイは姉の背に手をまわしたまま、腕に力を入れた。自分より一回り小さな、華奢な体。触れてみればそれは暖かく、鼓動も感じられる。けれど。

 こんなにはっきりと実在しているくせに、魔術師の目から見て、リディアの存在はなぜか不安定に揺らめいていることがあった。すぐにでも異空間に飲み込まれてしまいそうな不安定さ。だからこそ空間魔術の適性が高いのか、適性が高いから不安定なのか。わからないけれど、だからこそ先ほど朝靄の中で彼女を見たとき、とても不安になった。いつか靄のようにリディアも消えてしまうのではないか、と。

 フレイは言葉を切り、無言で姉の肩口に顔を埋めた。ただただ、目の前の存在を失いたくなかった。




◇◇




「えっと……」


 自分のことを抱きすくめたまま、無言になった弟。なんと声をかけたらいいのかわからなくて、リディアは手をさまよわせた。弟の姿は、まるで何かにおびえているように見えた。何か―それは彼の言葉から察するに、リディアがいなくなることに他ならない。

 少しためらった後、手を伸ばして弟の背に触れた。あやすように、一定のリズムでぽんぽんと叩く。


「ごめんね、心配かけたんだね」

「………」


 フレイは、黙ってされるがままになっていた。体をくっつけているため、その表情はうかがえない。ただ抱きしめる腕の強さから、必死さが伝わってくるだけだ。少しの間、リディアは弟の背をなで続けた。なるべくゆっくりと、できるだけ優しく。

 しばらくすると落ち着いたのか、耳元に感じる呼吸が心なしか穏やかになったような気がした。


「勝手にいなくなったりして、ほんとにごめん。もう、あんなことしないようにするから」

「……しないようにする?二度としない、じゃなくて?」

「あっ、えーと、しないように善処するっていうか、ああいう事態に陥らないように努力するっていうか…。とにかく、安心して大丈夫だから!」


 じとっと聞き返されて、リディアは焦って説明した。特殊スキルのことがある以上、二度とあんなことはしない、とは断言できなかった。それでも弟に安心してほしくて言葉を重ねる。しかしフレイは腕の力を少し緩めただけで、離れようとはしなかった。


「…信用できない。お前そう言っておいて、すぐやばいことに顔突っ込むし」

「そんなこと、ない…と思う、多分…」


 語尾を濁しつつ、弟の服を引っ張る。そろそろ、落ち着いたのなら離してほしいと思ったのだ。耳元でしゃべられるとくすぐったくてしょうがない。


「それに…お前、いつもそのままいなくなりそうな雰囲気があるし」

「…?」


 妙なことを言う弟に、内心首を傾げる。しかしフレイはそれ以上言葉を続けることなく、また腕に力を込めただけだった。何か考え込んでいるのかもしれない。


「…どうかした?」

「…いや、別に」


 彼はそう言って、ようやく腕を解いた。リディアは一歩下がって、再び中庭の方を見る。あれほど濃かった朝靄はすっかり晴れ、空は朝の光に覆われていた。

 二人の間に冷たい空気が入り込んで、それまで密着して暖かかった体がたちまち冷える。


「結構、寒いね」


 なんとなく気恥ずかしくなって、リディアは隣のフレイに微笑みかけた。彼に抱きつかれたことなど、幼い頃の記憶をたどってもほとんどなかったような気がする。

 でも、こういうのも姉弟らしくて、たまにはいいのかもしれない。弟にこんなに心配してもらえるなんて、姉冥利に尽きるありがたいことなわけだし。そんなことを考えながら、思ったままのことを口にした。


「なんか、私、嬉しかった。フレイがこんなに思ってくれているなんて…。ありがと、ね」


 言いながら、少しはにかんで弟を見上げる。フレイは、その言葉に一瞬目を見開いてからうつむいた。見ると、その耳は真っ赤になっている。


「フレイ?」

「…っ、なんでもない」


 下から見上げるような形でのぞき込むと、彼は口元を手で覆った。なぜか視線が左右に泳いでいる。


「そろそろ朝だし、支度したほうがいい。俺も、部屋に帰る」


 慌ただしくそう言うと、彼はすぐにきびすを返した。



 残されたリディアは、不思議に思いながらその背中を見送った。我に返った弟が恥ずかしさのあまりいてもたってもいられない状態だった、なんてことには気付くはずもなかった。


2013.1.5 改稿しました。

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