15. リディアの空間魔術
少し血なまぐさい表現があります。ご注意ください。
「いやぁーっっっ!!!!」
その声は、すぐ近くでフォートべアと戦っていたアーシュの耳にも届いた。
「っ、リディ?」
妹の悲痛な叫び声に、彼はそちらを振り向こうと首をめぐらせかけた。だが、それを妨げるようにフォートべアは突進してくる。腕に持つ盾が、魔物の爪とぶつかって大きな音をたてた。
「くそっ、邪魔だ!」
渾身の力を込めて、アーシュは敵を押し返した。そこに、フレイの禁術が続く。『黒き業火』、とつぶやく声と同時に、黒く燃える炎がフォートべアを包み込んだ。いつもより格段に威力の高い魔術に、魔物の体は瞬時に灰となる。
横目でそれを確認して、アーシュとフレイはすぐさま体の向きを変えた。絶叫が聞こえた方向—リディアたちのいる方向へと。
そして、わずかな隙に状況が一変していたことを知る。あまりに異様な光景に、二人は言葉を失った。
——森の上空に、大きな赤い塊がぽつんと浮いている。
赤い塊は、生き物だった。獅子に似た体の、赤い化け物。それが、見上げる高さに浮かんでいる。人の背丈の五倍はあるだろうか、森で一番高い木の天辺に近い位値だ。もちろん、跳躍しているのではない。文字通り浮かんで、かすかに揺れている。よく見れば、その四肢は通常ならあり得ない方向にねじれていた。
上空に不自然な格好で浮かぶマンティコア。その手前には、アーシュたちに背を向けてリディアがたたずんでいた。いつの間に起き上がったのか、怪我を負って倒れていたはずが、今はすっと背筋を伸ばして立っている。その背中には、さきほど魔物の爪に引き裂かれたままの深い傷が見て取れた。
彼女は心もち右手を掲げるような格好で、軽く上を指差していた。指の先をたどれば、赤い化け物。それは、リディアの手の動きと連動するように空中で細かく揺れていた。彼女が少し手を上げれば魔物の体は上昇し、下げれば下降する。
まるで、リディアがマンティコアの動きを操っているかのように。
「あれは…!」
「リディアの、重力制御…?」
アーシュとフレイは、眼前の事態から目を放せないまま、それぞれに言葉を漏らす。フレイには、この魔術に心当たりがあった。何日か前の、姉との会話を思い出す。あのときリディアは、道具袋を使用するのに重力を制御していると言っていなかっただろうか。重力制御。それは、今の状況をよく表しているように思われた。
マンティコアの巨体を術の力だけで操るなど、信じがたいけれど―。
「重力…?空間魔術か」
弟の言葉に、アーシュが軽く目を見張った。空間魔術は亜空間と重力を扱う特殊な魔術だ。リディアはそれに、他に例を見ないほど高い適性があった。
「だとしても、杖もなしでどうやってあんなこと…」
フレイは姉の手元を見つめた。姉がいつも使っている木製の杖はそこにはない。ただ、空の手が上空を差しているだけだ。
見ている間に、リディアは指先で宙に何かを描くような動作をした。くるり、と指が弧を描くと、それにあわせて上空のマンティコアの体が回転し逆さまになる。下にいるフレイたちからも、魔物の人面が恐怖に歪んだのが見て取れた。次に何が起こるのかを、魔物も感じ取ったのだろう。
しかし、リディアはためらうことなく腕を降り下ろした。同時につぶやかれる、声。
「…『重力落下』」
その瞬間、赤い化け物の体は地面に向かって一直線に落下し始めた。浮力を失った巨体が、勢いをつけて真下へ落ちていく。それはぐんぐんと森の下生えに近づき、そして。
ぐしゃり、と地に叩き付けられた。
先ほどまでマンティコアだった破片が、あたり一面に飛び散る。見るともなしにうつむいたまま、リディアはぴたりと動きを止めた。後ろにいるフレイたちからは、その表情はうかがえない。
一拍おいて、森が静まり返る。静寂が場を支配した。木々の間を抜ける風さえ、その動きを止める。
そこに、ぴし、という金属が割れるような音が響いた。リディアの腕にはまる金の腕輪に、大きくひびが入ったのだ。
「!」
我に返ったアーシュとフレイは、リディアに声をかけようと口を開きかける。
しかし、そうする前にリディアはがっくりと地に膝をついた。糸が切れたように体から力が抜け、その場に座り込む。
「リディ!」
「リディア !」
兄弟の声にまったく反応を示さないまま、彼女はのろのろと別の方へ動き出した。背中に傷の走る体を引きずるようにして、はいずっていく。向かう先にいるのは、横たわるキラ。リディアの最愛の魔獣。先ほどの戦闘で負傷し、ぐったりと倒れ込んでいる。
「ごめんね…」
やっとのことでたどり着いたリディアは、キラに体を寄せた。荒い呼吸を繰り返す魔獣に向かって、声を絞り出すように話しかける。横を向いたため、フレイたちにも彼女の表情が見えるようになった。だがその横顔はうつろで、目にはいつもの光がない。
「ごめんね、キラ。ごめんね。すぐ、治すから…」
黒く焦げてしまった毛並みをなでながら、リディアは『治癒』とつぶやいた。淡い光がキラを包みこんで…しかし、一瞬でかき消えてしまう。キラの様子に変化はなく、傷口からは血が流れ続けていた。
「っ…」
唇を噛んで、リディアはうつむく。治癒魔術が効かない—それはつまり、もはや死が近いということ。自分の体が汚れるのもかえりみず、彼女はキラの体を抱きしめた。すでに自身の血で赤くなっていたローブが、さらに赤黒く染まる。
「いや、キラ。いやだよ、死なないで?ねえ、お願い。目、開けて…」
震える声でささやきながら、リディアは何度も『治癒』をかける。しかし、そのすべてが効果をあらわすことなく消えていった。
絶望感がリディアの顔を覆う。とめどなく涙があふれ、その頬をつたっていった。
「嘘だ…こんなの…こんなのって!!」
リディアの悲痛な声が、ふたたび森に響いた。こぼれ落ちた涙と血が、土の上にぼつぼつと染みを作っていく。
そのとき、雫の一つが、左腕にはめた腕輪に当たった。薄赤いそれは、ひびの入った金細工の上を滑り落ちるかに見えた。
しかし、次の瞬間。ぱりん、と音を立てて金の腕輪はこなごなに割れて崩れ落ちた。
突如アーシュたちの前で、空間がぶれ始める。視界に黒い線が混じり始め、森の景色がぼやけていく。平衡器官をゆさぶるようなおかしな感覚に、アーシュとフレイはよろめいた。その間にも、視界の黒は増殖していく。
ぐぐ、という耳に残る奇妙な音とともに、森の真ん中に巨大な黒い空間が出現した。奈落のように濃い闇色一色の空間。それは、リディアの真後ろから彼女を包むようにぐんぐんと広がっていく。
すぐに、リディアとその腕の中のキラはその闇に飲み込まれた。存在ごと、異空間に吸い込まれていく。黒に覆われていく足元、体、頭―。その姿が完全に見えなくなったとき、闇の増殖は唐突に終わった。広がった黒が、線のように細くなりぷつりとかき消える。後にはただ、いつも通りの森の景色が戻った。
「『次元移動』…」
止める間もないあっという間のできごとに、残されたアーシュとフレイはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
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