10. 応用科、研究室
学院内の回廊を通り抜けて、最奥まで進んでやっとたどり着く場所。それが、北棟だ。西棟や東棟よりひとまわり小さいこの北棟に、リディアの所属する魔術応用科はある。
扉の奥のホールは、建物と同様こじんまりしていた。吹き抜けになっているため天井は高いが、そこに取り付けられた明かり取りの窓は小さい。全体的に、薄暗い印象だ。床に敷き詰められた絨毯の色は生徒たちのローブと同じ臙脂色。ダークレッドの生地に細かく真珠色の植物模様が織り込まれている。他の棟と比べると、絢爛豪華というよりは落ち着きのある色合いだ。
「なんかちょっと…地味?」
トキワが正直な感想を述べる。その声は、人気の少ない応用科のホールによく響いた。
「地味、かもしれないね。他のとこと比べたら」
壁のタペストリーには、黒魔術科や白魔術科のような輝く美貌の人物は描かれていない。代わりに、一人の老人が描かれていた。赤く燃えるランプと分厚い魔術書を手にしている。“探究”と“知力”を司る、赤の神ザヴェロンだ。黒の神や白の女神と比べると華やかさにはだいぶ欠けている。
「だけど、落ち着いてていいところだよ。人が少ないから、静かだし」
言いながら、リディアは他の二人を連れて楽しそうにホールの螺旋階段を上っていった。
三人は、個人研究室の並ぶ三階フロアを歩いていた。壁には重そうな框戸が並んでいる。そのすべてが個人の部屋だ。
応用科では、生徒一人一人に研究室が与えられていた。他の科と違って生徒数が少ないからこそできる待遇である。
リディアは、その中の一つの前で立ち止まり、扉の鍵を開けた。重い戸をぐっと押し開く。
「ここが私の研究室。狭いけど、専用の個室なんだよ」
リディアの研究室は、本当に小さな部屋だった。三人が入っただけで窮屈な印象になる。しかし、案内するリディアは誇らしげだった。彼女にとっては秘密基地のような部屋なのだ。部屋の中には、魔術書の並ぶ本棚や作業用の台があり、棚や床、いたるところに討伐で手に入れた素材や街の外の珍しい植物などがところ狭しと置かれている。他の二人は物珍しそうに室内を眺めた。
フレイもここに入ったのは初めてだ。彼は無造作に床に転がっている魔物の爪に目を留めた。
「これ、こないだのやつか」
「そう、眠り竜の爪。一本提出しちゃったから、あともう二本しかないんだけど。新しい魔道具に使えないかと思って」
やっぱ、武器系かなあ、早く試してみたいな、とリディアはわくわくとした表情で語る。研究に関することになると途端に楽しそうになる姉に、フレイはふっと苦笑した。
「リディアは、いつもここで勉強してんの?」
「うん、勉強…っていうより研究、かなあ?魔術書を読んで新しい術式を覚えたりもするし、この机で魔道具の細工をしたり、あの釜で薬の調合をしたりもするよ」
トキワに向かって、彼女は手前の作業台や部屋の隅の大釜を指差した。釜からはうっすらと煙が上っている。
自分で示してからその煙に気付き、リディアは小さく「あっ」と叫んだ。
「どうしよ、忘れてた!昨日からレンヨン草煮詰めてたんだった!やばい〜、今朝処理しようと思ってたんだった…」
釜に駆け寄ってのぞき込むと、絶望的な表情になる。釜の中の液体は無惨なことになっていた。リディアの背中には哀愁が漂う。
そんな彼女を見て、トキワもしゅんとうなだれた。
「ごめん、リディア。もしかして、今日なんかする予定だったりした?おれ、邪魔しちゃったかな?」
「えっ?邪魔なんかじゃないよ。これは私が忘れてたのが悪いんだし」
リディアはあわてて否定する。
「確かに、今日は他の調合しようと思ってたけど…トキワは学院を見てみたかったんでしょ?それじゃあ、そっちのほうが優先に決まってるよ」
研究は大事だが、家族はそれ以上に大切だ。たとえ血がつながっていなくても、トキワは大切な家族の一人だった。
かつて、奴隷市場で目が合った小さな少年。買い取って"トキワ"と名付けたあの瞬間から、彼にとってはリディアが主だ。ないがしろにすることは簡単かもしれないけれど、きっとそれではいつか後悔するだろう。誰のことも大切にできなかった前世と、同じ轍を踏む気はなかった。
リディアは柔らかい表情を作って、「それに」と付け足した。
「トキワにはいつもお願いばっかりしてるしね」
もとはと言えば、この学院案内はリディアの”アリバイ工作”の報酬だったのだから、トキワが気にするようなことじゃない。
その気持ちが伝わったのだろう、トキワは素直に「うん」とうなずいた。リディアに顔を寄せて、こっそりと耳打ちをする。
「大丈夫、あのことなら任せといて。アシュ様にはちゃんと話合わせとくよ」
それから、体を離していたずらっぽく笑うと、とん、と軽く自分の胸を叩いた。
「”トキワ”の名にかけて約束はお守りします、お嬢サマ」
リディアがレンヨン草の後始末をする間、ほかの二人は興味深そうに研究室内のものをいじっていた。二人とも片付けを手伝うと言ってくれたのだが、大事な研究道具だからとリディアが断ったのだ。
フレイはしげしげと魔術書を眺め、トキワはおっかなびっくり魔物の羽をつついている。狭い研究室にこうして三人でいるのがなんだか可笑しくなって、リディアは大釜を洗う手を止めて思わず笑ってしまった。
「どうした?」
「どしたの?」
二人が一斉にリディアを見る。リディアは口元を覆って笑顔を隠した。
「ううん。なんでもない。これ、そろそろ釜洗い終わるから、そしたらここ出ようか。私、中央棟に依頼見に行きたいな」
フレイとトキワは異存なくうなずいた。しかしその動作がまたもそろっていたため、リディアはこらえきれず吹き出してしまったのだった。
中央棟、冒険依頼受付の窓口。魔術学院の冒険依頼受付には、フリッカの酒場と違って怪しさやいかがわしさは一切ない。掲示板に整然と張られた真っ白な依頼用紙を見ながら、リディアはそんなことを考えていた。
「あまりいい依頼はなさそうだな」
「そうだね、城壁のそばの小さい魔物討伐か、そこらへんの草の採取ばっかり。今日は調合の依頼もないみたいだし」
学院中央棟で扱う依頼は基本的に冒険者ランクFでも引き受けられるような簡単な物が多い。難易度の高い依頼は上級科に直接振り分けられるためだ。中央棟で受けられる依頼は、今のリディアには少し物足りなかった。
「そういえば、トキワもたまにベイゼルさんと街の外出てるよね?冒険者ランクいくつ?」
トキワは庭師職人のベイゼルについて隣町に出かけることがある。道中には低レベルの魔物が出現するはずだが、護衛は連れて行っていない。ベイゼルとトキワ自身で撃退しているのだろう。
「んー、おれこないだDランクになったよ。親方がちょこちょこ依頼受けて寄り道してくから、付き合わされちゃって」
トキワはさらりと答えた。その言葉に、リディアは目を見開く。
「Dランク!?じゃあ、フレイと一緒なの?私より上ってこと…?」
「あれ?リディアってまだEくらいなの?…なんかゴメン」
「いや、なんかショックだっただけ…気にしないで…」
がっくりと肩を落として、リディアは遠い目をした。あんなにがんばって依頼をこなしているのに、付き合い程度のトキワより下のランクだとは。いや、寄り道して依頼をこなすベイゼルがおかしいのかもしれないが。
リディアの中に小さな闘志が湧いた。庭師に負けてはいられない。
「…フレイ。次のフォートべアは、がんがん狩るわよ」
妙に意気込んだ姉に、フレイは「ああ」と心なしかいつもよりも力のこもった声で返答した。
普段のように「わかったわかった」とあしらわなかったあたり、彼も心の中では庭師見習いと自分が同じランクだったことに動揺していたらしい。
結局、リディアたち三人は誰にも見破られることなく学院の潜入を終え、馬車に乗って家路についた。
夕食の席では、帰っていた兄のアーシュに次の討伐にかける情熱について熱く語り、おおいに不思議そうな顔をされたのだった。