第一章③
明音の学校はすぐに授業を始める。次の授業までの空き時間、私はカバンに入れてあった教科書を出して机に入れる。ふと私に近づく足跡が聞えた。
「宮本さん」
と声を掛けられる。パッと正面を向くと男女2,3人が私を取り囲んでいた。
「へー、本当に耳が聞こえるようになったんだ」
と男子が呟くように言って、もの珍しそうに明音を見る。ちょっと、嫌な感じがして不安になった。
「ハイ、ヨロシク」
と明音がニコリと笑うと、取り囲んでいた子の一人が噴き出すように笑う。それを女子が肘で付いていた。
「うん、よろしくね」
とそう言ってそれぞれの机に向かっていった。
「なーんだ、これじゃあ、もう、いたずら出来ないじゃん」
「コラ、聞えるわよ」
と去り際の言葉が耳に入った。明音は意味が分からなかったので、あまり深く考えずに聞き流した。その頃、ちょうどチャイムが鳴り、授業の先生が入ってきた。
「おーい、席に着けー」
と先生が促す。みんな席に着いたところで号令をする。明音は慣れてきたのか今回も、みんなと揃って出来た。
「はい、じゃあ、教科書を開いて」
先生がいよいよ授業が始まる。今までちんぷんかんぷんで家に帰って全部、復習しなければいけなかった授業が、直接先生の言葉で教えてもらえる。
明音にとっては何より有難かった。塾にも通えないので誰にも教えてもらえず、教科書だけで理解しなくてはならなかった。
授業は着々と問題無く進んで行きノートに書いていく。いつもは黒板の字を書くだけだった明音だが、先生の言葉が聞けることによって、先生が注意した所なども細かく残しておく事が出来るようになった。そして、ある問題を先生が誰かに解いて貰おうとしている時である。
「じゃあ、今日は……チッ」
と突然先生が舌打ちしたのである。明音はいきなり何で舌打ちしたか分からなかった。
「最初は馬鹿娘か、仕方ない。おい、馬鹿娘」
といきなり言い出したのだ。これはあんまりにも酷いと明音は思った。いくら成績が悪くても馬鹿娘呼ばわりはいくらなんでも有り得ないと思った。
そう思って聞いていたけど、誰も席を立とうとしなかった。反発しているのだろうか。
「ったく、今日は感度が悪いな、お前だ、お前」
と先生が人差し指でその人の事を指すが立たない。やっぱり、あんな言われ方して反発しているに違いないと明音は思った。だが、それは大きな間違いだった事に気づく。
「先生、宮本さん耳が聞こえているから、ちゃんと名前で言わないと分かりませんよ」
と一人の生徒が言う。それを聞くと先生が驚いた顔をする。そして罰が悪そうな顔をした。どうやら耳が聞えるようになっていた事を忘れていたようだ。
「ああ先生、ばれちゃった。もしかしたら教育委員会に訴えられるかもしれないですよー」
と違う生徒が先生をからかった。それにクラス中の生徒が大笑いしていた。
明音は思考が停止していた。周りの笑い声がギンギンと頭に響く。そのうち心を守るためか耳が遠くなってきた。その時はっとした。
(この光景、見たことがある)
それはフラッシュバックのように頭に白黒の映像として浮かんできた。それは明音の耳が聞こえなかった時に皆が応援してくれて、笑顔で私を見守っている映像だった。そして今度はそれに段々色が付いて来た。そして遠くなっていた音が徐々に近づいてくる。そして今、現実に五感から入ってきた映像と見事に合致した。
「あははははははは……」
と笑っている声がまた耳から直接入ってくる。明音の頭は混乱して訳が分からなくなっていた。そして耳を押さえた。
(もう、聞きたくない)
そう、心の中で叫んだ。目頭が熱くなっていき目が潤み始めた。
明音は今まで大きな勘違いをしていた。耳が聞こえないことにより、みんなが明音を迎え入れて、見守っていると思い込んでいたのだ。だが、今、この瞬間、明音にとっての真実が打ち砕かれて現実が容赦なく入り込んでいた。今までの事は全部嘘だったのだと、他の話で聞くように自分も周りから受け入れられずにのけ者にされていたという事を知ってしまったのだ。
あまりの衝撃に成すすべも無く呆然と立ちすくんでいた。
「いい加減にしなさいよ、授業にならないでしょ」
そう叫ぶ声が聞こえた。それは今日の日直の声。それに、みんな白けた顔をして笑うのをやめた。
明音はぼうとする頭の中でこの映像をどこかで見た覚えがあった。それもまた耳が聞こえなかった時のものだ。いつも、私が一生懸命答えようとしていると彼女がいつも怒った顔をしているその映像とそっくりだった。
だが、明音の思考はそこで止まった。もはや考える余裕がなかった。
「ああ、宮本はもういい、その後ろ答えなさい。」
後ろで誰かが問題を答えていた。そのまま滞りなく授業は進んでいった。明音は授業を聞く気力が無くノートも書けずに呆然としていた。そして授業は終了のチャイムがなり号令に入った。明音は立つ事ができず、まるで聞えていなかったかのように反応しなかった。