第1話―敵、小波、能力―
「ごめんね、角川くん。今店長さんいないからこんなものしか出せないの」
「いや、別にかまわない。それより不二家はここでバイトしているのか?」
通されたカウンター席に座って不二家に出されたコーヒーをすする。
どこにでもあるチェーン店のほどほどに渋くしてみましたといった既製品っぽい味。
「うん、1年生の頃からお世話になってるの。
私ね、どんくさくてよく色々な失敗して怒られちゃうんだけど
それでもやめたいって思うほどいやじゃなくてね、
店長さんはすごくよくしてくれてるよ。」
俺にとって今日日知り合ったばかりの女子と会話するのは
なんともいえない忌避感があったがそれでもなんとなく黙っているのも
どうかと思い話題を振る。
それにしても今日はもう一日一人でいたいと思っていたのだがその矢先に
これとは今日は新しい出会いだとかそういうものにめぐり
合う日と、そういうことなのだろうか。
別に知り合いが欲しいとも思わないので正直迷惑極まりない話ではある。
「ふーん、まあ俺には関係ない話なわけだが」
「あ、ごめんね。自分語りみたいなことしちゃって。
うっとうしいよね、こういうの」
「ああ」
「そ、そうだよね。ごめんね。」
「そういうすぐに謝る卑屈な所がよりいっそう。」
「あう…………」
体に押しつけるように盆を両手で持った不二家がうつむいてシュン、と
いった表情をする。
この程度の言葉で落ち込むとは何とも打たれ弱い。
ある意味純粋とも呼べる。
それは傍から見れば恐らくは利点の一つに数えられるのかもしれないが
生きていくのには苦労しそうな性格だ。
いつもの俺の分析癖が出てまだ情報の少ない不二家という人間についての分析を始めてしまう。
「で、その店長さんとやらの姿が見当たらないがどうしたんだ?」
「うん、今ねちょっと発注に手違いがあってその対応に出かけてるの」
「それで不二家は今店に一人というわけか。とはいえバイト一人に
店を任せるというのはどうなんだ。作れるメニューは限られるんだろう?」
「うん、それで店長さんにいわれて帰ってくるまでは表のプレートを
クローズにしてたはずなんだけど……」
「……ああ、ああ、そういうこと。そういうことか。」
そうか、今まで看板がクローズになっていたから今この店には俺以外の客
がいないのか。
外があんなに混み合っているのに客がいないものだからてっきり
売れていないものかと。
それで不二家の出会いがしらのセリフはその店長が帰って来たものだと
勘違いしたというわけだ。
「表のプレート、落ちてたぞ」
「え?そうなの?それで角川くんが入ってきちゃったんだ………。
じゃあかけ直しにいかないとーーーーーー」
「それで俺がかけ直しておいた」
「あ、ありがとう。」
「オープンに」
「え、えーーーっ!」
俺がひとこというごとに不二家の表情がころころと変化を見せる。
慌てたあとに安堵の表情。
かと思えばその顔が焦りを見せる。
仕草がいちいち小動物じみている。
……いかん、少し面白いと思ってしまった。
調子に乗った自分を悪いとは思いつつもさらに拍車がかってもう一言
つけたしてしまう。
「早く直さないと次の客が来てしまうかもしれないなぁ」
「そんなの困るよぉ……」
今度は落胆。
俺が何か言うたびに不二家の反応が変わる。
……楽しい、実に楽しいなぁ、これは。
心の底から湧きあがってくる征服欲が満たされていく。
まるで操り人形を操っているようじゃないか。
さながら不二家は俺というドールハウスのキャストの一人。これは!、実に!、いい!
フフ、ハハーーハッハッハッ!ハーッハッハッハッハッ!!
…
……
………
…………
……………死ねよ、俺は。途端自己嫌悪に苛まれる。
決して口と表情に出しはしないものの自分の考えていたことの
おぞましさに寒気が走った。
心の内で四つん這いになってうつむく。
気持ち悪いな、俺。反省。その意もこめて俺は椅子から立ち上がる。
「ちょっと表の看板かけ直してくる」
返事を待たず飲みかけのコーヒーカップを置いて立ち上がる。
モダンな雰囲気の漂う店内。
歩くたびに木製の床が小気味いい足音を生み出す。
そして俺が店の小洒落た装飾の施されたドアの取っ手に手をかけた時
だった。
ドゴォン!と形容するにふさわしい耳をつんざく破壊音。
まるで雷が落ちたような。
爆弾でも爆発したような。
驚きに動かしかけていた手が止まる。
「きゃっ!な、なに?」
ビクリ、と不二家が肩を震わせる。全うな常人の反応。
性格ゆえか、その表情には若干の恐怖も入り混じっている。
そして事態はそんな驚愕する暇も満足には与えてくれない。
俺が手をかけようとしていた木製の扉。
細部まで施された装飾。
認識は一瞬だった。
装飾を引き裂くようにして穴を穿ち、『何か』が突き出してくる。
それは俺の首筋を掠めてブレザーの襟を引き裂いた。
宙を舞う襟だった布切れとそこに引っ付いていたクラス章。
扉を突き破った物体は店の壁に突き刺さりようやくその勢いをとめる。
俺の首の横を通っているそれを見やる。
それは鈍い光を放つ鉄杭だった。
カウンターの壁に突き刺さっていた鉄杭がズボリと抜けてシュルシュルと元きた道を
辿って店外へとその姿を消していく。
被害を受けた壁と扉からパラパラと破片が床に落ちていく。
ーーーーーーそれはきっと日常の壊れる瞬間。
「あ………」
「不二家っ!」
力なく倒れるその不二家の体を咄嗟に駆け寄って支える。
その落下速度を緩めるようにして不二家の体を床に横たえる。
あまりに突然の出来事にショックで気を失ってしまったのだろう。
位置取りが悪ければ命を落としていたかも知れない状況だ。
それも詮無いことだとも思う。
窓越しに外の状況を垣間見る。
窓のすぐ近くを慌しい足音と悲鳴とともに人が駆け抜けていった。
そんな状況下で立ち止まってその場を動こうとしない人影が一つ。
その男は鈍い光を放つ中華なべを背負っていた。
しかしそれははたして本当に中華なべだっただろうか。
中華なべっぽく見えるそれは所々が出張っていて半円の形を半ば
失っていた。
だがそれも少しの間のことでやがて突起は引っ込んで元の形を取り戻す。
とても普通のなべではない。
だが、俺は直感する。なべが異常なのではない、使う人間が異常なのだ。
異能力者あるいは超能力者。天の与えし凡夫とは一線を画す力。
男が行使しているのは正にその力だ。力を持たぬ人々は逃げ惑うことしかできない。
さながら今のあの男は狩人。
男は獲物に視線を向けて不敵に笑う。
中華なべがグネグネと生き物のようにその形状を変え始めた。
――――――来る!先ほどの攻撃が。逃げなければ!
そうわかってはいるものの俺はその場を動けない。
俺一人ならば物陰に隠れてやり過ごせるのだろうが倒れている不二家を
一緒に動かすことはできない。これがネック。
ならば見捨てるか?選択肢として浮かんできた意見の一つ。
ありかもしれない。だがそんなことはありえない。後味が悪い。
フーッと一つ息を吐く。次の攻撃まで後数秒もない。
その間にこの状況の切り抜け方をシミュレートする。
相手は能力者。おもしろい、やってやろうじゃないか。
目撃者はいない。なればこそ好都合。
そして俺は道路に面した入り口側の壁に駆け寄って壁に手を触れる。
窓からチラリと覗く中華鍋を背負った男の次打を放つモーション。
合わせてカウントファイブ。5、4,3,2,1―――――0!
直後、予想していた衝撃が店を揺らした。
ガタガタと棚にしまわれていた食器類が物音を立て、天井から釣り下がっている
電灯が大きくグラインドした。
しかし、それだけ。鉄の杭は壁に穴を穿たない。穿てない。
先ほどはやすやすと貫いたその壁に今度は進路を阻まれていた。
敵との距離、約200m。
その結果で満足してはならない。
俺はすぐさま壁際から離れて店の奥にある厨房へと駆け込んでガスコン
ロへと駆け寄る。
目的は火の元、ガス栓。
そのコックを捻りその後で取り付いているチューブを力ずくで引っこ抜く。
音は立たないものの途端に周囲一帯にガスが充満していき見えない毒が散
布されていく。
その証拠に気体の放つ異臭が途端に鼻をついた。
別のガス栓も同様に引っこ抜く。俺の予想通りならーーー。
シミュレートした思考を辿る。貫くはずの壁が貫けない。
そして疑うのは能力者の可能性。
能力者にとって能力者というものはある種の脅威といえる。
一般人とどちらを先に仕留めるかなどの優先順位は比べるべくもない。
そうなればあの男はその可能性を秘めたここへやってくる。
なれば相応の準備はしておかなければならない。
生憎と俺にはたいした戦闘能力は備わっていない。
だがそれでも創意工夫を凝らした自分の頭があればあらゆる状況を
切り抜ける自信はあった。
今回だって例外ではない。
いかんせん切り抜けるピースが若干心もとないがだからこそ自分の能力が
試されるというもの。
弘法は筆を選ばない。
カウンターレジ横のスペースから売り物であろうライターを一つ抜き取る。
厨房で空き瓶とサラダ油を手に取る。
そしてビンの中にサラダ油を投入。
口に布をつめて、即席火炎瓶の完成だ。
そのとき入り口の方から三度衝撃。
硬い物質がぶつかり合う粗野で乱暴な音。予想通り男はここに向かってきた。
扉に壁に騒々しく何かをたたきつける音が店内に響く。
徐々に大きくなりつつある打撃音が男のストレスのたまり具合を
如実に表している。
……そろそろ頃合か。
厨房から離れた窓際の客席ですらガスの匂いを感じ取れる。
これ以上ここにいると俺自身も危ない。
床に横たわった不二家の体を背負う。
手には即席の火炎瓶。
入り口から90度に取り付けられた人が通るには十分な大きさの横開き窓に
に手をかけて鍵を開ける。
そして俺は自らの持つ忌々しい異能力を再び行使した。
「硬化、解除」
壁伝いに表通り側の壁に行使していた力を解除する。
瞬間店の壁が轟音とともに破られ中に強引に入ってくる男の姿が見えた。
しかしそれも一瞬で俺は窓の桟に足をかけて不二家を背負ったまま
入れ違いに店を飛び出す。
スタッと地面に着地した後でたった今出てきた店の窓に振り向き、
ボッ、と俺はライターの火をつけて持っていた即席火炎瓶に点火する。
勢いよく開いた窓が反動で再び閉じていく。
その隙間に紛れ込ませるように俺は軽く点火済みの勢いよく燃え盛る火炎瓶
を放ってやった。
「吹き飛べ」
窓がゆっくりと閉じていく。両端が触れ合い、窓が閉じきった。
瞬間。ボォン!、と見た目にも派手な爆発が巻き起こった。
爆風と爆炎、併せ持った熱風が俺の体に吹き付ける。
壊れた椅子や机の木片が辺りに散らばる。
大き目の破片がカランという乾いた音を立てて俺の足元に転がってきた。
濛々と立ち込める煙と燃え盛る炎。中は惨状というにふさわしい目も
当てられない状況になっているに違いない。
これは人を傷つける術。下手すれば死。
しかし、爆発というのはナイフによる刺突や毒殺などと比べれば
死ぬ確率はグッと下がる。あくまでそれらに比べて、だが。
それでも危険なものであることに変わりはない。
それでも俺はこの判断に間違いはないと頑なに自分を曲げない。
………俺自身が生き残るためならば他人すら踏み台にする。それがポリシーだ。
そのためならばどんな手段でも行使しよう。
一つの店を爆破する。
これは犯罪に値するのだろうが緊急事態ということでどうか目を瞑って欲し
いと心の中で誰とも知れない人物に言い訳をする。
俺はこんなところで死ぬつもりはないのだから。思考をすぐさま切り替える。
さて、次の逃走経路だ。
爆破はうまくいったもののこれで能力者一人を仕留められるとはとても
思えない。そしてその予測は過たず。
燃え盛る焔と立ち込める煙の向こう、ゆらりと立ち上がる男の影があった。
逃走経路、とはいったものの実際に逃げ回るのは厳しい。
こちらには怪我人(不二家)というハンディキャップがある。
ならばすることはーーーーーー
「時間稼ぎ、だな」
独立治安維持組織ゴスペル。彼らは能力者の関連する事件を担当する組織だ。
これだけ大規模な騒ぎならば通報を受けてもうじき到着しても
おかしくない頃合だ。
………となるともう一手か二手打つ必要があるか。
そんなことを考えている間に男は完全に体制を立て直していた。
「よくもォ、」
沸々と煮えたぎる激情がその少し掠れたような声から感じられた。
地底の底で渦を巻くマグマ。
「やってくれたナァ!!コンチクショウガァァァ!!」
活火山のごとくそのマグマは解き放たれ、品性のない罵倒と化して俺へと向けられる。
生の人の怒りに触れビクリと身を竦ませる。
しかし同時に俺の冷静な部分が分析を開始してホッと安心する。
こいつは激情型。もっとも扱いやすいタイプだ。下手な読みは必要ない。
複数手考えてあった逃げのルートが一気に絞られる。
男が確かな殺意を持って俺のもとに向かってこようとする。
それに合わせて俺も駆け出そうとしたその刹那だった。
「離れろ!」
日常生活ではとても聞きなれない、だが、この非日常の場には似つかわしい
銃声が聞こえてきた。
その銃弾は牽制するかのように俺と男の間に打ち込まれた。
俺のいる喫茶店だった場所の横合いの路地の右方。
銃の主は大通りの方に立っていた。突如現れた闖入者。
凛々しく双銃を構えた痩躯。
その銃口からは硝煙が吹き出ている。
その人物を認めて今日何度目かの驚きとともにため息をつきたくなった。
今日はゆくゆく人に出会う日らしい。
その名前を、呟く。
「………小波、優」
「………………」
小波優は何も語らずただ静かな双眸を携えてそこに佇んでいた。
高校の制服を身にまとい放課後を街中で満喫していたとでもいった風な
出で立ち。
ただ一つ両の手に持つ凶器だけがそれを否定たらしめる材料。
俺から小波へと移った男の殺意を正面から受け止めても眉ひとつ動かさない。
怖気づく様子は微塵も見られなかった。
「チッ、テメェが来る前に消しておきたかったんだがナァ。スパイラルゥ」
「………………」
「だが、それならそれでやりようがあるってもんだよなあ!!」
背負った中華鍋が再び歪にグネグネと動き出す。
それが槍と化して俺のほうに襲い掛かってくる
「くっ」
不二家を背負っている為に体の動きが鈍い。
それでももともと俺のほうに来ると予測出来ていたためか、どうにか
その一撃をしのぎ切る。
槍の先端が俺の左足をかすめて制服とその下の皮膚をわずかに傷付けた。
ひりつくような痛みが全身を駆け抜ける。
槍は俺のもといた位置に斜めに突き刺さっていた。
「………下衆だな」
「下衆で大いに結構。それでテメェをしとめられるんなら安いもん
だゼ、スパイラルゥ。何せテメェには結構な額の懸賞金がかかってんだからなァ。」
「懸賞金が付くとは私も高く買われたものだな。京楽 漁火」
小波が相手を名指しする。
すると男の方はわずかに眉尻をあげてさも意外なものを見たという表情を浮かべた。
「情報が早えなぁ。じゃあ、改めて自己紹介と行こうかァ。
鈍光の鉄棘京楽 漁火。愚人教会員NO.89だ。」
「この街に何をしにきた?」
「おぉいおい、俺が名乗ったってのにそっちは名乗りなしかよ。
ま、べつに知ってるからいいんけどヨ。
ゴスペル、アラウンズが一角。<スパイラル>小波 優。」
ゴスペル。その単語に俺は反応する。
俺達となんら年の変わらない小波優が対能力者組織ゴスペルの一員で
あったこと。
それはひどく意外な事実だった。対能力者を掲げるゴスペル。
そこに属する人々は当然相応の戦闘力を要求される。
一人ひとりが軍人のようなものだ。
自分の身の回りにその軍人が知らず知らずのうちに潜んでいたこと。
これには驚かざるをえないというものだ。
その中でもさらにアラウンズ、ときたか。
「目的ィ?そんなの簡単だぜ。いったろ?テメェのクビには懸賞金がかかってるって。」
「………私を狩りにきたか。」
「ああ、テメェをおびき寄せる為にひと騒ぎ起こさせてもらったぜ。もぉっとも?
思わぬイレギュラーも紛れ込んではいたけどナァ?」
最後のほうは呆れたように、笑うようにいって男は、京楽は俺を見やった。
「さてぇ?そろそろおっ始めようぜ。」
「………一般人を逃がす時間はやはりくれん、か」
「生憎そんな倫理を俺は持ち合わせちゃいねえんだよ。
それにそこのクソガキは生意気にも一発デカイのぶち込んでくれたんでナァ」
そこで初めて小波が俺に視線を投げかけた。眉をひそめて俺をいぶかしむ。
「…………何をした?」
「単なる正当防衛だ」
自分が生き延びるためにとった行動だ。責められるいわれはない。
「つーワケで、いくゾ、コルァァァァァ!!!!」
「下がれっ!!」
響き渡る京楽の激昂と共に背負った中華なべが変形を始めてそれが複数本の鉄槍と化す。
あらゆる方向に生えたその槍が一斉に襲い掛かってくる。
合図を受けて俺は小波の後ろまで下がる。
俺たちをかばうような形で前に出た小波が京楽との距離をつめるように駆け出す。
小波の痩躯が鉄槍の弾幕に突っ込んでいく。
突き刺さんと伸びてくる鉄槍。
その一本が小波の体に触れんとしたとき、小波はバスケの敵をかわす
ステップのような動きで第一射をやり過ごす。
逃げた方向にさらに向かってくる第二射。身を屈めて過ぎ行く槍の下を
潜り抜ける。
しかし続く攻撃は屈んで体勢の崩れた小波を狙うような地を薙ぐような
下段払い。
それでも踏ん張りを利かせて地から飛び立ち前へと飛ぶ。
だがそれは決定的な隙だ。人は翼を持ち得ない。
空という空間は人間にとってのアウェイだ。
「もらったアァ!」
仕留めた、といわんばかりに京楽がニヤリと口元に愉悦の笑みを浮かべる。
京楽の操る槍が一本小波の心臓へと最短距離を走る。
狂気の篭った凶器が空気を切り、血に餓えた獣のようなうなり声をあげる。
だが小波の表情は一向に崩れない。まるで余裕。
あせった様子は微塵も感じられない。
それが決して強がりではないことは次の瞬間で示される。
槍の突進にタイミングを合わせるようにして横合いから銃をもった左手を
合わせ槍に触れる。
すると、動けないはずのその体がクルリ、と触れている左手を軸にして半回転した。
まるで羽が生えたかのように小波の体は宙を舞った。
前に向かっていた運動エネルギーも相まってその体は螺旋の軌道を描く。
必中だったはずの一撃を避けられて目を見開いている京楽。
急所を外した位置めがけて小波が発砲する。
しかし、よかったと思うべきなのだろう。
京楽は残っていた中華なべの一部を変形させて即席の盾を作り、銃弾を凌いだ。
甲高い音を立てて鉛弾がいずこかへと飛び去る。
分が悪いと見たか京楽は路地の奥へと後退して体勢を立て直す。
「逃げるぞ」
その隙を突いて小波が京楽から距離をとり、俺を表通りの方へと導いた。
大通りは酷い有様だった。そこに秩序は微塵もあらず、あるのはただ混沌。
少し前までの平和な日常のワンシーンは一体どこへ行ってしまったのか。
つぶれ、ひしゃげ、ものいわぬ鉄塊と化した自動車。
崩れかけのビルの外壁。そしてその景色のところどころに人間が転がっていた。
歩道の片隅で建物の壁に背を預ける者、苦痛のうめき声を上げながら地べたを這いずり回る者、
顔は見えずとも瓦礫の下敷きになってピクリとも動かない者。
地獄絵図。
常人が見たならば発狂してもおかしくはない。
しかし幸運なことにそれはごく少数でむしろあれだけ人がいた中でよく
死傷者がこれだけですんだものだと思えるレベルだった。
すでに避難を済ませたためかあたりにまともに動けそうな人は見当たらない。
そんな中でまともに動ける人間は珍しいのだろう。
俺と小波の姿を認めるなり助けを請う声が聞こえてきた。
だが、今はそんなことに構ってはいられない。
優先順位はまず自分の安全の確保。それ以外は二の次だ。
冷静な思考で冷徹とも取れる判断を下しその声を踏みにじる。
誰だってまず自分がかわいい。
「ここに隠れていろ。」
小波がつれてきたのはテナントビルの一階部分。
大きいとは決していいがたいが身を隠すには十分。
電気の非常事態のためか電気の供給が止まっており近づいても自動ドアは機能しない。
閉じたドアを小波が力ずくでこじ開ける。
ウウウウッとモーターが無理やり回転する音がした。
「お前はどうするんだ?」
エントランスの冷たい床に気を失った不二家を横たえ、背中越しに小波に問いかける。
「ヤツを抑える。このまま野放しにはできん」
「それがお勤めというわけか」
「…………」
何もいわず小波は最低限の答えだけ返すとその手入れのなっていない
長い髪を翻して再び戦場へと舞い戻っていった。
その姿は勇ましく、凛々しく、とても高校生とは思えないそんな背中だった。