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音に誘われたなら

作者: issei

黄金色の液面に浮かび上がった波紋は二重三重の輪を作った。ロックグラスの淵に当たった輪が漣の様に僅かに引いて、消える。波紋を眺めていた彼の視線が自身の左手に伸びた様で、無意識に掌を握りしめた渡瀬由紀子は苦笑いを浮かべた。二人が席に腰を据えてから店の壁時計は休む事無く働き続け、短針が指す数字を一つ上にずらしていた。


「珍しいね、そんなにゆっくりお酒を呑むなんて」


ペティナイフで角の削られた氷をグラスのなかで回しながら、由紀子の言葉に口角を上げた彼はカウンターの端に置かれた暗褐色の電球に、それは網目模様の傘が掛けられた間接照明を指で弾いた。僅かに揺れた傘から漏れる明かり受けて、彫の深い彼の表情は陰影が素早く移り変わる。手元のカシスオレンジは運ばれてきてから淀みなく、夕焼色をグラスの表面に浮かべたままだ。横目で覗いた彼は変わらずグラスを回しては、ウイスキーを僅かに喉に流し込んでいる。


「ねえ、このカクテルさ」


次の言葉を由紀子が呑みこんだのは彼が煙草に火を付けたからではない。三年前に彼と見た大海原に吸い込まれていく夕景の眩しさは写真に収める時間すら躊躇わせるものだった。だから由紀子の隣で砂浜に腰を下ろしていた彼に尋ねていた。今日と同じように煙草を燻らせていた彼の肩に寄り添いながら「この夕陽を固めたらどんな色になるのかな」と。


「どうしたの、口が開いたままだよ」


からかう様な彼の声色、併せて吐き出された紫煙が逃げ場を失って天井に取り付けられたダクトへ吸い込まれていく。煙の行方を目で追いながら由紀子は小さくかぶりを振った。そして三本の指でカクテルグラスを掴んだ。澄んだ液面が波立つ。思い出と共に呑みこんだカクテルが身体のなかへ落ちていく。


「いつも同じお酒だよね」


返ってくる彼の言葉は子供の様に無邪気なものだった。


「身体に馴染むっていうのかな、好きなんだ」


ロックグラスを目元まで運んだ彼が微笑む。よく磨かれたガラスに表情が反転して映り込む。彼の返答に心臓を鷲掴みされたような切なさが由紀子を覆った。その感情が零れでないように息を吐き出す。


「おじさん臭いな、ウイスキーなんて」


別段女性のエスコートが上手な訳でもない彼に惹かれた理由を友人に尋ねられるたびに由紀子は微笑んでいた。月とスッポンのカップルと友人に評されればスッポンは自身だと思った。気取った彼のプロポーズの言葉よりも一緒にいられる未来に恋をしていた。彼と過ごす時間はまるで一日をスロー再生にしたいほどに軽やかで、誰かが定めた時間の概念など忘れてしまう程に充実していた。


「君だっていつも同じお酒じゃないか、それに頼むだけで殆ど口を付けないし」


いつの間にか呑み終えたウイスキーに目配せをしたマスターに同じものを注文した彼が、互いの身体が触れそうで触れない距離感で拵えられたスツールで身体を半身だけ由紀子の反対側へ捻った。口に咥えられていた煙草にライターの着火口が向けられている。彼の指が滑る様にスライドすると着火石とオイルが混ざり合い小さな炎が灯った。炎の先に煙草の先端が近づくと、紙を焦がす匂いが由紀子の鼻を掠めた。横浜駅から程良く離れたこの地下室のバーが二人の特別な場所になったのは四年前だった。六脚の椅子が並んだカウンター席と三席のテーブル席が置かれた手狭な店内に足を運んだ日は由紀子の誕生日だった。その夜にこのバーでライブを行っていた女性のCDは擦り切れて今では聞く事も出来ない。それでも脳内でリフレインする楽曲が由紀子の心に沸き立たせる感情は、日付が変わる夜更けすぎに大きな掌から小さな掌へ届けられたピンクのリボンが巻かれた小箱と共に机の引き出しで眠っている。


「ここではこのお酒が一番おいしいの」


含み笑いを浮かべた彼の横顔にシャッターを切っていいなら今だ。しかし、どんなにブレの無い写真が出来上がったとしても撮影日時を巻き戻す事は出来ない。


「この店に来て君と話していると不思議な感覚になるよ」


灰の伸びた煙草を指先で叩きながら彼は続ける。彼の突然の告白に由紀子が身構える時間は無かった。壁時計を見つめると秒針が間違いなく時間を進めている。


「もう君と出逢って一カ月になるのにどうしてかな、小学校の友人と会っているみたいだ」


話した彼が眉間に皺を寄せた。手に持たれた空のグラスが揺れると氷が踊る。思考を止めるように顔を上げた彼がおもむろに口を開いた。


「そういえばまだ君の名前も聞いてなかったね、名前を教えてもらえる?」


新しくカウンターに置かれたロックグラスには真新しい液体が注がれて、彼が吐き出した煙草は店の奥に並んだ色とりどりの酒瓶に薄いベールを作り上げている。飛び跳ねた心臓に送られる血液の温度は沸騰しそうなほど熱い。取りだしたペンをペーパーに走らせた由紀子は覚悟を決めて呟いた。


「渡瀬渚」


名前の書かれた紙を持ち上げた彼は光に透かすように眺めた。一向に静まらない鼓動が耳に残響する。


「渚、か。素敵な名前だね、ご両親は海が好きなのかな?」


彼の一言に震え出した身体を止める術を由紀子は知らず、肩にかけられたマフラーの暖かさに涙を堪える事が出来なかった。感情が渦を巻く。


「ごめんなさい」


俯いた由紀子の頭に大きな掌が乗る。撫ぜる様な仕草に合わせて聞こえて来たのは懐かしい声色。


「いいんだ、ごめん、きっと俺が余計な事を言ってしまったんだね」


離れた掌の暖かさが残る身体に聞こえてきた音楽は彼が口ずさんだものだった。忘れる訳がない、そして彼が覚えている訳がない。しかし、それでもモノクロの世界に色を乗せていく様な、心地よい音楽が由紀子の涙を乾かしていく。


「素敵な歌だね」


カウンターを叩く指を止めた彼が首を傾げる。


「メロディしか覚えていないんだけどさ、このメロディを口ずさんでいると安心するんだ」


言いきった彼が勢いよくグラスを呷った。浮力を失った氷は音を立ててグラスの底に落ちる。中空で合わさった彼の双眸に纏われた光に耐えきれずに逸らした目はコルクボードのメニュー表へ移された。そこに新しくピン止めされている北欧の葡萄から絞られたという赤ワインを呑んでみたいと話していた彼はここにいない。彼が短い前髪をかき上げる。


「こんな事を話しても仕方ないんだけど」


微笑みかけた彼は煙草の空き箱を丸めた。彼の仕草が今日の終わりを告げるものだと由紀子はこの秘密の会合を通して理解していた。


「別に渡瀬さんの気を引こうとしている訳じゃないよ、でも伝えておきたくて」


彼の口から発せられた後の一言は由紀子の脳裏に彼の両親が、息子の寝息だけが聞こえる病室で漏らした呻きを蘇らせた。


「あなたが憎い訳じゃない」


視界の悪い雨の交差点だった。由紀子が覚えているのは横断歩道の直前に迫った無灯火の乗用車と上空に飛んでいった紺色の傘だけだった。一瞬の出来事に目を開けた由紀子が走り去る車の排気音に気がついたとき、自身を抱き抱えるように倒れ込んだ彼が再び恋人の名前を呼ぶ事は無かった。だから由紀子は鍵をかけた、もう二度と彼に会わないと病室で誓った。呼び止める彼の両親に頭を下げた時には既に知覚できない鎧が出来上がっていた。それなのに彼の姿だけが切り取られたはずのこの店を訪れた日に、彼はいた。由紀子が贈った不格好な手編みのマフラーをスツールの背に掛けて、二人の指定席に当たり前の様に腰を下ろしていた。それから一カ月、秘密の会合は今日で四回を数えていた。一万円札をカウンターに滑らせた彼が腰を上げた。


「マフラーは今度返してくれればいいよ」


言って、はにかんだ彼が続ける。


「ごめん、渡瀬さんと会える事が当たり前みたいに考えていた、彼氏さんに失礼だったね」


指輪を一瞥した彼が優しくマフラーを由紀子の首元から外していく。瞼をきつく閉じた由紀子は首を振っていた。彼と会う最後の日にする、それは今日ここを訪れる前に決めていた事だった。


「ちゃんと暖かくするんだよ」


耳元に聞こえた彼の声は、いままでに聞いた事が無いほど優しい響きだった。返事の無い由紀子に彼が浮かべているのは困惑した表情だろうか。胸中を巡る感情は憎しみさえも産み出していた。この関係が続く訳が無い、それならばいつか見てしまう彼の隣にいる女性を憎みたくない。彼の新しい人生を祝福したいのだ。


「それじゃあ、帰り道」


そこで一拍間を置いた彼が言葉を発する前に由紀子は口を開いていた。蜘蛛の糸のような残煙を掴むように力強く。


「ごめんなさい…あなたから逃げたのは、私」


視界に映った彼の眉根が僅かに上がる。その表情が霞んでいるのは残煙のせいだ。


「でもあなたの事が大切だから、だから私も前を向いて歩いて行くから」


彼の片肘がもう一度、カウンターに置かれた。壁掛け時計が十二時になった事を告げる。脳内でリフレインを続ける音楽だけが幸せだった過去の時間を形あるものに変えた。首に再度巻かれたマフラーの感触が柔らかい。視線を上げた先で、彼は微笑んだ。


「外は寒いかもしれないね」




店外は深夜だというのに騒がしく、浮かれた人々の様相を醸し出していた。街灯の無い舗道は夜空の星々を歓迎しているようだ。白い吐息が透明になり空気と同色に変化していく。由紀子の細い指を掴んだ彼は悪戯が見つかった子供の様に目を細める。


「渡瀬さん」


舗道に立ち尽くした彼の隣で由紀子も足を止める。春先の風がこの街に吹くまであと二月は待たなければいけないはずだった。


「なに、どうしたの」


繋がれた手から伝わる熱は不思議と暖かく、一月の気候が嘘のようだ。


「朝起きた時に覚えている夢は自分の願望だって話、信じる?」


真剣な彼の眼に吸い込まれそうになった由紀子はわざと言葉を茶化していた。


「小さい頃の夢は空を自由に飛ぶ事、その夢だけは覚えているよ」


それは確かに憧れるかもしれない、そう呟いた彼の腕に力が込められる。引き寄せられた身体はいつの間にか彼の腕の中だった。


「ずっと、夢を見ていた間、俺の名前を呼んでくれていた女性がいるんだ」


騒がしかったはずの街の喧騒が遠ざかる。首肯した由紀子を見つめる彼の瞳が揺れた。


「君は俺の名前を知っているんだね」


街路樹が風に音を立てた。月明かりの下で重なった二人の影が伸びていく先に生まれる子供の名前は決まっている。海が好きなのは両親じゃない。ブーツの踵を地面につけた由紀子は呆気にとられた彼を抱き締め返した。


「私の名前をもう忘れないで」


もう一度あなたと恋が出来るなら、由紀子は彼の背中に回した腕に力を込める。だから、聞こえなかったのだ。耳元で聞こえた彼の声に泣き崩れた由紀子には二人を繋ぎ続けたいつかのメロディが街に流れていた事に。身体を離した二人にスツールで生まれた距離はない。由紀子の心中を見透かしたように掌に返された力は優しげだ。幸せがあるのなら、由紀子は隣を歩く最愛の男性を見つめる。冬の舗道を歩く三人を見守る星々は夜空に栄えて、ただただ煌めいていた。


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