18. 心地よい薄闇(1)
二日後。いたずらに時間ばかりが過ぎ、依然としてリディアの行方はわからなかった。ノーヴァの街中が国王生誕祭のにぎやかな雰囲気に包まれる中、ファビウス家に流れる空気だけは暗く重々しい。
「フレイ」
「…トキワか。何か、手がかりは見つかったか?」
屋敷の広間に姿を現したトキワに、焦燥しきった様子のフレイが尋ねた。あまり寝ていないのだろう、目が赤い。
トキワは、その言葉にゆっくりと首を横に振った。彼にも、普段の明るい表情はない。
「街の中はほとんど隅から隅まで探したけど、どこにもいない。城壁の外も探して、いくつか空間の歪み見つけたけど…リディアと直接関係あるのはないみたい」
「そうか」
「どこ、行っちゃったのかな…」
「……」
二人は、暗い顔で黙り込んだ。重い沈黙が満ちる。大時計が時を刻む音だけが、静まり返った広間に響いた。
そのとき、広間の隅から黒い毛並みの魔獣が現れた。メイだ。いつものようにはしゃいでじゃれつくことはせず、すべるような足取りで二人の足元に歩み寄る。
「メイ…」
フレイが手を伸ばすと、メイは静かに頭をすり寄せた。まるで、元気のない二人を心配しているかのように。そんな仕草をすると、メイはキラにそっくりだった。それも当然かもしれない。魔獣も、親子ならば似るものだ。
黒い狼の耳元をなでながら、フレイは深く長い息をついた。
「メイ、お前も母親なら…キラがどこに行ったか知らないか。キラは…リディアは、どこに行ったんだ…」
そのつぶやきに、答えられる者はいなかった。
◇◇
リディアは、心地よいまどろみの中にいた。ゆらりゆらりと規則的に訪れる振動が眠気を誘う。そのまま、どこまでも眠りに溶けていってしまいそうな感覚があった。
けれど、ふいに何か大切なことを忘れているような気がして、まどろみながら顔をしかめた。誰かに呼ばれているような、このままここで眠ってはいけないような、そんな気分。眠気にあらがうように、ゆるゆると目を開いた。
目に入ってきたのは、うすぼんやりとした空間。曖昧な色身の薄い闇が広がっている。褪せたグレーが一面に広がるその景色は、明け方のようにも夕暮れのようにも感じられた。
「ここ、どこ…?」
つぶやいた言葉は、周りの薄闇に吸い込まれたように、共鳴することなくすぐに消える。
「…?」
起き抜けで、意識がはっきりしない。リディアは手をついて体を起こした。触れてみた地面は羽毛のようにやわらかく、周囲と同じくぼんやりと発光している。灰色の光が広がるばかりの空間は、静かでとても心地がよかった。
―どうやら、自分は何もない空間に横たわっていたらしい。ゆっくりと瞬きながらそう結論づけて、リディアは自分の周囲を見渡した。
すぐに、そばで金色の生き物が丸くなっていることに気付く。見慣れたその毛並みには、戦闘で負った傷が無惨に残っていた。
「っ、キラ…」
途端に、ぼんやりしていたリディアの頭は急速に冷えた。森での戦闘の記憶が一気によみがえって、一瞬パニックに陥りかける。そう、キラはリディアを魔物から守って全身に傷を負ったのだ。赤い人面の獅子、キラの身を焼いた炎、首筋に突き立てられそうになった牙…。思い出して、ぞっと背筋が凍る。
しかし、よく見れば、キラはじっと身動きせず眠っているだけのようだった。呼吸に合わせて背がかすかに上下している。傷を避けながらそっと触れてみると、その体はほんのりと暖かかった。
「生き、てる…。よかった、よかったぁ…」
安堵のあまり涙が浮かんで、視界がにじむ。手で拭うこともせず、リディアはぽろぽろと泣いた。
彼女にとって、キラはかけがえのないパートナーだった。幼い頃からずっとそばにいてくれる、唯一無二の存在。物心がついたときにはもう、隣にいた。一番古い思い出は、リディアがまだ辺境の村で母親と暮らしていた頃にさかのぼる。毎日、一緒に外で遊んで、一緒にごはんを食べて、一緒に眠って…いつも共に過ごしていた。
そして、十二年前—リディアが前世の記憶を取り戻したとき。周りの人間たちが次々と態度を変える中、キラだけは変わらずじっと隣にいてくれた。優しげな金の瞳で主を見つめて、周りからかばうように身を寄せて。
王都から父親が迎えに来るまでの数年間、キラがいなければリディアはきっと耐えることができなかっただろう。この優しい金の獣に、何度救われたかわからない。
言葉にできない熱い気持ちが込み上げて、何度も何度もキラの背をなでた。涙が止まるまでそれを繰り返して…ふいに、不思議なことに気がついた。目をこすって、真剣な表情で目の前の魔獣の体を見つめる。
キラの傷は、相当な深手だった。脇腹の爪痕は体の内部まで届いているし、前足の付け根付近の火傷は黒くただれている。眠るキラの呼吸はとても穏やかだが、傷だけ見ればとても安らかに休息できるような状態とは思えない。
(…?なにか、おかしい?)
そういえば、リディア自身も傷を負っているはずだ。気を失う前、背中が燃えるように熱かったことを思い出す。自分の背に手を伸ばして、魔物の爪に引っ掻かれたはずの部分に触れてみた。どうやら、服が破けて皮膚が露出している部分があるようだった。なめらかなはずの背に、ざらざらとした感触の血が凝固した傷があるのがわかる。しかし、さわってみても少しも痛くない。
(なにこれ、どういうこと?)
リディアは、確かに魔物に襲われたはずだ。マンティコアという赤い化け物に背中を裂かれたのだと思う。倒れて意識を失って、次に目を覚ましたとき、キラが戦っているのを見た。キラもそのとき、火傷や怪我を負っていた。
「…あの後、どうなったんだっけ?」
傷を負って動けなくなったキラの首筋に、魔物が噛み付こうとした。そこまでは覚えている。だけど、そこから今の状況につながらない。魔物はどうなったのか、一緒にいた兄弟たちはどうなったのか、自分たちはなぜこんなところにいるのか、どうして傷は痛まないのか。考え出すと、疑問ばかりが頭をめぐった。
「覚えていないの?」
そんなリディアの背後から、唐突に言葉がかけられた。苦笑したような声色。それはリディアのよく知る声だった。いや、正確には、よく知っていたというべきか。もう二度と聞くことが出来ないはずの、声。
おそるおそる振り返る。背後の薄闇の空間に立ってこちらを見つめていたのは——
「お、お父さま…?」
死んだはずの、父エルレイン・ファビウスだった。
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今回からまたリディア視点となります。少し長くなるので一旦区切ります。




