19. 心地よい薄闇(2)
「ひさしぶりだね、リディア。少し見ないうちに、ずいぶん大人っぽくなった」
突然現れた彼は、そう言って目を細めた。
リディアはあっけにとられて数瞬固まった。ただただ目の前の人物をぽかんと見つめる。
つややかな黒い髪に、ファビウス家を象徴する黒い目。四十代半ばという年齢を感じさせない綺麗な姿勢の細い立ち姿。どこか退廃的な雰囲気の漂う、垂れ目気味の甘い顔立ち。そして、目尻の小さなほくろ。—どこをどう見ても、それはリディアの父エルレインそのものだった。
「なんで、お父さまが…?」
一年以上前に亡くなったはずの父が、なぜ今目の前にいるのか。わけがわからなくてリディアは混乱した。ただでさえわからないことだらけなのに、この上幽霊まで現れるとは。
「なんで?なんでと聞きたいのはこちらの方だよ。お前こそ、どうしてこんなところに来てしまったんだ」
「こんなところって…お父さま、ここはいったいどこなの?私、気付いたらここにいて」
エルレインの言葉には多少非難するような調子があったが、それに気付かないままリディアはすがるように問いかけた。今の不可思議な状況がなんなのか教えてくれるなら、目の前の父が幽霊であろうと何であろうと構わないような気分だった。
「やれやれ、本当に困った子だね」
軽く息をついて、エルレインは娘に苦笑してみせた。
「ここは、常世と現世の"狭間"。—死者の国と生者の国の間にある空間だよ」
言いながら、彼は腕を伸ばしてぐるりと周りの景色を指し示した。つられて、リディアも自分たちの周囲を確かめる。薄く発光する不思議な灰色の空間。心地良い薄闇。何もないこの場で、動くものは彼らの他にない。
父の言葉を頭の中で整理して、リディアは恐ろしい結論に思い至った。
「…じゃあ、私、また死んだの?」
魔物に襲われて、キラとともに死んだのだろうか。前世から数えて、二度目の死?それならば、亡くなった父が当たり前のようにリディアの前にいることも説明がつく。
「いや、死んではいないよ」
深刻な顔で自分の死について考え始めたリディアを制止して、エルレインが言葉を続けた。
「お前が『次元移動』を使って自分でここに飛んできたんだ。それに、言っただろう、ここは”狭間”だ。私のような死者が住む国とは違う。永遠の薄闇が支配する、時間の概念のない空間だ」
「え…?どういうこと?私が、自分で、飛んできた…?」
「覚えていないのも無理はないけれどね。おそらくお前は、キラを助けるために空間魔術を使ったんだよ。現世にいれば、キラの体は死を待つのみだった。だから、無意識のうちに、時間の進むことのない―傷の悪化することのないこの空間へ連れてきたんだろう」
言われて、リディアの頭にかすかに記憶がよみがえる。魔物に傷つけられてぐったり横たわったキラ。何度かけても効くことのなかった『治癒』。あのときの絶望感、無力感、後悔…。思い出すと、それだけで胸が締め付けられた。
「…私、あのとき……そう、何があってもキラを死なせたくないと思った」
「やはりね。その思いに反応して、次元が開いたんだ」
うつむくリディアの髪を撫でながら、エルレインは納得がいったようにうなずいた。しかし、娘の隣の安らかに眠るキラの姿を見つめると、「だけど」と顔を歪める。
「だけどリディア、それでは根本的な解決にはならないよ。このままここから出ればキラは死んでしまうだろう。ここは時間の概念がない空間だから、傷の進行が押さえられているだけだ」
「っ、そんな…」
リディアははじかれたように顔を上げた。目を見開いて父の瞳を見つめる。じっと真剣な父のまなざしは、その言葉が真実であることを如実に語っていた。
嫌だ、とリディアの心の中で叫び声が上がった。キラを失いたくない。大切な家族、リディアの最愛の魔獣。失うくらいなら、どんなことでもする。死ぬなんて、そんなことさせない。だって、今、キラは生きている。まだ、暖かいのだ。さっきそう喜んだばかりなのに、それはぬか喜びだったというのか。
胸のうちに激しい思いが渦巻いて、リディアはそれ以上言葉を発することができなかった。
顔を上げたまま押し黙った娘を、エルレインは痛ましそうに眺めた。リディアとキラの深いつながりのことは知っていたから、今娘がどんな気持ちでいるのか、手に取るようにわかったのだ。しかし、打開策はないわけではなかった。
「大丈夫、救う方法はある。もし、お前がどうしてもキラを殺したくないのならば…今この場で、正式に契約をしなさい」
魔獣とその主の正式な契約。かつて、エルレイン自身がメイと交わしていたものだ。
「…契約?」
「ああ。命を共にする契約だ。お前とキラは出会った時から半分以上契約しているようなものだったようだけど、正式な儀式はまだしていないのだろう?正式な契約を交わせば、魔獣は容易に死ぬことはない。今ここで、それをすればいいだけだ」
いぶかしげな顔をしていたリディアは、その言葉に今度こそ目を見開いた。
「…それだけで、いいの?それだけで、キラは助かるの?」
「ああ。…少し待ちなさい」
エルレインは複雑な表情でうなずいた。そして眠る魔獣の顔にそっと片手をかざし、力を送る。しばらくそうした後、「起きなさい」とやわらかく声をかけた。すると、それに反応したかのようにぴくりとまぶたが動いてキラが薄く目を開けた。数回瞬くと、すぐに起き上がってぴんと耳を立てる。
「キラ…!」
目覚めた魔獣を、リディアはいとおしげになでた。父はそれをだまって見つめている。心なしか、エルレインの体は先ほどより薄い色合いになっているようだった。背後の灰色の周壁が透けて見えるような。
振り返って父の姿を見たリディアは、一瞬いぶかしげに眉をひそめた。しかし、今はキラのことが先決と考えて契約のことを尋ねる。
「お父さま、それで契約って…」
「ああ、そう難しいことじゃないよ。リディア、まずお前がキラに尋ねるんだ。『汝、我とともにあることを望むか』と。了承なら魔獣はお前の足元に伏せるだろう。そうしたら、お前の血を一滴与える。魔獣がそれを嚥下すれば、契約は成立だ」
「…それだけ?」
「そうだ。ただし…契約をしてしまえば、お前たちの関係は今までのようにはいかなくなるかもしれない。それでも、契約を望むか?」
「よく、わからないけど…それでキラの命が救えるなら、私なんだってするよ」
エルレインの忠告に対して、リディアはきっぱりとそう言い切った。凛とまっすぐなまなざしが、父の目を射抜く。エルレインはそれ以上娘を止めることはせず、一歩後ろへ下がった。娘と魔獣が向き合いやすいように少し距離を取る。契約の儀式は、一対一で行わなければならない。
リディアは、キラに向き直った。賢い魔獣は、二人のやり取りを理解していたのか、そばで動かず大人しくしていた。同じ高さに目線を合わせて、リディアは淀みなく言う。
「キラ。『汝、我とともにあることを望むか』」
キラは、まったく迷う仕草も見せず、リディアの足元に伏した。ただ金の瞳でじっと主を見守っている。
リディアは風の魔術で指先の皮膚を薄く切り裂いて、血を流した。それをそっと魔獣の口元に持っていく。キラはぺろりと指先の血をなめた。そして…飲み込む。
途端に、体中の血が沸騰するような熱さに襲われて、リディアは自分の身を抱きしめた。見れば、キラも伏せたまま何かをこらえるように体に力を入れている。まるで血で結びついたかのような不思議な連帯感が彼らに芽生えていた。
「…これで、契約は成立した。現世に戻ってもお前の魔獣は死ぬことはないだろう」
横で儀式を眺めていたエルレインが、そう宣言する。しかしなぜか、その声と同時にキラがリディアの影に吸い込まれるように消えた。
突然のことに瞠目するリディア。それをなだめるように、父は言葉を続けた。
「ただ、キラの傷は深い。契約の力があったとしてもすぐには癒えないから、今は休息することが必要だ。心配ない、しばらく時が経てばお前のもとに戻るだろう」
「…ほんとうに?」
「ああ、大丈夫だ。昔、メイも同じようにしていたから。正式に契約した魔獣は、こうやって傷を癒すんだよ」
「…そ、っか…よか、った」
安堵したら一気に力が抜けて、リディアはくたりと座りこみそうになった。次いで、最初に感じた奇妙な眠気が襲う。しかし、その腕を父が捕まえて支えた。
「さあ、もうお前はこんなところにいてはいけないよ。ここ”狭間”は闇の力が濃い。ファビウスの者にとって心地は良いだろうけれど…ずっといれば、捕らえられてしまう。ここでまたお前が眠れば、二度と目覚めることはないはずだ。…薄闇に溶けてしまう前に、早く現世に戻りなさい。私のようになってはいけない」
そう言うエルレインの体は、半分灰色の空間に溶けかかっていた。先ほどキラを目覚めさせたあたりから、どんどん色が薄くなって来ているのだ。今はぼんやりした光の明滅に合わせて、ほとんど透き通ってしまっている状態だ。
「お父さま、体が…!」
「うん、私はもう、仕方がないんだよ。死者とはこういうものだ。私は本来は、ここではなく死の国の住人なのだから」
エルレインはふわりと微笑んだ。手をかざして、何事か小さくつぶやく。するとリディアの周囲の薄闇が明るく晴れはじめた。空間が歪んで、別の場所へつながっていく。しかし、その力の放出に呼応するように、エルレイン自身の姿はどんどん薄くなって消えていった。
「リディア。これからもお前にはさまざまなことが起こるだろう。けれど…変化を恐れてはいけないよ」
最後にそう言い残して、エルレインは完全に姿を消した。
灰色の”狭間”の空間と父親が目の前から消えていくのを見ながら、リディアは目を閉じた。父の最後の言葉が、妙に心に残って離れなかった。




