14. 人喰い獅子
少し血なまぐさい表現があります。ご注意ください。
前半はアーシュ視点。
簡単な討伐のはずだった。
研究好きの妹に付き合って、さほど強くない魔物を狩る。ただそれだけのこと。リディアは最近妙に無理をしているところがあったから、側で見ていて守ってあげなくてはと思っていた。
アーシュの実力からすれば、フォートべアはさほど気を張っていなくても倒せる相手だ。実際、弟たちと一緒に戦って午前中だけで四頭を狩っている。自分がいれば、この程度の戦闘で危険なことは起こるはずがない。そんなふうに考えていた。
(だけど、この、目の前に広がる光景はなんだ)
アーシュは目を見開いて、ただ眼前の光景を見つめた。一瞬、事態を飲み込むことができなかった。先ほどまで、後ろでは妹が倒したフォートべアの始末をしていた。周りには、他の敵の気配は感じられず、森の空気は穏やかだった。しかし、今、振り返ったアーシュの目の前に広がるのは―。
血だらけで地面に倒れる妹。横たわるその体は力なく、背中はぐっしょりと赤黒く濡れている。おそらく引き裂かれたローブの下には、無惨な傷が走っているのだろう。…その背は今、魔物の鋭い鉤爪に押さえつけられていた。
「マンティ、コア…」
リディアの華奢な体の上には、赤い毛皮の獅子のような魔物がのしかかっていた。獅子のような体躯に、奇妙に人間に似た顔を持つその生き物。―人喰い獅子だ。騎士隊ですら討伐に手こずる、獰猛な魔物。爪を隠して音もなく近づき、気付かれないうちに獲物を一瞬で仕留める。まさか、南の森に出現するなど。
「リディアっっ!!」
弟が叫ぶ。ふだんからは考えられないほど取り乱した声だ。我を忘れて駆け寄ろうとするその肩を、すんでのところで止めた。魔術師のフレイが突っ込んだところで形勢は悪化するだけだ。頭の中の冷静な部分がとっさにそう判断する。代わりに、アーシュは自ら槍を構えて駆け出した。
倒れたリディアと、その体を喰らおうとするマンティコア。その地点まで、アーシュからは十歩の距離。
駆けながら、マンティコアが口を開けるのを見た。それは、リディアに覆いかぶさるようにして口を開く。今にも、肩口に牙が突き立てられる。
(間に合わない!?)
手に持つ槍を投げようとして、それすらももう間に合わないことに気付く。
(…最愛の、妹が喰われる?こんなところで、こんなにあっけなく?)
そんなことは、許されるはずがない。一瞬、目の前が真っ赤に染まりかける。激情に、自分の中の魔力が渦を巻くように体を駆け巡るのを感じた。
そのとき。
どんっ、と低い音がしてマンティコアがリディアの上から吹っ飛ばされた。金色の獣が、勢いをつけて体ごとぶつかっていったのだ。
「っ、キラ…」
体当たりではじかれた魔物は、近くの木の幹に激突した。それを目の当たりにして、過剰に高められたアーシュの魔力は急速に収束する。
キラは、そのままリディアのそばで体を低く構えて臨戦態勢をとった。主人を守るように、魔物に向かってうなり声を上げる。
食事の邪魔をされたマンティコアは、すぐに体勢を立て直し、らんらんと光る目で邪魔者を見つめた。赤い獅子と金色の狼のにらみ合い。先に動いたのは、マンティコアだった。
背をそらして咆哮すると、間髪入れずにキラに躍りかかる。巨体でありながら、体重を感じさせない非常に素速い動きだ。かろうじてかわして、キラは足で土を掻いた。その動作に呼応するように、森の大地が揺れる。マンティコアの真下の地面が隆起し、腹部を突き刺すように鋭い岩が飛び出した。―だが、素早いこの敵に魔術を命中させるのは難しい。
ひらりと軽く攻撃をかわして、マンティコアは跳躍するようにキラに飛びかかる。わずかに隙の残る体に、二度目の攻撃が的確に食い込んだ。先刻リディアの背を切り裂いた爪が、今度はキラの横腹をえぐる。
「!!」
キラは倒れはしなかったものの、痛みに鳴き声をあげ、よろめいて後ずさった。金の毛並みがみるみる赤く染まる。
アーシュは槍を持つ手に力を込めた。加勢しようと、足を一歩踏み出す。だが、そこにフレイの声がかかった。
「アーシュ!新手だ!」
はっと周りを見渡せば、すぐ真横に先ほどとは別のフォートべアが近づいていた。振り向きざま、アーシュは槍を突き出す。先手を打ってその体を貫こうとしたのだ。しかし、強靭な毛皮を持った魔物は、単なる金属の穂先をいとも簡単に跳ね返した。
「くそっ、こんなときに!」
仕方なく、フォートベアを相手に盾を構える。フレイも、敵と距離をとりながらアーシュの後ろへ回り込んだ。黒魔術の詠唱を始めている。
リディアたちの方を気にしながら、アーシュは二匹目の魔物と戦い始めた。
「う…」
なにか、鳴き声のようなものが聞こえた気がして、リディアはうっすらと目を開けた。体中、とくに背中が燃えるように熱い。骨がきしむような痛みが走り、体をうまく持ち上げることができなかった。
「なに…?」
目の前に飛び込んで来たのは、キラ。しかし、いつもとなにか様子が違う。立っているだけでやっと、といった様子で足を震わせながら、それでも前に向かって構えている。美しいはずの暗い金色の毛並みが、ところどころ赤黒く汚れていた。
「キラ…?」
怪我をしているのなら治癒魔術をかけなくちゃ、と自分の杖を探す。しかし、倒れたときに吹っ飛ばされたのか、目の届く範囲に杖はなかった。そうして杖を探して目線を上げ、やっとリディアは気付く。目の前に、赤い化け物がいることに。
「っ…」
息をのんで、目を見張る。思わず後ずさりしようとして、体が転がったまま動かせないことを再認識した。まるで自分の体ではないように四肢が重い。
(そうか、私、あの化け物にやられて…)
目の前では、キラが化け物と対峙していた。しかし、明らかにキラの方が分が悪い。動けないリディアを背に守って、うまく攻撃を避けることができないのだ。
後ろからは、別の物音も聞こえた。森の下草を踏みしめる足音。固い物同士がぶつかる音。かすかに聞こえる魔術の詠唱。そして、時折混じる獣の咆哮。
(兄さまやフレイたちも、戦ってる…?ほかにも魔物がいるの…?)
首をめぐらすことができないまま、リディアは考える。その間にも、目の前の戦闘は激化していた。
マンティコアが、焦れたように人面を歪ませ、大きく吠える。すると、空中に炎の塊が出現した。みるみるうちに巨大化したそれは、宙を切っておそろしい勢いでキラとリディアに向かって飛んでくる。
炎の塊が目前に迫り、リディアはとっさに目をつぶった。—しかし、予想したような衝撃はない。
「え…?」
おそるおそる目を開けると、リディアの視界いっぱいにキラの体が映り込んでいた。炎の塊の直撃を受けて、黒く焦げた毛並み。リディアをかばって身を盾にして攻撃を防いだのだ。
「キラっ!!」
それでも、キラは倒れなかった。ふらつく体をこらえて再び構える。
その姿を、マンティコアの人面が満足げににたにたと笑って眺めていた。笑いながら、一足、二足と、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
キラは、低くうなると、構えた状態から後ろ足で跳躍した。傷だらけの体で敵にぶつかっていく。
しかし、形勢は、すでに明らかだった。怪我で力を失った攻撃は精彩を欠き、身軽なマンティコアには軽く避けられてしまう。何度もぶつかっていくキラと、それをかわしながら少しずつ攻撃の姿勢を整えるマンティコア。
「キラ、もうやめて」
見ていられない、けれど目を外すこともできない。リディアは目前の戦いにどうすることもできなかった。
四度目の体当たりが避けられたとき、キラが大きく体勢を崩した。その隙を見逃さず、マンティコアがその首に喰いかかる。鋭い牙が、背と首の間の部分に食い込んだ。
「………いや……」
深々と噛み付かれて、キラが今度こそ倒れた。力を失った四肢が、だらりと崩れ落ちる。
「こんなこと…いや……キラ……」
マンティコアが、動かなくなった魔獣の体に再び牙を剥く。目を見開いたままそれを目撃して、リディアは完全に我を失った。
「いやぁーっっっ!!!!」
絶叫が、森に響いた。