第3話――ゴスペル――
学外で待ち合わせをしたのは配慮だったのだと思う。指定場所にいくと駐車場に車が停められ
ていた。
白い普通の乗用車。
外で待っていた小波の誘導を受けて車に乗り込む。基本的に校内への車の乗り入れは禁止され
ている。学校のすぐ近くでの出迎えというのもあまり推奨はされない。
何より小波は噂になるのを避けたかったのだろう。
いい意味でも悪い意味でも俺も小波も有名人だ。そんな俺たちが二人そろって車に乗り込むと
ころを見られたならそれはもう何かあるのではないかと勘繰られるだろう。
と、まぁこれらは全て勝手な俺の予想に過ぎない。
小波が何を考えてこのような計らいをしたのかというのは些細でどうでもいいことだ。
重要なのはここからだ。
車に乗り込むこと十数分。
後部座席にそろって乗り込んだものの俺も小波も沈黙するばかり。
もともと互いに自分から他者とコミュニケーションをとるような性格
でも仲のいい間柄でもない。
互いの作る空気はピリピリと時間が経つごとに剣呑さが増していく
ように思えた。
小波は相変わらずの鉄面皮を表情に貼り付けて礼儀正しく背筋を伸ばし
てシートに座っている
俺はといえば礼儀など気にせずだらしなくシートの背もたれに体を
預け、窓際に肘をついて頬杖をついて流れる車窓の向こうの風景を眺め
ていた。
そんな折、とうとう車が目的地と思しき場所の駐車場に入っていく。
軽いブレーキ音とわずかなに働いた慣性の後、車は停車した。
小波が首をクイッと軽く振ってジェスチャーで降りろと促す。
それぞれ近くのドアを開けて俺と小波は車から降りた。
広い敷地には程よく植えられた草木。整備されて青々とした芝生。
それらは公道との仕切りの役目を果たしている。
中にあるのはシックな印象を与える鼠色の建物。
出入り口の辺りは頻繁にスーツ姿の大人が出入りしているのが
見受けられる。
この建物には覚えがある。桜森の行政を司る市役所だ。
建物は3階建てでさほど高くはない。
その分広い敷地を活かして縦横に市役所は展開されていた。
築60年という古い歴史を持つ建物は所々にその老朽化が垣間見られ、
外壁が剥げかかっている
部分も多々見られる。
古きよき時代の遺物とでもいうのだろうか。
しかし古いというのも言い換えれば伝統的ということで、歳をとった
この建物からは貫禄のようなものがにじみ出てるような錯覚を
覚えてしまう。
日本には長く使われているものには意思が宿るという九十九神の伝承が
あるが、それを
信じさせるに足るようなオーラを放っているかのようだった。
「こっちだ」
そんな由緒ある建物の観察にふけっていた俺の思考を小波の冷たい事務
的な声が断ち切った。
誘導にしたがって小波の数歩後ろを歩き、その背を追う。
歩くだびに無造作に伸ばされた髪がふわふわと揺れていた。
何気なくそれを眺めてお互いにすっかり黙り込んだまま歩く。
入り口から入ってすぐ、真っ先にエレベーターのスイッチを押す。間がよかったのか、
エレベーターはすぐに降りてきて、中から中年のスーツ姿の人が出てくる。
学生が市役所内にいるのは珍しいのだろう。
若干の好奇の視線にさらされて、どことなく居心地の悪い思いに包まれた。
俺と小波はスーツの集団と入れ替わるようにしてエレベーターに乗り込む。
ドアが閉まって外界と閉ざされる。俺と小波の間に流れる空気はひたすらに冷たかった。
それが密室という環境も伴って充満していく。空気が張り詰めていく。
きっかけ一つあればこの場で爆発しかねないほどに。
同時に触れただけでその者を傷つけるような鋭さをも持ち合わせている。
市役所という建物は低い。低い音を立てて上昇していくエレベーターは
乗り込んで大して時間も立たないうちにチンッというお馴染みの音を立てて停止した。
灯ったランプは3階。止まってまもなくドアが静かに開く密室からの開放。
箱の内側でよどんだ空気が澄んだ外の空気と交じり合う。
それでも俺と小波の間に流れる空気は剣呑さを失うことはなかった。
それどころか場所に関係なく時間が経つごとに張り詰めていくばかりだ。
これではいつ切れるか分かったものではない。
ワックス掛けされて路面が反射するほど磨かれたリノリウムの敷き詰められた廊下を小波と
連れ立って歩く。やはりここでもすれ違う職員の好奇の目にさらされる。
書類を両手に抱えつつもおっ、といった様子で後ろ目に俺たちの姿を確認してくるのだ。
敷地を広々と使っているせいかフロアは広い。様々な用途の部屋が随分な数が用意されて
いる。
会議室、資料庫、応接室、多目的ルームetc、etc………。
そんな多くの部屋を横目で流しつつ着いた先は個人で使うような部屋だった。
ドアの上の方には所長室と書かれている。物怖じする様子もなく、小波が軽く2度ノックをす
る。コンコン。返事はない。
聞こえなかったか、と確認するように今度はやや大きめの音を立ててドアを叩く。
やはり返事はない。
小波が仕方ないとでもいうようにドアノブに手をかけた。蝶番が建物の年代に比例したような
古めかしい悲鳴を上げてドアが抵抗もなく開いた。
小波がズカズカとその部屋に入っていく。権力者の部屋だというのにその堂々とした振る舞い。
この部屋にはよく来るのだろうか。
普通組織の下っ端というものは目上の者の部屋に行くとなれば大なり小なり緊張するもので
はないだろうか。
所長というのは恐らくゴスペルの所長。となれば小波の上司に当たるわけで。
そんな大物の部屋に入って堂々と振舞うこいつは案外大物なのかもしれない。
もっとも権力者の前でビクビクする小波などとても想像しがたいというのも一つの真理だ。
部屋は意外と奥行きがあり奥に書類に埋もれたビジネスデスク。手前の方には客用の
背の低いテーブルとその対面にそれぞれ革張りのソファー。
ビジネスデスクの方は備え付けられた回転イスやらなにやら含めて安っぽい気がするのに
対して、応接用の部屋の手前、ドア付近に用意されたソファーやらテーブルはえらく金が
かかっていそうな高級な雰囲気を醸し出している。
まるで安月給のサラリーマンの仕事場と金持ちの家のリビングの雰囲気が入り混じったような
部屋だった。
ビジネスデスクの辺りまでいった小波がなにやらメモを眺めて一通り目を通してから一つ
小さなため息をついた。
何が書いてあるのかは俺のいる場所からは遠すぎて視認できない。
目をつぶり何かを振り切るようにそのメモ用紙を握りつぶすと小波は手前の応接スペース
に戻ってきて行儀よくソファーに腰掛けた。
「そこに座ってくれ」
「いいのか。部屋の主がいないのに好き勝手やっても」
「先に始めていろとの伝言だ。それにここの主はそんな細かいことを気にするような輩では
ないのでな。気にすることはない」
「………………へぇ」
呆れとも納得ともつかない曖昧な相槌を漏らして小波の愚痴じみた説明を聞き入れる。
ありがたく言葉に甘えて遠慮なしにカバンを無造作に傍らのソファーに投げ
出した後、俺もそれに続くようにして静かにその身をソファーに埋めた。
ソファーはその身に纏う高級感に違うことなく実力というか性能を如何なく発揮して
俺の体を優しく柔らかく受け止める。
何気なく手を置いた肘掛けの革の手触りもやはり高級感がありとても触り心地がいい。
衝動に任せてなんとなく手のひらを動かして手触りを堪能する。
ソファーは二人用のため反対側の肘掛けに手は届かない。手持ち無沙汰になった右手は体の
横に無造作に投げ出されたまま。
横柄な態度で俺は両足を組む。遠慮をするつもりはなかった。
実力行使ではないとはいえこれもある種の戦い。そしてそれはもう始まっている。
無遠慮に俺は戦いの口火を切る。視線はゆっくり動かしている左手に留めたまま。
「それで、改めて聞こうか、小波。」
ズケズケとした物言いで俺はストレートに切り出す。
「今日は俺に何の用だ?」
動じることなく小波はいつもの調子で口調で切り返した。
「答えて欲しいことがある」
そして小波の口が台詞を紡いだ。それはいつの日か聞いたものとまったく同じ質問。
繰り返される俺と小波のやり取り。
「お前は、能力者か?」
質問は前と同じ。だがここからは前回と同じようにはいかなかった。状況が違う。お互いの持
っている情報が違う。何より質問の意図が違う。これは疑問ではない、確認だ。
「分かっているだろう、あんな手荒なことをしてまで証明したんだ。よかったな、空振り
じゃなくて。あれで俺が何でもない一般人だったらどうするつもりだったんだ?」
あのときの激痛が思い起こされる。何の鍛えもされていない文化系でインドア派の俺にあの
打撃は痛烈に効いた。そんな拷問じみた仕打ちをした目の前の女をどうして許せようか。
精一杯の皮肉を込めて小波をなじる。それでも小波の表情は一切の変化を見せない。
あくまでその所作や言動には事務的要素が見受けられる。まあ、いい。その辺りは想定の
範囲内だ。所詮今のはジャブ程度に過ぎない。
「それについては謝ろう。だが、お陰でお前が能力者であると証明できた。
お前に素直に聞いたところでどうせ答えはしないだろう?悪いとは思ったが強攻策を取らせて
もらった」
「不意打ちのような形で、な。容赦がないよな」
「………………」
今度は謝罪はない。本当に悪いと思っているのか。
このまま謝罪を繰り返しても話は進まないと思ったからなのか。
表情からは読み取れない。そこで俺も一つため息をついて気持ちを落ち着ける。
建設的じゃない。もっと感情を抑えて、合理的にいこう。文句はこの程度でいいだろう。
後は時間を浪費するばかりだ。そろそろ本題に入る時間だ。
「………………それで、名探偵。俺の正体を体良く力ずくとはいえ白日の下にさらしたわけだ
が、そこからお前は俺をどうしたいんだ?」
いわずもがな。暗黙の了解で今日ここまできた俺たち。その議題はこの一点に絞られている
だろう。俺の処遇。
「安塚にある専門学校に今の時期強制転校?能力に覚醒していたことを隠匿していた罪人?
ああ、その裁き方だったら公務執行妨害も追加されるのか?散々お前の邪魔をしたわけだから
なあ、小波。」
だが、と俺はそこで一息ついた。思考を巡らせて俺は切り札を切る。この交渉で俺に出せる
手は限られていた。なればこその先手必勝。自分の自由のために。この場を切り抜けるために
「俺が能力者であることを知っているのは何人いるんだろうな」
「………………」
「そんなに多くはないんじゃないのか?」
切り札といっても大したものじゃない。ただカマをかけるだけだ。だがそれはまったくの当て
ずっぽうというワケでもない。なかば確信を得た80%のカマ。
小波の反応で俺の推論は当たっていることを確信する。無言は肯定。
無反応といえど質問をすればそれなりの何かを得られるものだ。
「そんな限られたごく小数が俺を能力者呼ばわりしたところで果たして周囲は信じるか?
お前だって分かっているだろう。俺は検査に引っかからない。検査結果とたった数人の
証言。果たして多くの人間はどちらの事実が信憑性に足ると判断するだろうな」
「………………」
ここまでいわれれば悔しさなり、逆上なりと感情の一つも見せてもいいようなものだが
小波の表情のその変わりなさ、感情の起伏のなさが異様に気持ち悪かった。
交渉ごとにおいてこのようなタイプを相手取るのは初めてだった。俺の想定している
いずれのパターンにも当てはまらない。俺の掲げる交渉ごとの鉄則として相手の感情を
引き出すというものがある。
それに倣って小波を刺激してみたのだが一向に反応がない。
「その点の判断は私に下せるものではない。お前の正体を知ってどうするか。それは他の人間
が決めることだ。私にお前をどうこうする権限はない」
熟考の末、ようやく口を開いた小波がさらに続ける。
「それでも私がお前の秘密を暴こうと躍起になったのは能力者の保護というゴスペルの義務
に従ったまでのことだ。まあ、個人的にイレギュラーを潰しておきたかったというのも理由
の一つだが」
「保護、なぁ。それにイレギュラー。確かに間違いじゃないな」
1年に2回14~17歳までの子供は能力者に覚醒しているか、あるいは目覚めかけているか
どうかを春と秋に検査される。
その過程を経て転校手続きがなされた後、その子供は能力者の専門学校に送られるわけだが、
それに当てはまらないケースもごくまれに存在する。
検査時期を外れて急速に能力者に目覚める場合だ。
能力というものは徐々に遺伝子の作りが変化して覚醒に至るのが普通らしい。
最新の研究によれば安定するまでに半年ほどかかるのが普通なのだとか。
春と秋、1年に2回の検査がこの時期に行われているのはそれが理由だ。
しかし、このケースに反して能力者が目覚める場合も稀に存在する。
能力者が生まれる確率は実に2%と大変希少な確率だ。
その中でもそのような事例は珍しいのだが、急速に目覚めた能力者はまず急激な自己の内面の
変化についていけず、暴走する。
通常長い時間をかけて行われるはずの遺伝子情報の書き換え、脳内に新たに作られる能力を使用す
るための思考回路の構築。
膨大な処理と情報量に耐え切れずに自我が一時的に失われてしまう。
そうして出てくるのは能力を、新たな力を行使したいという本能染みた
強い欲望なのだそうだ。
すなわち、暴走。オーバーロードと呼ばれる現象が起こってしまう。
そのような暴走能力者が出てきた場合も対処するのはゴスペル。そして保護。
ゴスペルはそういう仕事もこなしているわけだ。
稀に期間外に出てくる能力者。俺はこれに該当する。
「だが、俺の場合を保護だと全肯定するには首を捻らざるを得ないな。連行といった方が正しい。
むしろ後半のイレギュラー潰しが本音だろう?」
「正体不明の能力者がウロついている。危惧しない方がどうかしているとは思わないか?
私の判断は妥当なものだったと思っているが」
「………………まあ確かに、な」
そういわれてしまえば反論の余地はない。逆の立場ならば俺も恐らく同様の判断を下す。
戦術を組み立てる上でイレギュラーというのはどうしても邪魔になるものだ。
闖入者が現れたのは膠着状態に陥りかけたそんなときだった。
ハッハッハッハッハッハッという男の大きな野太い笑い声が廊下で響いたと思えば突然
部屋の扉が開け放たれた。笑い声が一枚分ドアを通したくぐもったものから急にクリアな
音質に変質する。
入ってきたのはタバコをくわえ、白衣を纏った中年の男。何日も剃っていないような無精髭が
口元に生えている。
その髪がボサボサの男には見覚えがあった。事件現場で2度。そして今。3度目の遭遇。
「いやー、流石だわ。なかなかどうして肝っ玉が据わってる。なかなか大物だねぇ」
突然のことにどうすればいいのか判断に迷う。その間も男は我が物顔で室内を闊歩する。
「話してみた感想はどうよ、優?」
「別にどうも。それよりさっさと本題に入ったらどうだ?角川が待ちかねているぞ」
「そかそか、いやー待たせて悪かったなー」
気軽な調子で話しかける男を軽く叱責する小波。口調に敬いが一切ない。
それほど慣れ親しんだ仲ということなのだろうか。
続いて俺に男の視線が移される。
「さって、自己紹介といこうか。あっ、つっても俺のほうは知ってるからじゃあ俺の自己紹介
だけでいっかー」
勝手に話し出した挙句に自己完結。挙動が一々忙しない。白衣から連想される研究者じみた
落ち着きはまるで目の前の男からは感じられなかった。本当に成人しているのだろうかと
疑いたくなる。
「俺、江崎 名暮。ナイスミドルな35歳。気軽になっちゃんとでも呼んでくれい!」
そこで男━━━━━━江崎は言葉を切るなりビシッとサムズアップを俺に突きつけた。
「いやですよ」
辺りを吹雪が吹き荒れるエフェクトが見えたのは錯覚ではないと思う。
江崎のギャグが寒すぎた、俺の切り捨てた言葉が冷たかった。原因はどうでもいいだろう。
その空気を取り繕うように江崎は一つ咳払いした。
「まあまあ、そういわずに仲良くしようぜ、七音」
ポン、と肩に置かれようとした江崎の手を半ば反射的に避ける。スカッと江崎の手が宙を切る。
元来引きこもりのようなコミュニティ外のところで生活している俺にはその馴れ馴れしい態度に
耐性がない。防衛本能というのか、ついつい触れられることを拒んでしまう。
「………………」
「………………」
すっと細まった江崎とにらむような俺の視線が交わった。火花は一瞬。
俺の肩にそーっと伸ばされる手。かわす。続いて時間差で左手。右手で受け流すように弾く。
ここで江崎の眉尻がピクリと動いた。
シュッと一気に手の動きが早まる。触れられまいと俺も弾く、かわす、抵抗。
ビシバシビシバシと気づけば繰り広げられる攻防戦。
「初対面で!会うなり!慣れ慣れしく!名前を!呼ばないで!くださいよ!」
「別に!いいじゃん!仲良く!しようっつう!意思表示じゃん!よ!」
気づけば俺は壁際に追い詰められていた。回避の場所をなくして俺はトンッと飾り気のない
白の壁紙に背をつく。その双肩に成熟しきった大人の両手が体重を伴ってのしかかる。
目の前には火のついたタバコを加えた無精ひげの中年。
「よろしくぅ、な!」
「………………離れてください」
正面の視線を堂々と見ることなくそっぽを向いて言い捨てる。
「………………ツンデレ?」
無言でそのどてっ腹を蹴り飛ばした。
「うぉふぉう!!」
やや大げさな動作で江崎が床に尻餅をついた。いつの間にかタバコは右手に持ち変えられている。
「いちちちちち………………」
江崎は左手で後頭部をかきながら起き上がった。しかし、その表情に反省の色はなく
相変わらずへらへらとした軽い笑顔が浮かんでいた。
「ふざけてばかりいるからそういう目に合う」
呆れたように小波が一つため息をついた。江崎はいつもこういう態度なのだろう。
その様子に蹴り飛ばした俺に驚く様子も咎める様子もなかった。
改めてソファーに腰掛ける。江崎はといえばこの部屋の主の象徴たるデスクの前の回転イスに
腰掛けている。話を聞けばこのふざけた態度の中年がゴスペル桜森支部の所長らしい。
このような大人が重職についているこの組織、大丈夫なのだろうか。とりあえず第一印象からで
はとてもやり手のようなオーラは感じられない。
今だってタバコを片手にイスにすっかり体重を預け、組まれた両足はデスクの上に投げ出されてい
る。その挙動に落ち着きはなく回転椅子の駆動域に任せるまま左へ右へとゆらゆらその体を揺らし
ていた。
「ま、正直な、指摘通りお前が能力者だと証明できる手段はないわな、俺らには。
強硬手段に出ればそりゃ暴けたりは出来るかもしれんけど、正直そこまでする価値があるかといえ
ば、なぁ?」
右へ左へ揺れる体。視線は俺と小波の間を行き来する。会話の合間を縫うようにして江崎が紫煙
を呼気に交えて吐き出す。白煙はふわりと宙に漂い始めた後、やがてその密度を失い宙に溶け込ん
だ。それで、と俺は前置いて切り出した。
「結局のところ俺をどうしたいんですか?判断はあなたの手に委ねられているんでしょう?」
「まままままぁまぁまぁまぁ、そう警戒するなよー。別に取って食う訳じゃねえんだし。」
敵愾心を含んだ俺のセリフを子供っぽいセリフの中に大人特有の余裕を含ませてサラリと受け流
す。狙ってやっているのだろうか。まるで本心が見えない。だとすればたいしたものだ。
癖のある男だと俺の嗅覚が告げていた。表面のこの態度は周囲を欺くブラフ。だと、思う。
そうは考えるものの江崎の態度を目の当たりするとどうもその考えが揺らいでしまいそうになる
のもまた事実だった。
「一つ取引しねーかい?」
「取引?」
「そそ」
腰に負荷がかかったためか江崎が足を机から下ろし、今度は上体をデスクに預け、顎をその
硬い路面に乗せた。無論、タバコは加えたままで。
器用にも江崎は手を使わずにタバコを口から吸って、白煙を鼻から排出した。
ポロポロとタバコから吸った分の灰がデスクの上に零れ落ちた。
それを見て小波が江崎に灰くらい灰皿にちゃんと入れろとたしなめるも悪りい悪りい、
と軽い調子で謝るだけで反省の様子はまるで見られない。
ああ、本当に………。やっぱりこれが演技だというのは俺の考えすぎか。
だらしないその態度を見ているとそうとしか思えなくなってくる。
「別に七音が能力者だとバラすだとかそういうことで脅すつもりはねーよ。お前がもうちょい
頭の抜けた馬鹿だったらその手は使えたかもしれねーけど生憎お前は優とのやり取りで
お前が能力者だって知ってるヤツが限られてるって知っちまったわけだろ?
ネタばらししちまえば知ってんのは俺と優の2人だけなんだけどよ、
ま、それはどうでもいいから一旦部屋の隅へポーイ。」
江崎が加えたタバコを上下にブラブラ揺ら
して子供っぽく呟く。また灰が落ちて小波が怪訝な目を向けるも一向に気にした様子はない。
「そーこーでー、取引なわけだー。悪いけど七音、お前のことは調べさせてもらったのだぜ」
フッフッフッと江崎が不敵に笑った。簡単にいってくれているが正直それは洒落にならない。
プライバシーや個人情報が保護されているのはその人間が安心して暮らすため。
個人情報が握られているというのは気持ちのいいものではない。
その程度で済めばまだいいが下手すれば危害すら及ぶ可能性があるのだ。
公権力たるゴスペルといえどその可能性は否定できない。
「………………その個人情報を餌に取引というわけですか。たかが学生に容赦ありませんね」
「いやいやいや、確かにそういうこともできっけど俺はんな悪どいことするつもりねーよ?
なんせ俺、巷で噂になるほどのジェントルメンだからね?サムライスピリッツ!」
「混合技ですね」
「和洋・折衷!」
「必殺技みたいにいわないでください」
「脇固め!」
「………関節技ですか」
「伝統工芸品!」
「………………」
いつの間にか始まった問答。流石に付き合いきれず突っ込むのをやめる。が━━━━━━。
「(職人技ですかー)」
「何なんですか、もう!」
口元に片手を当てて小声でささやきつつ俺に続きを促す江崎に思わずキレて立ち上がった。
江崎はこのやり取りが楽しいのかカラカラと笑っている。そしてういしょっという掛け声ととも
に居住まいを直してしっかり席に着いた。どうやらまじめに話をする気になったらしい。
ここからが本題ということか。俺もその空気を察知して改めて席に座りなおして自らの平静
を取り戻すことに努めた。
気づけば時間が大分経過していた。ブラインドの向こうからは夕日の赤い光が室内に差し込
んできている。デスクの上につみ上がった書類の束が色濃い影を作り出し、部屋の隅に設置さ
れた書類棚のガラス戸が陽の光を反射して煌く。
鉢に収まった観葉植物はきつい西日を受けているがそれでもそれが自らの存在意義であると
いわんばかりに萎れず、背を決して縮めずに堂々と植わっている。
「スカウトだよ」
「スカウト?」
仕切りなおし。江崎が一石を投じる。そのときの江崎の表情はどのようなものか俺の方からは
逆行になって目元を窺い知ることはできず、見えたのは何かを企むような口元に浮かんだ笑みと
つりあがった口角だけだった。
「角川 七音。8年前に兄、角川 華音と死に別れる。公式の発表では角川 華音は中央研究所
襲撃の首謀者の一人とされその事件の際に死亡。その死をきっかけにふさぎこむようになり、
また外でもいじめを受けるようになった。しかしそれを次第に克服。そして中学1年のころ
ある一つの事件に巻き込まれ━━━━━━いや、これについて話すのはやめとこう。
その事件以降周囲への敵意はさらに強いものになっていくことになる。」
江崎は俺の経歴を詳細に語りだす。そのどれもが正しいもので、江崎の口から語られるたび
に一つ、また一つと脳裏を走馬灯のように記憶が駆け巡っていく。
そのどれもが俺のふさがったはずの傷をなでていき、うずかせた。
俺の人生は決して自慢のできない草木の枯れてできた砂漠のように荒んだ人生だ。
聞く人間が聞けばそんなもの誰だって同じで誰もが苦労して生きているのだというのだろう。
それでも分かって欲しいのはとりあえずそう感じる程度にはまっすぐに育たなかったということ
だ。歪んで、ひん曲がって性根の腐りきった人間。
少なくとも世間で言ういい子、とはかけ離れているとは思う。それが自分に下す自分の客観的な
評価だ。
「この時期、お前は一つの決意を固めて始めたことがある。兄である角川 華音の死の真相
および中央研襲撃事件の調査。当時の政府の背景、研究所での研究内容、存在した反対組織の
情報。あらゆる面から検証するも未だ確信にも至らないまま。そして同時期、そのストレスを
ぶつけるかのように角川 七音は『悪』を狩るような行動に出る。
発想そのものは子供の考えるものだ。こういう風に聞いただけじゃただの中二病こじらせたガキ
なわけだがお前には決定的に違う点があった。短い人生の間に刻まれた二つののトラウマ。
兄貴が死んだこと。そしておまえ自身に降りかかったあの事件。それによって培った度胸、覚悟
胆力。さらに才能か努力の成果か、並みの学生どころか頭のキレる大人をも軽く凌駕するその
頭脳。世界が憎い。その想いからお前は自らの力を存分に振るった。
主な対象となったのは差別を謳う人種。そこに年齢や職業性別などのくくりはない。
どんな権力にも屈さず、物怖じせず、世界の理を否定するかのように法で
裁けない悪すらもお前は裁いて見せた。
こういえばお前は怒るかもしれねーけど、結果的にその行動は善行と取れないこともなかった。
そのためにお前自身法を犯すこともあったみてーだな。
学生とは思えない並外れた頭脳を駆使してそれぞれを社会的に抹殺、あるいは物理的に
制裁。
駒となる協力者の存在なくして独力でやり遂げた点は驚嘆に値する。かつ、その正体を
誰にも悟らせることはなかった。これが高校1年の夏頃まで続く。が、一つの転機が
訪れる。この時期お前は一人の協力者を得て一つの不良集団を壊滅させる。
そしてこれ以降、角川 七音は『悪意狩り』をやめて特に波立った事はなく平穏な毎日を送る。
で、今に至って久しぶりに巻き込まれた荒事があれとかあの事件、と、これは説明
する必要はないわな」
江崎による俺の人生波乱万丈劇が終わる。こうして客の立場として聞かされてみれば自分も
中々にハードモードな人生を送っていると思えた。苦労は比べられるものではないのだろうが
少なくともこうして自分の歩んできた人生を聞かされてもう一度歩んでみたいかと聞かれれば
答えはNOだ。俺がどういう思いでどのような行動に出た等の独自解釈
が加わったりはしているのが気に食わないが概ねそれらは間違っていない。
それが自分の考えていることが見透かされているようでさらに気に食わなくもあるのだが。
「よく調べられていますね。さすがゴスペル。俺のそういうこと、絶対にばれないように細心
の注意を払ったんですけどね。現に今まで誰にもバレることなく平穏に過ごせてきたわけです
し」
「そうでなかったらお前はこんなとこで暢気に学生なんてやってられねーよな。お前の買ってる
恨み、相当なもんだろ。ま、俺らだってここまで情報引き出すの大分苦労したぜ?
なんせ興信所だとか親類縁者に聞き込んで手に入る情報じゃねえもん。そんときの情勢だとか
新聞だとかである程度当たりをつけてくとかで何とか分かったって感じ。後はゴスペル特有の
ゴニョゴニョゴニョ……」
「知ってますよ。ゴスペルの情報処理能力は嫌というほどね。実に優秀で部外者の手の出しにく
い組織だ。お陰で俺の調べごとも滞ったままです。兄さんがゴスペルと何らかの関わりを持って
いたことまでは分かりましたがそこから先に進めないまま。どうするか現在進行形で悩み中。
思春期の可愛い憂いごとですよ」
「そう。正にそこだ」
江崎が的を射たというように俺の婉曲的で冗談めかした戯言に反応した。意図せずして俺は
江崎のいいたいことの本質を突いたようだ。
「部外者ならダメ。ならいっそのこと部内者、関係者になってみるつもり、なーい?」
「…………なるほど」
取引。そういう意味、か。俺がゴスペルに協力する。
見返りとして俺は俺の求める情報を、ゴスペルの関係者としてしかしること
のできない情報を提供する。
これが江崎のいう取引。
おいしい話だ、とは思う。
ただデメリットを考えるなら自分が何をさせられるか分からない、
もしかしたら危険な目にあうかもしれないということか。
「仮に俺が協力者になったとして」
種々の可能性を考慮して俺は契約の確認をする。後で騙されたと騒いでもどうにもならない。
この選択は自己責任なのだから。
「一体俺は何をさせられるんですか?」
「そうさなぁ、とりあえずお前の長所である頭を活かすってことで作戦立案だろ。
後は現場指揮だな。現場指揮つってもそんな大人数操るわけじゃなくて、要は優の補佐役に
回って欲しいんだわ。」
「……………つまり?」
「まあ、平たく言えば優のパートナーになってくんねぇかな、ってこと」
「………………ふむ」
俺に一連の事件のような役回りをしろというわけか。当然危険も孕んでくる。怪我では済まされ
ないケースもあるわけだ。さらに小波との協力。正直なところ俺はこの女との性格に折り合い
をつけられそうにないのだがその戦闘力だけは信頼が置けると思う。
身に迫るであろう危険とそれによって手に入る情報というメリットを両天秤にかける。
迷い、戸惑い。しばらく左右をいったりきたりして揺らぎを見せたものの、俺の意思が選択
を後押しして天秤の傾きを決定付けた。
あの日、俺は兄さんの真相を追うと決めた。
兄さんを否定した世界を否定したい。兄さんが決して犯罪者でなかったことを信じたい。
空っぽだった俺が考えた生きる目的。
その決意は今も俺の中でゆるぎなく、力強く息づいている。
消えない想いが俺の中でメラメラと燃え上がっている。必ずやり遂げるという信念にも似た執念
行き詰った現状。それを打破する手段が向こうから降って沸いてきた。
おそらくこれも一つの転機なのだと思う。
運命の女神の提示した二者択一の選択。誰かが決めることではない。誰でもない自らの決めるこ
と。未来や運命は決められるものではない。自分で決めるものなのだ。
だとするならばここがきっと運命の交差点。
「っていっても強制はしねーし?今ここで決めろともいわねーよ?なんせ大っ事~な選択だから
なぁ。危険な目にもあうことに━━━━━━」
「いいでしょう。引き受けます」
承諾の旨を伝えると江崎はおっ、と意外そうな反応をした。眉尻を上げて表情に如実に驚き
が表れている。手に持っていたタバコの先端から燃え尽きた灰がポロリとひとかけら落ちた。
灰皿を外れてデスクの上に散らばる。
「意外だなぁ~。お前ならもっと深く考えてから結論出しそうなものだと思ったんだけどな。」
「意外と運命だとか流れだとかそういうオカルトを信じる性質なんですよ、俺は。求める
情報を得る機会が向こうから勝手に俺のほうに転がってきた。ならそれに乗ってみるのも
一興かと思いまして」
「………そこに身を滅ぼすような危険があったとしても?」
「多少の無茶は承知の上です。リスクなくしてリターンは見込めない。俺はそう考えていますか
ら」
そこに果たしてどんな真意があったのかは分からない。江崎はどこか満たされた顔で笑っていた
これから何が起こるのかはわからない。江崎の言うとおりに自分が死の淵に立たされる可能性
だってあるだろう。そうなったとしても俺は今このときの選択を後悔しない。
その自信は揺らがない。いつだって俺は自分だけは信じてやると決めている。
他者は裏切っても自分だけは絶対に裏切ることはない。
この世で裏切らないただ一つの存在。それを信じてやらずにどうするというのだ。
了承ということで話はまとまりかけていた。が、そこに不満げな顔をしているのが一人いた。
「なんだ、優。不満そうだな。七音がゴスペルに入んのはいやか?」
「……いや、それがお前の決定だというのであれば私は従うまでだ。
ただ、私の個人的な意見を言わせてもらうならばあくまで民間人を、
それも学生を巻き込むのは反対だな。
同じような年齢の私が言っても説得力はないのだろうが」
「そう思うんなら、お前が守ってやればいい」
「………………」
アラウンズの一角を占める小波 優。
ここでひとつアラウンズについての補足をしておこう。
ゴスペルに所属している能力者というのは諸所に配置されるわけだが
いかんせんその能力者の数自体出生率の2%と圧倒的に少ない。
その中でもゴスペルに入る人間は限られるわけなので数は
さらに絞られることとなるわけだがその人数をどうにか割り振りして
要所要所に配置している。
全国的にゴスペルの能力者は固まらないように点在しているわけだが特例も
ある。
隣町の安塚市には今現在日本で最先端をいく能力研究が行われている
中央研究所がある。
世論は今能力の使用を奨励する革新派とそれを否定する保守派に分かれて
いる。
これは能力というものが認知された数十年前から起こり始めた争いな
わけだが、この中央研究所というのはいわばこの保守派の象徴だ。
ゆえに襲撃される可能性が十分に考えられ、警備体制も磐石。
数少ないであろう能力者の数を割いて7人もの能力者が配備されている。
一人で一つの街、地域を担当するのが普通であるとされている警備基準
からいえばこれは異常に部類されるであろう。
さらにこの安塚の警備を厳重なものにするために桜森、葉仙、
秋峰、雪元の周辺4市
にも一人ずつ能力者が配備された。
重要拠点を取り囲むように配置された、ゆえにその名をアラウンズ。
これに選ばれる者は相応の実力者だ。
その職務をこなす小波の実力は推して知るべし。
実際に小波の実力を目の当たりにした俺も素直に頷けるというものだ。
そこに突然パートナーをつけるという。
良かれ悪かれ、何にしろその胸中は複雑だろう。
だから俺は
「割り切れよ、小波 優。上司の命令には従うんだろう?」
「……………何」
「お前は俺を使い勝手のいい道具程度に思っておけばいい。
その代わり俺もお前を人間とは思わない。
精々が俺の都合のいいように動く人形だ。
使うだけ使ってもう使えないと思ったらボロ雑巾のように捨ててやる。
その程度の関係がちょうどいいだろう?俺たちは」
俺は小波の神経を逆なでするような言葉をわざわざ選んで挑発した。
自分から嫌われるように。
その方が後腐れがないから。
人間関係に気を配って気疲れする必要がないから。
それにどうせこんなことをいっても何の反応がないだろうともたかを
くくっていた。
そして俺はさらに増長するように言葉を継ぐ。
「もっとも、いわれなくてもそれくらいわかっているだろう?
お前のように機械的な思考で動く人間はそれが一番合理的であると。
はは、まったくうらやましい。
そんな冷徹な思考が俺も欲しいもんだ。一体どうすればそこまで自分って
やつを殺せるんだ?教えてくれよ、小波」
嘲笑するように、いった。どうせリアクションは大したものではない。
何事にも無感情無反応な小波 優。
そんな俺の認識はどうやら間違っていたらしいと否定せしめる
ようなことが起こった。
いつものように虚ろに白んだ目で虚空の一点を眺めていた小波 優の目に
突然光が灯ったような気がした。
「………………私が、うらやましいだと?ふざけるな!!」
そういって小波は俊敏に立ち上がり、一息に背の低い木造の机を
乗り越えて俺の眼前に迫った。
思わぬ反応に驚き、一瞬、息が詰まったように停止した。
咄嗟のことに反応できず直前の小波をせせら笑う表情を
顔に貼り付けた俺の胸倉を小波が片手で強引に引っつかみ顔を付き合わせる。
間近にあるその端正な顔にわずかながら表れるは激昂。
黒い真珠のように輝く瞳の奥には静かな青い炎がゆらゆらとゆれている。
そこにチラリと混じる赤が今の小波を表しているのだろうか。
「私は好きでこのような性格をしているわけではない。
人と会話してどういう反応をすればいいか分からない。
どう接すればいいのか分からない。
お前のように知っていてやらないのとは違う。知らないから、できないのだ。
それを、うらやましいだと?馬鹿にするな!!」
ひとしきりいいたいことをいったあとで再度の激昂。
そのまま俺の体は突き飛ばされるようにしてソファーに投げ出された。
小波は 最後に俺をその怒りの篭った目で一瞥して部屋を出て行った。
バタン、とやけに大きくドアを閉める音が響いた。
何が起こったかを理解するのには時間を要した。
そんな俺の思考の渦を断ち切ったのはまたしても江崎の豪快な笑い声だった。
「正解正解大正解。や~っぱお前を選んで正解だわ、七音」
「………………今のやりとりのどこにそんな要素が?」
「うんにゃ、七音は気にしなくていいぜ。こっちの話だから」
クックックッ、と今度は含むようなおかしさをこらえるかのような笑い方
だった。
「そういえば江崎さん。あなたと小波はどういう関係なんですか?
一見してただの上司と部下であるようには思えませんでしたが」
くだけた江崎の口調はともかく他者への礼儀を損なわないであろう小波が
ただの他人にあれだけぞんざいな態度を示すとは思えなかった。
2人の関係を訝ってしまうのも致し方ないだろう。
「知りたい?」
「差し支えなければ」
「親子だよ。ちょいとわけありの、な」
江崎は薄く笑って口から微かな笑い声を漏らした。陰のある笑顔だった。
江崎はそこでもうほぼ吸い終わりのタバコの先端を灰皿に押し付けて火を
消してごく自然な吸いなれた者の動作で2本目を取り出して
火をつけて一息吐き出した。
「………………確認すっけど、とりあえずお前はゴスペルに入るってこと
でいいんだよな?」
「ええ、入るといった以上煮るなり焼くなり好きにしてください。
ある程度の指示には従いますよ」
「ある程度って?」
「俺の気分を害さない程度です。従いたくないと感じれば従いません」
「俺もとんだ跳ねっ返りを入れちまったもんだ」
自嘲するように再び乾いた笑いを江崎は紫煙とともに口から吐き出した。
「ところで、具体的に活動する前にお前に一つ聞いてもらいたい話が
あんだよ。優のことなんだけどな」
「小波、ですか」
「ああ、お前気になったりはしてねーか?何で優がゴスペルの仕事に
専念せずに学生やってるかってこと」
「………………そうですね、それは気になっていました」
ゴスペルの仕事はそれなりの忙しさを伴うだろう。
荒事の処理の渦中に自ら身を投じる
アラウンズならば日夜の訓練はきっと欠かせない。
その時間を削って学校に通う理由。考えても俺の頭では結論に至らなかった。
「優は、少し特殊な育ち方をしてな。
教育は受けてたんだけど学校には通ってなかったんよ。
来る日も来る日も勉強と戦闘訓練。まあ、原因は色々あっけど
ともあれあんな性格に育っちまったわけだ。
けど、本人は希望もなくそれでいいって満足してたみたいなんだよ。
学校に行く必要はないって。
けどな、名暮さん思ったよ。どうにかせんといかん。
娘を想う親として、こんな灰色の青春を年頃の娘に送らせて果たして
いいものか!」
ダンッ、と江崎は拳をデスクに叩き付けた。すぐさま痛がった。
やらなければよかったものを………。
赤くなった拳にフーッフーッと息を吹きかけながら江崎は続けた。
「と、いうわけで高校に入れてみたわけよ。まぁ、そのことを最初
あいつにいったら嫌そうな顔されたけどな。
でもなんだかんだであいつ俺のいうこと
割と聞くからちゃんと従ってはくれたな、うん。
そんで俺が優に何を望んでいるかって言うとだな、
人生を楽しめるようになって欲しいわけよ。
もっというなら人間らしさを手に入れて欲しいんよ」
突然何を話し始めるのかとあっけに取られていた俺はどう返せばいいか
分からず曖昧な反応を返すのが精一杯だった。
ため息を交えて江崎に言葉のボールを投げ返す。
「はぁ、そうですか。で、それを俺に聞かせてどうしろっていうんですか?
いっておきますけどそれに協力しろっていう提案なら却下しますからね。
正直に言って俺は小波が嫌いです。
プライベートで付き合う気はまったくありません」
「いんやー、そんなつもりは毛頭ねえよ。むしろ止めて欲しいくらいだ。
お前には自然体でいて欲しいもん。
別に他意があってこのことを話したわけじゃねぇ。
ただ俺はこういう考えだってことを知ってほしかっただけよん。
分かる?この親心」
「………生憎と子供を持ったことがないのでその心境は如何せん理解
できませんね」
「そりゃそうだ。その歳でお前がパパとか呼ばれてたら俺もびっくりだわ」
顔をクシャリとゆがませて江崎が少年のようにカラカラと笑った。
小波とはとても似つかない表情豊かな男だった。
親子という関係性が不振に思えるほどに。
恐らくはそれが江崎の言ったわけありに直結するのかもしれない。
人間としてどこかが歪んでいる。
小波と事件現場で初めて対面したときに俺は自分と似たような何かを
小波から感じ取った。
シンパシーというのか、それは恐らく小波も同じだったと思う。
その歪みがあれなのだろうか。極端な非人間的無感情。
喜怒哀楽を表に出せない。
他者とのコミュニケーションを自ら取ろうと思えない。
あくまで自分に必要か不必要かの
合理的判断のみで生きていく。でもあいつはさっき━━━━━━
(怒った、よな)
あのときの小波の瞳には普段見るものとは違う生気が宿っていたように思う。
いうなれば人間らしさ。
そのわずかな一瞬、俺は確かに人間と触れ合っていたように思えた。
「んじゃあ、俺の話はこれで終わりっ。仕事についてだとかは追って
連絡すっから。ビシバシいくぜ~。覚悟しとけよ~ん」
「……………お手柔らかに」
江崎と連絡先の交換をして俺は部屋を出た。
日常は非日常に飲み込まれた。
これはその第一歩目。
かくして俺は闘争の渦に巻き込まれていく。
この選択が後にどういう結末をもたらすか知らぬままに。