17. 兄たちの思い
王都の自宅に戻ったアーシュは、真っ先にクライブの部屋に向かった。鎧を脱ぐ間も惜しんで、急ぎ足で住み慣れた屋敷を歩く。
「兄上、失礼する」
かつかつ、と形ばかりのノックをして、返事も待たずに兄の部屋の扉を勢いよく開けた。
そこは、黒い絨毯の敷き詰められた執務室。置いてあるのは執務机、書棚、応接台、ソファ…。すべて、質は良いが華美ではない家具ばかりだ。実用的に配置されたそれらは、クライブが家で仕事をするときに使用するためのものだった。
「…アーシュ?」
机に向かって書類に目を通していたクライブは、扉の音に気付いて目を上げた。突然の来訪者が弟だとわかると、軽く首をかしげる。動きに合わせて銀の髪がさらさらと流れた。
「どうしたんだい、早いね。今日はリディアやフレイと討伐に行ってたはずだろう?帰りは夜になると思っていたのだけど」
「…急用でね」
短い、必要最低限の返答。見ればアーシュは魔物の返り血を浴びた鎧のままの姿だ。ただならぬ様子に、クライブはすっと目を細めた。笑顔のままなのはいつもと同じだが、身にまとう真剣さがぐっと増す。
「わかった。用件を、聞こうか」
部屋に入るよう弟をうながすと、クライブは座ったまま机の上で手を組んで話を聞く体勢をとった。もちろん、人払いをすることも忘れなかった。
「…そんなことが…」
順調に進んでいたフォートべア討伐、急に現れたマンティコア、襲われたリディアの負傷、それを助けてキラが深手を負ったこと、リディアが空間魔術で魔物を撃退したこと、そしてそのままキラと共に姿を消したこと…。
今日南の森で起こったことの顛末を聞いて、クライブは軽く頭を押さえる。特に妹の負傷のくだりでは、一瞬笑顔を崩して歪んだ表情を見せた。
それにしても、簡単に事情を聞いただけでも問題は山積みだった。
「『次元移動』か…。少し厄介だな」
「やはり兄上はあの術を知っているのか?」
「闇属性が関わっているからね、闇の精霊に聞けば多少のことはわかる。もっとも、私は空間魔術の適性は高くないから、行き先をたどったりはできないけれど」
「リディアたちはどうなったと思う?」
「今の時点では、何とも。アーシュの言う通り、王都に戻っている可能性も否めない。怪我をしていたのなら、無意識にどこか治療を受けられそうなところに飛んだとも考えられるからね。けれど、逆に何もない空間をさまよっている可能性もある。…王都にいる場合を考えて、とりあえず”影”を使って捜索をかけておこう」
そう言うと、クライブは一つ手を叩いた。なじみの名を呼ぶ。
「ベイゼル、ここへ」
次の瞬間、どこから現れたのか、机の側に一人の男が立っていた。焦げ茶の髪に中肉中背の、これといって特長のない風貌の男。ファビウス家の庭師、ベイゼルだ。年の頃は三十代といったところだろうか。もっと若いと言われればそうも見えるし、もっと年齢が上だと言われても納得できる、そんな容姿だ。顔など、見ている側から忘れてしまいそうなほど凡庸だった。
「あっしをお呼びですか」
彼はうやうやしく頭を下げて己の主に尋ねた。ありふれた風貌を裏切るような、隙のない身のこなしだ。それは彼がただの庭師ではないことを暗に示していた。
「ええ、仕事ですよ。…リディアとキラが行方不明です。"影"を動員して王都を捜索して下さい」
「はっ、承知いたしやした」
クライブの指示を、ベイゼルは淡々と受諾した。主家の娘が行方不明などと聞いて驚いたはずだろうに、そんな様子はまったく見せない。
その後も、クライブは彼に次々と指示を出した。どこを重点的に探るべきか、見つけた場合どのように保護するか…。細々と情報を与えながら、注文をつけていく。最後に、思い出したように「それから」と付け足した。
「それから…トキワも連れていきなさい。下層区は彼のほうが探りやすいでしょう」
「トキワも、ですか?しかしあいつはまだ半人前でして」
主の言葉を聞いて、それまで表情を変えなかったベイゼルの瞳に困惑の色が浮かぶ。ベイゼルが弟子として育てているトキワは、今年十五歳。”影”―密偵としてはまだまだ未熟だった。本格的に活動を行ったことはほとんどない。
「かまいません。人手は多いほうがいい。…では、くれぐれも、周りに気付かれることのないよう」
「了解いたしやした。情報が入り次第ご報告に上がりやす」
それ以上異を唱えることなく、”影”は速やかに部屋を去った。まるで彼がここにいたことのほうが嘘だったように、忽然と姿が見えなくなる。
「なぜ、トキワを?」
ベイゼルが去ったのを見届けて、アーシュがいぶかしげに尋ねた。
「あの子は、キラの次にリディアを探すのが上手いから。それに…最近では、リディア専属の密偵になりたいなんて言っているからね。これくらいのことはしてもらわないと」
それを聞いて、アーシュは眉根を寄せた。「あの子供、そんなことを言っているのか」などとぶつぶつ言いかけて、しかしすぐに真面目な表情に戻る。
「兄上は、あいつらに見つけられると思うか?」
「王都の近郊にいれば、必ず彼らが見つけ出すよ。それでも見つけられないとすれば、リディアはどこかとても遠い所にいるか…もしくは、亜空間をさまよっているということになる」
「亜空間、ね。俺にはどうもそのへんがよくわからないな」
「私も、リディアが召喚した空間がどんなものなのかまではわからない。…父上が存命だったら何か教えていただけたのかもしれないけれど」
彼らの父、エルレイン・ファビウスは闇を操る優秀な宮廷魔術師として活躍したかたわら、魔術の研究者としても名を馳せていた。空間魔術の適性はそう高くなかったが、術に関する知識なら誰にも引けをとらなかっただろう。しかし彼はすでにこの世にいない。
そればかりは仕方がない、とため息をついてアーシュが首を横に振った。
「今、フレイが魔術学院で空間魔術について調べている。リディアの研究室を見てみるつもりだと言っていた」
「そう。それで何か手がかりがつかめるといいね。ところで…フレイにも、口止めはしてあるんだよね?」
「もちろん。まあ、今は取り乱していてそれどころじゃない様子だったが」
弟の様子を思い出したのか、アーシュがかすかに苦笑を浮かべる。リディアの不在に取り乱すフレイを見ていると、まるで昔の自分を見ているような気分になるのだ。遠い昔になくした、若くて苦い感情。弟の前では、自分がしっかりしなくては、と考えさせられる。
アーシュが考えていたことが伝わったのか、クライブもその言葉に微苦笑を返した。大人になった彼らには、フレイのように純粋に取り乱すようなことは許されない。常に状況を把握して、冷静に立ち回らなくては。たとえ、今すぐ家を飛び出して妹を捜しにいきたい気分であったとしても。
「しかし…口止めか。やはり、今回のことは隠しておくべきなんだろうな」
「そうだね。『次元移動』のことが第一王子や宮廷の連中に知れたら、ただではすまない」
「エーレンフリート王子か…」
「うん、王子の異世界召喚の奇行は有名だから。…最近は王位継承権をめぐって宮廷もきなくさい。リディアが帰って来たときに無用のことに巻き込まれないよう、手は打っておかないとね」
雲行きが怪しくなる状況の中、ファビウス家の長男と次男は難しい顔で思い思いの考えに沈んだのだった。