舞台上の花々:act1『ストロベリーフィールド』
少し前に読んだライトノベルの主人公がやってた、三つ題を出してもらって、短編を書くってやつ。それ、やってみたくてさ、やってみた。短編なんて初めてー。しっかり始めから終わりまで書けたの初めてー。
ちなみに題は『大人の恋』『お酒』『苦い出来事』です。友人に出してもらいました。そして劇団モノにしました。
酷評でもなんでも評価くださると嬉しいです。それ以前に、全部読んでくださると嬉しいかぎりです。よろしくお願いします。
五人が手を繋ぎ、同時に頭を下げると、拍手喝采の嵐が生まれる。誰一人として、彼らを見ていない人はいなかった。
彼女は、その光景に見入っていた。団員たちの活き活きとした顔や、スポットライトに照らされ煌く汗。ステージ上は光に満ち溢れていた。彼女は拍手をすることすら忘れ、立ち去っていく劇団の人たちを、ただただ呆然と見ていた。
浜菊花梨が劇団『フラワーズ』に入団して、二年が経つ。
入団当時はまだ高校二年生だった。花梨はまだ最高学年にもなっていないのに、教師からはうんざりするほど進路の話を聞かされ、両親からはげんなりするほど成績の話をさせられていた。しかも、それらを無視して過ごせるほどの成績を博していなかったので、耳が痛かった。
そんな花梨に機転が訪れたのは、冬休みのことだ。近所の小さなコンサートホールで劇があると聞いて、友達と見に行くことになったのだ。逃避だと言いたいのなら言えばいい。
タイトルは、『ブルーバード』
席は五列目と、悪くない位置だった。
劇の内容はシンプルなものだった。誰からも愛されず、孤独に絶望していた少年が、ついには自殺をしてしまおうと決意するのである。ここまでで、ほんの五分。ここからが本番だった。老いたホームレスのおじさんが、今にも高所から飛び降りようとしている少年を助けたのだ。そして少年は、おじさんと過ごし始め、彼から生きていることの素晴らしさを学んでゆくというストーリーだ。ただ、『ブルーバード』というタイトルのわりに、青い鳥は登場しなかった。
明るいようで、暗いストーリー。それを劇団員たちは派手に、巧みに、そして晴れ晴れと演じきっていた。
しかも、裏方の人数抜いて、たったの五人でだ。
これしかない。これがやりたい。花梨はそう強く思った。
花梨は劇が終わってすぐに、劇団『フラワーズ』のいる楽屋へ訪れた。終演後すぐに、疲れきった劇団員の休む楽屋を訪れるのはタブーかもしれないと一瞬思ったが、そんな程度のことで彼女の足は止まらなかった。
楽屋に入ると、さきほどまで舞台上で動き回っていた面々が、わいわいと談笑していた。
花梨が部屋に入ってきたことに気付くと、全員一斉に彼女のほうを見た。さきほどまで観客全員の視線を受け止めていた人たちの視線が、彼女一人に注がれている。彼女はぐっと拳に力を入れ、緊張に耐える。チャンスは今しかない。そんな気がしたのだ。
花梨は勢いだけを頼りに、入団を表明した。声が裏返っていただとか、必要以上に大声だっただとか、そういうことは、入団後に監督に教えられて初めて知った。
一人の青年が立ち上がり、花梨のそばへ歩み寄った。主に、少年に虐待をしていた父親役だった人だと、花梨は思い出す。
年齢は彼女と同じくらいに見えた。整った顔立ちをしていて、二枚目だ。よく使う言葉で簡単に表すのなら、『男らしい』顔だ。
市販のものよりも二桁くらい高い額の酒を飲むホストか、コンビ二エンスストアで容易に購入できるスポーツドリンクを飲む野球選手か、どちらに見えるかと訊かれたら、花梨は迷わず後者を選ぶだろう。
青年は薄い微笑みを浮かべながら、花梨を指差した。突然のことで、彼女は狼狽したが、そんなことはお構いなしに、彼はずいぶんのんびりとした声で、こう言った。
「この子さあ、五列目か、六列目くらいで見てた子だ」
すごい。花梨は平然とした顔で「そうだろ」と聞く青年を、本当にすごい人だと思った。 青年は、数百人くらい入っていた客、一人ひとりの顔をしっかりと見て、覚えていた。小学校の発表会の練習の時に先生に、「お客さんをジャガイモだと思え」と言われたことがあるが、彼はしっかり人間として観察していたのだ。
花梨の劇団への憧れは、さらに膨れ上がった。その気持ちを買ってくれたのか、オーディションのような催しを特に行わずに、彼女の入団は簡単に決定した。
そんなこんなで、もう二年が経つというわけだ。
花梨は結局、大学に進学することもなく、就職することもなかった。でも、今年から劇団『フラワーズ』の正規メンバーとして認められ、脇役ばかりだが、劇にも出演している。決して高くはないが、給料ももらっている。
そして、今日も公演だった。タイトルは『王子様の優しい約束』だ。意地悪だった王様が、初めて誰かのためになろうと思い改め、ある少女との約束を果たすという物語。
花梨は少女の友達役や、少女が王様へのプレゼントを購入する果物屋の店員さん、さらには少女が街道で出会う老婆など、たくさんの役を演じた。人数が少ないが故、一人で多くの役を担うのは必至なのだ。
楽屋でいったん解散し、花梨は教育係として任命された布袋葵の車に乗った。花梨の家への送り迎えは、彼女が担っている。
「今日は、打ち上げ来るの?」葵が花梨に声をかけた。
葵は背が高く、凛とした顔が特徴的な女性だ。花梨が見た限り、劇団の中では彼女が一番の美人で、しかも優しい。彼女が教育係で本当によかった、と花梨は思っている。
「はい、行きます」花梨は元気良く答えた。
「了解。じゃあ、連れてくね」そう言って葵は車を発進させた。
打ち上げ、といったら『紫陽花』というバー。これぞ『フラワーズ』の常だ。とはいえ、それは打ち上げに限らず、打ち合わせがあったり、監督やリーダーから収集があった場合、必ずこの店に集まる。いわば基地だとか拠点のようなものだ。
『紫陽花』は気品のある店で、決して騒ぐような場ではないが、『フラワーズ』が訪れた時は、そんな常識は容赦なく打ち崩される。団員たちがお祭りでもあるかのように騒いでいるところを、マスターの雪柳さんはいつも苦笑いしながら見ている。
店に入った葵と花梨に、雪柳さんは軽く会釈した。穏やかな人で、声が小さい――のだが、舞台に上がると豹変する。そう、彼は一応『フラワーズ』のメンバーとして登録されているのだ。どうにも人数が足らないときのピンチヒッターとして、ときどき劇に参加するのだ。そのときだけ彼は、大声を出し、どんな台詞も難なくこなす。
「ちょっと、あんたまたそんなことやってんの? ありえないわ」鋭く、高い女性の声が店内に響いた。
「うっせえな、もう。お前に貧乏人の気持ちが分かってたまるか」と大声なのにも関わらず、爽やかさを感じさせる男性の声が続いた。
花梨の隣で、葵が大きな溜め息を吐いた。雪柳さんも、やはり苦笑している。
女性のほうが海棠恵理花で、男性のほうが芹野瑞生だ。この二人の口喧嘩は、『フラワーズ』ではもはや日常茶飯事なのだ。
「おっ、今日は来たか」と打ち上げの欠席率の多い花梨に話しかけた男性は、石蕗鉄線。
鉄線こそが、花梨が始めて『フラワーズ』の劇を見た日、彼女の顔を覚えていてくれた男性だ。
「ちょくちょく参加しとかないと、忘れられてしまいそうなので」花梨が照れ隠しに頭を掻きながら言った。
花梨があまり打ち上げに参加しない理由は単純なもので、十九歳とまだ未成年なので、『紫陽花』のようなバーに来ても、他のメンバーと一緒にお酒が飲めないからだ。
鉄線の前の席が二つ空いていたので、葵と花梨はそこへ腰掛けることにした。花梨は鉄線を正視することを恐れて、彼の前の席は葵に譲った。
他のメンバーがどう思っているか知らないが、彼は魅力的だ。花梨は少なくともそう思う。恋心を含んだ目で見ているわけではないが、多少の意識はしてしまう。
「ねえ鉄線、リーダーは?」と葵が訊く。
「まだ来ない。てか、来るのかな」と鉄線が答えた。
「あの二人、また喧嘩ですか」花梨は控えめな声で質問してみた。意図的ではなく、勝手に声は小さくなっていた。
花梨が言い合いを続ける恵理花と芹野を指差すと、鉄線は呆れた顔で頷いた。
「また前と同じ理由で口喧嘩してる。芹野が楽屋に送られてきた差し入れの余りをごっそり持ち帰って、海棠がそれにいちゃもんをつける。またあんたは。お前に貧乏人の気持ちが分かるか。その繰り返しだ」
「つまり、いつも通りね」葵は再び溜め息を出した。
葵も鉄線もリーダーではないが、この劇団を支えているのは、殆ど彼らだ。
葵は二十五歳と、雪柳さん除けば、舞台上に上がるメンバーの中では最年長だ。鉄線はまだ二十二歳と若いが、彼の落ち着いた風貌は、他の誰よりも大人びている。
「ちーっす」と、三人の女性が店内に入ってきた。
「よお、クッキーズも来たか」鉄線が手を上げた。三人の女性も、それぞれ手を上げる。
彼女らは茶子さん、桜子さん、撫子さんの三人からなる、クッキーズと呼ばれる三姉妹。『フラワーズ』では裏方を支えてくれている。
どうしてクッキーズなのかというと、それは茎からきているらしい。『フラワーズ』、つまり花を支えてくれているから、茎。そこからクッキーになり、複数形だから、クッキーズなのだそうだ。
数分後、リーダーである赤井椿が店に到着した。彼女は背が低く、痩身で、しかも童顔。花梨の見た劇で、主に少年役をこなしていた人だ。
花梨が入団した当時、彼女は椿のことを年下だと――中学生くらいだと思っていた。今思えば、そのことを口に出さなくて正解だった。
「いらっしゃい、椿さん」
「うーっす」と上機嫌で入ってきた椿は、いきなりカウンターの上に飛び乗った。「おっ、よかった。今日は花梨ちゃんいる」彼女は右手を眉の上に当てながら言った。敬礼するような形だ。
雪柳さんは、さすがに苦笑いはせず、怪訝な表情を浮かべている。
「ちょっと、椿さん、それはさすがに困りますよ」
椿は雪柳さんに向かって、にっとはにかんだ。そして、大量の空気を吸い込んだ。もしかしたら、実は彼女の中に掃除機が導入されているのかもしれない、と花梨はその光景を見るたびに思う。
「『フラワーズ』、集合!」
それは、あの小さい身体から出たとは到底考えられない、メガホンでも使ったかのような、とてつもない大声だった。それは全力を出した雪柳さんの声よりも大きい。イヤホンからの音漏れがスピーカーの音量を超えたようなものだ。
団員たちがぞろぞろと、椿のもとへ集まる。当然、花梨も。どれだけ小さくても、彼女はリーダーなのだ。
「なんだよ椿、テンション高いな」と芹野。
「決まってるじゃない。吉報よ、吉報」と恵理花。
さっきまで喧嘩していた二人は、もう仲良く話していた。しかし、またすぐに喧嘩を再開することを、この二年間で花梨は学んでいた。
「吉報っ!? てことは、給料アップか」
「はあ、そんなわけないじゃない。なんで吉報って聞いて、すぐ金の話になるのよ」
「うるせえな! お前になにがわかるってんだ!」
「ええ、分からないわね。あんたみたいな超貧乏人の気持ちなんて」
と、やはり喧嘩が始まった。
「こっらあ! 喧嘩すんなあ!」と椿が二人の言い争いを止めた。「あたしの話を聞け!」
「で、なんなんだ。でかい声で集合かけて」鉄線が落ち着いた声で訊いた。
「聞いて驚くなよ。なんと『フラワーズ』は、感劇祭の参加権を得た」
店内が、しんとなる。
感劇祭、というのは県内最大の演劇のコンクールだ。劇の映像を投稿し、審査を通った八劇団だけが出場権を得る、という極めてレベルの高いものだ。野球でいう甲子園、とまでは言えないが、作家志望にとっての新人賞の締め切りくらいの存在の大きさはある。
そんな大きなイベントを、団員たちが知らないわけがない。
一同が黙りこくっている理由は他でもない、そんな大きなコンクールへの出場を突然発表され、ただ唖然としているのだ。
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってよ」と葵が焦った声を出した。「いつの間に投稿なんてしたの?」
「半年くらい前」椿の返事は、至って平然とした声音だった。今何時? という質問に対して三時だよ、と答えるくらいの軽さを感じる。
「嘘でしょ。あたし、聞いてないよ」言いながら、葵は頭を抱えた。
「うん。だって、言ってないよ」
「冗談きっついなあ」
「え、ええ、ちょっと、なんでみんな喜ばないの?」と椿がわけのわからないジェスチャーをしながら言った。水に溺れて足掻いているように見える。
「だって、来月なんでしょ、感劇祭。シナリオとか、舞台造りとか、練習だって、一ヶ月でやんなきゃいけないんだよ。間に合わないって」
葵の必死な説得に、椿は溜め息を吐いた。
「だってさあ、まさか通るとは思わなかったし……」
「椿、ちょっとあんた、そのガキんちょみたいな言い訳、あんたの形にぴったりよ」恵理花が口を挟んだ。椿には悪いが、花梨は心の中で同意した。
そのうち、ざわつきが起こった。大半が「どうするんだ」というような困惑によるものだ。
「おーい、お前らさあ」と珍しく声を張ったのは鉄線だった。「うだうだ言ってても仕方ないだろ。出場権破棄するつもりか? もう決まっちまったんだ。出るしかないだろ」
一瞬静まり、そして一気に歓声が起こった。さすが、と花梨は心から感心した。さすが、わたしの憧れの先輩だ、と。
「そうだね。たしかに、鉄線の言う通りだ」と葵が続いた。
「そういえば、感劇祭って、お題が決まってるんですよね」花梨は気になったことを訊いてみた。「今年はなんなんですか?」
「そういやそうだな。なんなんだよ、題」芹野が楽しそうに聞いた。彼はきっと、コンクールの優勝賞金が百万円だということを思い出したのだろう。
すでに全員が参加に賛成する雰囲気になっている。これが、鉄線の言葉の力なのだ。椿が行き先を指し示し、鉄線が誘導する。躓いたら、葵が支えてくれる。それが『フラワーズ』の基本的な在り方なのだと、花梨は思った。
椿は、ひっひっひと不気味な笑いを発した。そして、どこからか一枚の紙を取り出し、団員たちに見えるように掲げ、そこに書いてある文字を読み上げた。
「第十四回観劇祭。表題は、大人の恋愛」
店内が、溜め息に包まれた。
雪柳さんと花梨を除けば、舞台上に上がるメンバーは全員二十代だ。大人の恋愛なんて、分かるようで分からない。
「あのぉ……シナリオは?」
葵が恐る恐る訊いてみると、椿は即答した。
「それは葵がやるに決まってる」
シナリオは、いつも葵が担当している。ときどき椿が書いているらしい。ちなみに、花梨がこの劇団に入るきっかけになった作品のストーリーは、椿によるものだったらしい。
「ええっ、やっぱりそうなるよね。冗談きっつぅ」
「で、主人公なんだけど、鉄線よろしく」
「えっ、俺は?」と芹野。
「セリーヌは、違うじゃないか。高校生とかが主役なら分かるけど、セリーヌに大人なんて言葉は似合わない」
芹野は、鉄線とは逆で、ホストか野球選手かなら、ホストに見える。美青年で、女装が似合いそうな綺麗な顔だ。だが残念ながら、彼はコンビ二でスポーツドリンクを買うにも十数分間悩まなければならないほどの貧乏人だ。
ちなみに芹野は、椿とクッキーズ、あとはファンの方々からはセリーヌと呼ばれている。
「お前だけには言われたくねえよ」
「まあまあ。で、問題はヒロインなのね」
「お前意外なら誰でもいいだろ」そうとう根に持っているのか、芹野が小さいリーダーを冷やかした。
椿は芹野を無視して続けた。
「誰がいいと思う?」
「ねえ椿、わたしも芹野と同じタイプなんじゃないの?」と恵理花。
恵理花は長い髪を茶色に染めていて、一見、清楚そうな顔をしている。が、良いのは外面だけで、言葉遣いと態度は非常に悪い。そして短期だ。
「そだね。じゃあ、花梨ちゃん、やろっか?」
「えっ、わたしですか!?」
なぜか、葵を飛ばして花梨が候補に挙がった。しかも、候補というよりも、すでに決定しているような言われようだ。
「初めてだよね、ヒロインなんて! やりなよ」と葵に後押しされた。
「たしかに、花梨ちんは大人っぽい色気あるよね。恵理花の二千倍綺麗だし」と芹野。
「よーし、決定ね。瑞生、あんたはちょっと表出なさい」と言いながら恵理花は芹野を思い切り睨め付けた。
どうやら、決定してしまったらしい。
「ちょっと、本当にわたしでいいんですかっ?」
「いいんだよ。花梨ちゃんもう二年もここいるわけだしね」と、にこやかなリーダー。
「そういうことだ。頑張ろうぜ」花梨の隣に立っていた鉄線が、彼女の肩を数回叩いた。
とくん、と花梨の心臓が高鳴ったことは、おそらく誰にも知られてはいないだろう。
さっそく、練習は始まった。台本は、葵が三日で完成させた。「長編小説じゃあるまいし、このくらい余裕よ」と少しやつれた彼女が胸を張っていた。
練習会場はさまざまだ。貧乏な『フラワーズ』に専用の練習会場などないわけで、主に使用するのが市営の地区体育館だ。次の候補が公園。どこにも空いているスペースが見つからなかった場合、『紫陽花』で騒ぎながらの練習となる。
この日は、『紫陽花』から最寄の公園での練習だった。
『紫陽花』で練習してもよかったのだが、クッキーズが舞台材料を造りたいということで、それなりの空間が要されたので、公園となった。
まずは台本を読みながら、大まかな動きを確認しつつ、少しずつ発声練習をしていく。
花梨は初めてのヒロインなのに、うきうき気分ではいられなかった。なにせ、舞台はあの感劇祭なのだ。本番のことを想像すると、今にも緊張で倒れそうだ。
主役の鉄線は、淡々と練習をこなしていた。花梨は、彼とのラブシーンがあるという旨のことを聞いて、感劇祭によるプレッシャーとは違う緊張が走っている。
「よし、今日はここまで」と椿の声がした。ただし、ここまで、とは言うものの、実際ここからが大変なのだ。「次、『動物園の姫君』の練習入るよ」
これが大きな問題だった。感劇祭まで一ヶ月。しかしこの一ヶ月の間に、他の公演が二つ決まっている。
一つが『動物園の姫君』。魔法で動物にされてしまった恋人が、動物園に保護された、という話を主人公が聞き、彼が毎日そこに通うというストーリーだ。主人公の彼は、恋人がなんの動物にされてしまったかを知らない。毎日、あらゆる動物に向かって、恋人の名前を呼ぶ、というものだ。花梨は、いろんな動物の役。姫君役は恵理花。
もう一つは『沈黙の歌声』。病気によって声を失ってしまった歌手志望の少女の物語。余命が少ないと宣告され、最後にライブを開くことになった。声のない、静かなライブ――になるはずだったのだが――。そんなストーリー。声の出ない歌姫役はリーダー椿。花梨はその友達役になった。
そして、感劇祭がある。三週連続で公演だ。
タイトルは『ストロベリーフィールド』に決定していた。ヒロインの少女は、年上の青年、つまり主人公に恋をするのだ。しかし、全く相手にされない。彼女は、必死に色気を出し、彼の気を引こうとする、という物語。そして、ヒロイン役に、花梨。
三つとも、ストーリーは葵がこなした。
「えええ~と、花梨ちゃんと鉄線は『ストロベリーフィールド』のほうの練習続けてて。で、恵理花と芹野はあたしの言った通り『動物園の姫君』。葵は雪柳さんと監督呼んできて。雪柳さん来たら、『沈黙の歌声』やるから。クッキーズ、背景の塗装は後でいいから、動物園のセット優先。あたしは花梨ちゃんたちの指導行くから」
椿が早口で支持をした。各々が、さっそくその通りに動き出す。
花梨の練習は難航していた。ヒロインが主人公に振り向いてもらうために出す色気が、これほどかと言いたくなるほど出せない。色気ってなんだ、と誰かに訊きたいくらいだ。
こういうときはリーダーに訊けばいいものだろうが、あいにく『フラワーズ』のリーダーは色気なんて言葉とは無縁だ。
「うぅ、鉄線さん、どうすれば巧くできますか?」
「俺なんかが指導していいのかな」と鉄線は遠慮がちに訊いてくる。
「お願いします」元気良く言ったつもりが、自分でも分かるほどこわばった声を出していた。恋愛シーンなんて、プレッシャー以外の何者でもない。しかも、憧れの先輩とだ。
「とりあえず言えるのが、恋愛してるって雰囲気が出てない」
「うぅ……ですよね。わたし、恋愛経験があまりないもので……」
「まあ俺も似たようなもんだけどな。花梨は俺と違って演技巧いんだ。とにかくれ――」
鉄線がなにかを言おうとしたところで、どこかから聞こえてきた声に遮られた。
「だめだめだめ~!」椿だった。
「なにがなんだ?」と鉄線。
「花梨ちゃん、君はもう演技をするな。やめろ」
衝撃の告白だった。鉄線はぽかんとした顔で彼女を見ている。
花梨は焦って反論した。「ええっ、もうちょっと頑張らせてください!」
椿は軽い溜め息を吐いた。
「それは当たり前。花梨ちゃんがやるに決まってる。でもこのままじゃ駄目なんだ。君はもう十分声は出てる。でも駄目なんだ。感情が希薄なんだ。心をこめろ、というか心を作れ、自分の中に。その登場人物の演技をするって気分で挑むなよ。その登場人物になるんだよ。なった気分でやるんじゃない、実際になるんだよ、そのキャラクターに。だから、一回演技をやめな。花梨ちゃん自身でやってみな。むしろその登場人物を花梨ちゃんにする考えでいく作戦だよ」
椿は早口でそう言って、ふうと息を吐いた。花梨はといえば、分かったような分からないような、微妙な気分だ。
「そんな作戦いいんですか!?」
「ほら、例えばね、カバー曲とかあるじゃん。同じ曲を違うアーティストが歌うやつね。あれは、同じ曲を歌ってるのに、全く違く聴こえるわけよ。それは、やっぱり歌い手、ここでいう演技者の個性なのね。今の花梨ちゃんには、それがないの。任せられた台詞を、ただそれっぽく読んでるだけなの。機械的って言えばいいのかな。で、それじゃあ駄目って言ってるの」
「うぅ……そっか。……どうすれば、いいですか?」
「今までの恋愛を活かしなよ。恋した時の気持ちを思い出して」
「あっ、でもわたし恋なんて全然……」
「全くないわけじゃないんだあ」
「そう、ですけど……」花梨は泣きそうな声で言った。
「ええ~い、もう。なら今すぐ恋しろやい。三日以内だ」
滅茶苦茶なリーダーだ。
花梨は思った。裏で、葵はこんなふうに言われていたのかもしれない。「さっさと台本書けやい。三日以内だ」とでも。
「恋しろって言わても、難しいです」
花梨は、葵と一緒に『紫陽花』にいた。例によって、雪柳さんと芹野もいる。
芹野は『フラワーズ』で演劇をしながら『紫陽花』でアルバイトをしているのだ。つまり、雪柳さんとは逆の立場ということだ。
「ふふっ、恋に恋してるよ」と葵に茶化される。「好きな人とか、いないの?」
花梨は渋い顔で首を傾けた。真っ直ぐに頷こうと思ったが、ふいに鉄線の顔が脳裏に浮かび、彼女の肯定を制止した。自覚はあるが、その気持ちを自ら、自分に見つからないように隠した。恋をしているのが嫌なわけではない。自分でも理由はわからない。
雪柳さんには肩を揺らしながら笑われてしまった。
「恋すると、どうなるんですか?」花梨は雪柳さんに訊いてみた。こうなりますよ、と鏡でも出されたら、彼女は憧れの先輩に好意を持っていることを認めるほかない。
雪柳さんは不意打ちを食らって驚いた様子だったが、すぐに笑顔に戻った。興味を持ったのか、店内を掃除していた芹野が近寄ってきた。
「私ですか。そうですね、熱せられますよ」
その言葉に、花梨以外の二人が吹き出した。特に葵なんて抱腹絶倒している。
「でも、まんざらでもないかもね」と葵。
「熱せられるんですか」花梨は真面目な声で訊き返す。
「そうですねえ。これと似ていますよ」と雪柳さんが指差したのは、カウンターに立つ彼の裏にずっしりと並べられた酒瓶。ボトル、といったほうが正しいのだろうか。花梨はそれを見て安心した。よかった、鏡ではなかった。
「お酒も飲んだことありません」
「飲んでみます? 少しは分かるかもしれませんよ」
「ええっ、わたし、まだ二十歳になってないんですけど」
「そんなこと言ってたら、『大人の恋愛』なんて題の劇、できるわけないですよ」
「うっ、たしかにそうかもしれませんけど」花梨の心は確実に揺らいでいた。断固たる、未成年は飲酒禁止、という意思が薄れてきている。
「ちょっとくらいなら大丈夫だよ」と葵が悪戯っぽく言う。そうかも、大丈夫かも。
「一杯だけくらいいいんじゃね」そうだね、一杯くらいいいよね。
芹野の言葉を合図に、雪柳さんがグラスに一杯注いでくれた。花梨はそれをまじまじを見つめる。半透明の艶かしい桃色をした、綺麗な液体だ。花梨にはなんとなく、いやらしい雰囲気を帯びているように見えた。
「無理に、とは言いませんけど。お酒を飲まない客はあまり好ましくないものでね」
「それって、飲めって言ってるようなものじゃないですか」
そう言って、花梨はごくりと唾を飲み込んだ。初めてお酒だが、量はそんなに多くはない。大丈夫だろ、と心の中で何度も呟いた。なにせ、あの椿だって、あの姿でお酒を飲んでるくらいなのだ。
「あれ、ちょっと、雪柳さんこれ――」葵がなにかを言いかけたときには、花梨は既にグラスを口に運んでいた。
「あっ、まずいですね」と雪柳さんが声を発したときには、グラスの中は空っぽだった。
ぐん、と熱いものが花梨の胸の中に現れた。無意識に身を縮こませていた。自分で自分を思い切り抱きしめたくなるような、そんな感覚だった。いや、できることなら誰かに抱きしめられるのも悪くないかもしれない。
――というようなことを思ったのは、彼女が目を覚ました後のことだったが。
ガシャン、という思わず目を瞑りたくなるような音が店内に響いた。
「あらら」と芹野が情けない声を出した。「花梨ちゃん倒れちゃったよ。いったいなに飲ませたのんだ」
「なにっていうか、塵ほども薄めずに出してしまいましてね。ここに来る客、強い人多いので、いつもの癖ですね」と雪柳さんが笑いながら言う。
「ねえ、あまり大丈夫ではないよね。アル中とかじゃないの、これ」葵は顔色を悪くした花梨を見下げて言った。
「では、助けますかね」
「了解。車まで運ぶから、あとは葵よろしく」
「はいはい」
三人によって、花梨は自宅まで搬送された。
花梨が目を覚ましたのは、翌日の昼だった。彼女は一瞬わけが分からず、辺りを見渡した。見覚えのある本棚、装飾品、ノートパソコン。どうやら自分の部屋で寝ていたらしい。
次に、葵が寝ているの姿が見え、少し安堵した。彼女は花梨のベッドに突っ伏すような形で寝息を立てていた。
そして、昨日のことがだんだん思い出されていく。
次の瞬間、花梨は妙な頭痛に襲われた。それと吐き気。気分が急激に悪くなる。
花梨は再び、ぐったりと横たわった。その衝撃で目が覚めたのか、葵がふと頭を上げた。目は半分瞑っている。彼女は花梨のほうを見ると、安心したように息を吹き出して、「花梨、おはよ。大丈夫?」と聞いてきた。
花梨は首を斜めに傾けた。決して大丈夫とは言えない気がしたからだ。
「そういえば、練習行かなくちゃ」花梨は思い出して言った。「明後日だよね、本番」
「『動物園の姫君』ね。だって花梨は台詞もう完璧でしょ。なんとかなるよ」
「葵さんは、いいんですか?」
「大丈夫だよ。そもそもあたしが書いたストーリーだからね」
「そうですね。うーん、でもわたし、どうしましょう。『ストロベリーフィールド』で、ヒロインなんてできるかな」
「できる、できないじゃなくて、やるんでしょ、花梨は」
「台詞はもう全部覚えたんでしょ」という声は、葵のものではなかった。
花梨は驚いて葵の向こう側を見ると、そこには椿が立っていた。リーダーまで家に来た理由は分からないが、もしかしたら心配してということかもしれない。そうだったのなら、少なからず嬉しい。
「あっ、おはようございます」と、花梨はきちんと挨拶したあと、「台詞のほうは覚えましたけど」と続けた。
すると椿は花梨のほうへ寄って来て、ベッドに腰掛けた。彼女は葵に笑いかけると、葵も反応して、目をこすりながらだがにこやかになった。
「ごめんリーダー、寝ちゃってました」と可愛らしく頭を掻きながら言っている。
「それはいいよ。花梨ちゃん元気そう――ではないけど、まあ目が覚めたわけだしな」
「それより椿隊長、あたしの言った通りだったでしょ?」
「そうね」と椿は何度も頷いた。「まあ、あたしも気付いてたけどね」
「えっ、なにがですか?」
「あたしたちはさ、花梨ちゃんのそういうところが気に入ってるんだよ」
「そういうところ?」花梨はそう訊いてはみるが、先程の葵との会話からして、心当たりが全くないでもない。
「頑張り屋なとこ」と葵が嬉しそうに、短く言った。
「研修中に葵から何回も何回も言われたんだよ。花梨ちゃんはすごいってな。君は、どんな役のどんな台詞でも、台本渡した次の日には半分以上暗記してくるじゃない?」
「役者魂だね」とまたも短く言われる。
その言葉に、花梨は嬉々とした照れ笑いを見せた。脈がほんの少しだけ速くなる。
花梨は誰にもなにも言われたことがなかったが、実は椿の言うとおり、台本は貰ったその日に熟読してなるべく覚えるようにしていたのだ。
隠れてしていた努力がばれていたということだ。
自分がしっかり見てもらえていると知って、花梨は思い切り拳を掲げたいくらいの気分だった。そういうことを言われると、興奮で脈が速くなるんだと、彼女は知った。頭痛が消えてくれる雰囲気はないが、気分は悪くなくなった。
「はい、頑張ります」
「頑張ります、はおかしいね」と葵は言う。「もう十分頑張ってる。もっと頑張ります、のほうが正しいね」
「ああもう、さっすが葵は細かいなあ。言葉はね、伝わればいいんだよ」
「なんだと、チビ! それはちょっと聞き捨てならないよ」
「必要以上に文法とか覚えるから、メールが長文になって面倒くさがられるんだよ、葵は」
「誰だよ、あたしのメールを面倒くさがった奴」
「はい、あたし」椿が左手を挙げ、にやにやしながら言った。にたにた、といったほうが正しいかもしれない。
「あたしもう大人だから、さすがに五つ下の子に暴力は振るわないけどね」葵も笑顔になる。「でもやっぱり、あんただけは腹立つわ!」
二十歳過ぎた二人の女性が、小学生のような喧嘩を始めた。頬を引っ張ったり、腕をつねったりというレベルだ。引っ叩いたり、髪の毛を引っ張ったりといった(女性にとってはそれなりに)ハードボイルドなことはしていないものの、確実に暴れている。
花梨はそれを見ながら、トムとジェリーを思い出した。小さい椿と、長身の葵。仲良く喧嘩しな、と心の中で口ずさんだ。
その光景は、姉妹喧嘩――というよりも、兄弟喧嘩に見えた。背の高い葵のほうが優位だと思われていたが、椿も負けていなかった。椿のデコピン攻撃に、葵は苦戦していた。まるで蜂の大群に襲われているようなだった。
「椿さん、窮鼠猫を噛むだ」と花梨は笑いながら言った。そういえば、トムとジェリーも鼠と猫の話だったな、と彼女は思った。
「それはちょっと違うね」と言ったのは、痛そうな顔をした葵。「窮鼠猫を噛む、ってのは、追い詰められた者が大逆転することを言うから、今の私たちとはニュアンスが違う」
「葵、細かい」
「あたしは日本語を大切にしてるのよ」
花梨は面白半分で観戦していたが、葵の肩が壁に当たった衝撃で棚の上からぬいぐるみが落ち、肝心なことに気が付いた。
「あっ、あの、すみません。ここわたしの家なので、そんな、暴れないでください」
花梨の声は、虚しくも二人の耳には届かなかった。
二日後、『動物園の姫君』は、大成功で幕を閉じた。いつもならここで打ち上げの話になるところだが、今の『フラワーズ』にそんな余裕はない。
花梨は、今日も鉄線と『ストロベリーフィールド』の練習。他のメンバーは『沈黙の歌声』のほうの練習だ。今日は椿もそちらを練習すると言っていた。鉄線はそっちの劇ではたいした役は演じないので、こちらの劇の練習に入念できるというわけだ。
「コウタ先輩、ちょっといい」
「な、なに? ミユキちゃん」
「わたし、ね、コ、ウ、タ、先、輩、ノ、コ、ト、ズ、ッ、ト、好、キ、デ、シ、タ」
「ミ、ミユキちゃん、お、俺もだ。俺も、ミユキちゃんのこと――」そこで、電車の扉は閉められる。
ミユキが、コウタに恋をする話なのだ。コウタは当初相手にしなかったものの、だんだんと彼女の必死なアプローチに気付いていく。
物語のラストは、数年後、誰かと誰かが再開するというもの。多くは語らない曖昧なラスト、というのが葵の得意技だ。街を歩くミユキに、誰かが声をかける。「ミユキ」と名前を呼ぶのだ。誰かは言わない。どうなったかも言わない。ただ、彼らはそっと身を寄せ、そこで照明が落ちる。
鉄線は主人公役を軽々とこなしていた。一方、花梨は顔を真っ赤にしてしゃがみこんでいる。情けない。分かってる。
「成長しないな」鉄線が苦笑いしながら言った。
「へへっ、直球ですね、鉄線さん」花梨は髪を掻きながら答える。
「悪いな。遠回しに言われても嫌だろ」
「恐縮です」
この日花梨は、椿の指示通り、演技をしない作戦を実行してみた。だが、結果は悪く、鉄線には完全に棒読みだな、と言われてしまった。
上手くいかない理由は他でもなかった。なにせ憧れの先輩である鉄線相手なのだ。しかも二人きり。なぜか緊張して、とぎまぎしてしまう。それに、シナリオにも問題がある。葵が悪意を持って作ったのでは、と疑いたくなるほどだ。
「本当に恋愛経験ないんだな」
そう訊かれ、花梨は大きくこうべを振った。大きく振ったのは、真面目な顔でそんなことを訊いてくる鉄線がなんというか――どこか愛くるしくて、それを見て顔の温度が上がってきているのを抑えるためだ。
「全くってことは、ないですけど」花梨はさらに手を振る。団扇のように。
「あるのか。その時の気持ちとか、思い出せないのか?」
「思い出したくないって感じです」花梨は正直に言ってみることにした。
「嫌な思い出なわけだな。なら、無理にとは言わないよ。でも、このままじゃあ本当にまずいな」
しん、と沈黙が訪れた。しん、なんて音もないほどの沈黙だ。
数分の間練習もせず二人で黙り込んでいたが、花梨はついにその状況に耐えられなくなり、口を開いた。
「鉄線さん、大人の恋愛って、なんなんですか?」
「すごい難解そうな質問だな」
「わたし、分からないんです。中学校のころから、恋愛なんてしてなくて。そもそも男の人苦手なんですよね」
「俺や芹野はいいのか。雪柳のおっさんとか」
「鉄線さんたちは優しいです。それに、もしわたしが鉄線さんたち避けてたら、今頃この劇団から追い出されてる気がします」
「たしかに」と鉄線は笑った。
「人から見れば、どう思うかわからないですが、わたしにとっては、ひどいことされたんですよ」
「ほお、なにがあったか話してくれそうな口ぶりだな」
花梨はそこで持っている台本を見せた。『ストロベリーフィールド』
とある女性が、五歳も年上の男性を好きになる話だ。しかし、最初は全く相手にされない。
「これに似てます」
「ストロベリーフィールド?」
花梨は頷く。
「この話に、ちょっと似てます。中学の時、好きな高校生の先輩がいたんですよ」花梨は、なるべく明るい口調で話そうと、高揚した声を出した、つもりだ。
「ガキっぽいからって、払われたわけだ」
「見事に」笑うしかない。
「まさか、それだけってことはないだろ?」鉄線は薄い笑顔を浮かべて言った。花梨は、その笑顔に妙に安心させられた。鉄線にならなんでも話せそうだ、と感じた。
「襲われました」と、花梨は平然と言うことができた。
「ガキっぽいのにか」
「へへっ、逃げましたけど。わたし、逃げ足の速さと隠れる才能だけはあるんです」
「見る目がねえな」
ガキっぽい花梨を襲う彼か、そんな彼を好きになった花梨か、のどちらかだろうと花梨は察した。
「どっちのですか」
「両方だよ」
「見事に」やはり、笑うしかない。
「で、逃げたことに腹を立てて、逆襲してきたわけだな」
「ご察しのとおり、ですね」
「で、逃げ切れたのか?」
「微妙なところです」
「微妙ってなんだよ」鉄線が首を傾げる。笑うでもなく怒るでもなく、少し困惑した顔をしていた。
「また襲われました。しかも複数できたんですよ。しかも、何回も来きました」
「下劣だな。今すぐ殴ってやりたいくらいだ。俺はそういうのは嫌いなんだ。かぼちゃのコロッケより嫌いかもしれない」
「あ、でも、その、交尾のようなことはされてませんよ」花梨は顔の前で平手を振る。交尾、なんて言葉を選んだのは意図的にだ。他の言葉を使ってしまうと、人間っぽくて、どこか生々しさを感じる気がしたから、嫌だった。
花梨は鉄線の真摯な顔を見た。よかった、ちゃんと聞いてくれてる、と心の中でほっとする。さすがに目を合わすことはできなかったが。
「ああ、はい」いい加減な返事に聞こえるが、鉄線はやはり真剣な顔をしていた。
「でも、やっぱり怖かったんですよ。男の人って、あんなに力が強いんだって、初めて知りました。捕まれたら動けませんし」花梨は明るい口調で言ってみるが、竜頭蛇尾だった。半分くらいからは、泣きそうな声になっていた。
「権力は銃口から生まれる、って言葉があるな」
「えええっ! だ、だから、されてませんってば」花梨は顔を真っ赤にして言った。
「そういう意味で言ったわけじゃない」鉄線も少しだけ顔を赤らめ、がしがしと頭を掻いた。「つまり、支配されたわけだ」
「支配……ああ、はい、そうかもしれません」
「下劣だな。そういうのはパイナップルが入った酢豚よりも嫌いだ」
「酢豚、美味しくないですか?」
「パイナップルはいらないだろ。甘味の乱用はよくないだろ」
「鉄線さん、もしかしてサラダに林檎とか入ってたら嫌な人ですか?」
「見事に。塩バニラとかもありえないな」花梨の目の前で座る、凛然とした雰囲気を帯びた憧れの先輩は、子供のような好き嫌いを打ち明かし、子供のように笑った。「でも、なんとかなったんだな」
「奇跡が起きたんです」
「奇跡、ねえ」
「ついに救助されました」
「親切な人がいるもんだな」
「武器も何も持たずに、文字通り殴り込みに来たんです。彼の同級生だと思うんですよ。名前叫んでたし、なんか知り合いっぽかったし。それからというもの、彼らは来なくなったとさ、ということです」
「そりゃあ正義感溢れる高校生だな」
「どこか上の空ね」と恵理花に指摘されて、花梨は我に返った。『沈黙の歌声』まで三日、という日だ。「練習に身が入ってないわ。まあ、どうせ『ストロベリーフィールド』のことでしょ?」
「図星です」
「いいじゃない。主役に鉄線よ。完璧じゃない」
花梨は首を傾げた。どのあたりが「完璧」なのか分からなかった。
「はあ、そうですかね」
「だって、花梨ちゃん、鉄線に気があるんじゃないの?」
花梨はそこになにかを入れてほしいとでも言わんばかりに大きく口を開いて、数秒の間静止した。そんな話は聞いたことなかったし、話した覚えもなかった。
「図星です」花梨は至極素直に答えてしまった。今何時? という質問に対して三時ですよ、と答えるくらいの無重力さだった。
恵理花は無言で何度も頷いた。彼女が恋愛話が好きなことは知っている。これは質問攻めかもしれない、と花梨は覚悟を決めた。しかし、恵理花は花梨の頭に手をぽんと載せると、くしゃくしゃと優しく掻き毟った。
「なら、本当に想い伝えるみたいに、台本読んじゃいなさいよ」
まさかの、アドバイスをくれた。
「それができたら苦労しません」
「劇ってのはさあ――まあ、わたしなんかが言うのもあれだけど――演じることが第一に大事、だとは思わないんだよね、わたしはね」
「へ?」
「まず第一に考えることは、いかに巧く演じるかじゃないのよ。こんなこと言ったら、他のメンバーに批判されちゃうかもしれないけどさ、私情を持ち込むのも、わたし的にはオッケーだと思うってるの」
「私情は忘れろと、かつて監督に言われました」花梨はくすくすと笑って言った。そして、恵理花の顔を見て、先を促した。
「気にしなくていいの。錦木監督は、置物みたいなものだから。飾りみたいなものだから。で、一番大事なのって、まずお客さんじゃない?」
錦木監督は名義上監督だが、実際はときどき見に来て、ときどき指示するだけだった。
「ええ、そりゃあ、そうですね」と花梨は頷く。
「だから、私情を持ち込んでもいいの。要は、とりあえずお客さんが感動できればいいのよ。今日のわたしの演技激ウマだったわー、とかね、そういうのって、わたしから見ればただの自己満足なのよね。その演技を見て、お客さんがどう思ったかなんて分からないじゃない? そう考えると、私情を持ち込んだほうがいいかもしれないよ。だって、それって、嘘偽りないものじゃない。演技じゃないではないか、なんてクレームはたぶん、来ない。来たとしても、わたしが言い訳してあげるし。彼女、演技巧すぎるんですよ、ってね」
「恵理花さん……」
花梨は今までの恵理花の口の悪さから、こんなエールをもらえるとは思ってもいなかった。そもそも、彼女から飽和してしまうほどの優しさを感じたこと自体初めてだった。
「で、どう」そこで恵理花は、花梨が今まで見たこと無ないような照れ笑いを浮かべた。
花梨は、すっかり言い出すタイミングを失ってしまったが、鉄線のことは気になるだけで、好きというわけじゃない、というようなことを言いたかった。当然、自分に言い聞かせるように、ね。
「うーん、いいかもしれませんけど、それすっごく緊張します」
「花梨ちゃん、男性苦手だからねえ」
あなたは何でも知ってるんですか。と花梨は突っ込みたくなる。まさか鉄線との会話を聞いていたのか、と訝しげな視線を送ると、彼女は「なにか勘違いしてない?」と訊いてきた。
「なんでそんなこと」
「勘よ、女の。なにかひどいことされたんじゃないの?」
「見事に」
「ふふっ、わたしが悪口言わないなんて、どこかおかしい、って目で見てる」
「図星です」
「花梨ちゃんはねえ、非の打ち所がないわ」
「そんなことないですよ」
花梨が一生懸命こうべを振ると、恵理花はけたけたと高い声を上げて笑った。
「そこは、図星です、でいいのよ」
「こ、コウタ……先輩、そ、その……あの……」
私情を入れろ、私情を入れろ。それは花梨にとっては逆効果に思えた。
「花梨、様子がおかしすぎる」とコウタ先輩役の鉄線から指摘が飛んできた。「まあ、みんな合流してやるのは初めてだからな」しかしそういう問題ではない。
『沈黙の歌声』は大盛況で幕を閉じた。さすがはリーダーだった。声の出ない少女の役を、巧妙に、表情豊かに演じきっていた。声を出さずにあれだけ演じれるなんて、常人離れもいいところだ。
今日の練習は『紫陽花』で行われた。
クッキーズは既に舞台を完成させていたので、暇そうに雪柳さんと話しながらお酒を飲んでいる。あんなもの飲んで大丈夫なのだろうか、と花梨は心配になる。残念ながら、彼女は自分が飲んだものが原液だったと知らされていない。
雪柳さんはクッキーズと喋りながら、ちらちらと花梨のほうを見ていた。
葵と芹野がトランプで勝負している。横に積まれた百円玉は、賭けている金に違いない。
恵理花には嫌味交じりの笑顔で見られているのだと思っていたが、そうでもなかった。彼女は椿と真剣になにかを話しながら花梨たちを見ていた。
「いったん休憩」と椿。全員に声をかけていたが、ほとんどの人が既に休憩している。劇直後の練習ほど、モチベーションの上がらないものはない、とは皆が声をそろえて言っていることだ。
椿に手招きされたので、花梨は彼女のほうへ行った。
「なんですか?」まさかついにヒロイン失格か、という心配はある。いや、その心配しかない。
「ちょっとあれ見てみろよ、ほら」と言って、椿は葵たちの座る席を指差した。「葵が五百円勝ってるんだ」
「えっ、そんなことですか」
「花梨ちゃんはね、真剣、真面目、熱心の三拍子でしょ」
「そうです、かねえ」花梨は立ったまま話した。
「少しは遊び心があってもいい」
「少しは賭け事をしたほうがいい、ってことですか?」
「そだね。賭け事か、いいね。賭け事しよ」
「椿さんと、わたしで?」
「あたしと、花梨ちゃんで」
「なにを、賭けるんですか?」
「『ストロベリーフィールド』って劇が、ちょうど一週間後にあんだけどさ。そのヒロインの子の演技が、まだ見完成なんだよね」
「恐縮です」
「で、その子がさ、本番で大成功できるか――もしくは、できないか。二つに一つ」
腕を怪我したバスケットボール選手のエースが、試合で点を取れるかどうか訊いてるようなもの。自分がやらなければ、しかし、できるだろうか、と。いや、それよりもっと深刻だ。彼は試合に出してもらえないかもしれないが、花梨の場合は出場が決定している。
「え?」不安と混乱でいっぱい。迷子になった気分だ。
「どっちに賭ける」
「なにを、賭けるんですか?」花梨は恐る恐る訊いた。
「ヒロイン役」椿の目がぎらりと輝いた気がした。
どういう状況だ、と花梨は迷った。迷子どころの話ではない。全く知らない土地に、突然放り出された気分だった。
花梨はごくりと硬い唾を飲み込んで、椿を真っ直ぐに見据えた。
わたしを試しているのか――花梨は自分の中でそう結論付けた。なら、負けたくないな、と同時に思った。
「いいですね。その賭け、乗った」
「フフッ、じゃあ、どっちに賭ける?」
「椿さんは?」
「あたしはね、大成功に賭ける」椿は、俯き加減で言った。花梨は彼女の表情をよく見ることはできなかったが、口元が緩んでいるのだけは確認できた。
花梨はなぜか、泣きそうな衝動に襲われた。試されたのかどうかは、分からない。でも、椿は花梨のことを信じているのだ。
「椿さん、ずるいです」
休憩終わり、だとか、練習再開、と椿が指示しなければ、基本的に寛いでいて結構だ。だけど、花梨はそうしなかった。台本は持たない。台詞なら暗記してあるからだ。
素で行け、という椿の作戦。私情を出せ、という恵理花の作戦。両方、採用。というか、両方とも少し違うようで、同じようなものに感じられた。
一人で、台詞の朗読を始める。
コウタ先輩へのアプローチのシーン。しかし、彼女の気持ちは届かない。次に、恋のライバルが登場するシーン。
「あ、あなたは?」と花梨が言う。
「うちはナミ。うちもコウタ先輩のことが好きなのよ」と返ってきた。
恵理花が台本片手に立っていた。花梨のほうを見ると、意地悪そうに舌を出した。ときどき見せる彼女の優しさだ。
いったいどんな合図があったかは分からない。もしかしたら、花梨にだけ聞こえない秘密の鐘の音が鳴ったのかもしれない。ただ、分かることは、いつの間にか、団員総動員で、練習が始まっていたことだ。椿の「休憩終わり」という声は、全員がそれぞれ一台詞ずつ言ってから聞こえた。
「わたし、コウタ先輩のことずっと好きでした」どうだ、とか口には出さない。実際、巧くできていたかどうかは微妙なところだ。
「ミ、ミユキちゃん、お、俺もだ。俺も、ミユキちゃんのこと――」
そこで、電車の扉が閉められる――代わりに芹野が鉄線に飛びついた。
「いいなあ、主役。俺も主役がよかったぜ!」
「『動物園の姫君』で主役だっただだろ」
「恋愛モノがいいんだよ。ラブストーリーの主役やりってえよー」
「ねえ、一応『動物園の姫君』は恋愛モノのつもりで書いたんだけどなあ」と葵。
「だって動物だったじゃん」
「いいじゃない」と恵理花が愉快そうに言う。「動物なら、あんたにだって優しくしてくれるかもよ」
「人間だって動物ですよ」と雪柳さん。
「違う。あたしたちは花だ。フラワーなの」椿が不満そうに言った。
テンポの速い会話に着いていけない花梨は、ふと隣で黙っている鉄線を見た。彼もまた、着いていけないのかもしれない。もとより、ゆっくりした喋り方なのだ。
花梨がしばらく鉄線を見つめていると、彼は視線に気が付いたのか、彼女のほうを見た。見つめ合う形になったが、花梨は頑張って目を逸らさない。ここで逸らしているようでは、『ストロベリーフィールド』は成功しない。
「俺は、こういう集団の会話が苦手だ」不意に、鉄線が口を開いた。
「かぼちゃのコロッケくらいですか?」
「いや、嫌いなわけじゃない。でも、無糖のブラックコーヒーくらい苦手だ」
そんな可愛らしいことを言われては、顔が勝手に笑顔になってしまうよ。花梨はそう言い訳して、少しも制御せず、成るがままに微笑んでみた。
相変わらず、物静かなバーで、『フラワーズ』は喧騒を撒き散らしていた。
つまり、いつも通りね。葵が呟いたの声が、聞こえた気がした。
「鉄線も、花梨ちゃんも、ばっちりだ」と椿は言う。本番前日だ。「これは、あたしの勝ちで決まりだな」
「ええっ、本当にアレ賭けるんですかやるんですか?」
「もっちろん。あたしが勝ったら――」
アレ、とはヒロイン役のことではない。
あの後、椿と話して、別のモノを賭けようということになったのだ。花梨が勝ったら――つまり劇が失敗に終わったら、給料をアップすることになった。これはかなり皮肉だ。そして劇が成功して、椿が勝つことになったら――。
「花梨ちゃんはヌード写真集を出す」
「それは言ってない」
「冗談だってば」
椿の勝利報酬は、それほどたいしたものではなかった。「もしあたしが勝ったら、あたしの願い事を一個、絶対聞くことね。そしてそれを叶えること」という古典的なものだった。もし劇が成功したら――いや、絶対させるのだけれども、そのとき彼女から願い事をされるわけだ。「願いごとを叶えれる回数を増やせ」なんて子供じみたことは、さすがに言わないだろう。
「鉄線が相手だと、一緒にやってて安心するでしょ」椿を何を思ったのか、そんなことを口にした。
「見事に」
「あいつも丸くなったからなあ」
「え、そうですか。けっこうスタイルいいと思いますけど」
「そういう意味で言ったんじゃないけどね。優しくなった、って意味。あいつ、昔すっごい不良っぽかったんだ」
「あくまで『っぽかった』んですね」
「元は優しいからな。力の使い方は正しかったと思う。学校って、けっこう暴力が権力を生むことあるしな。鉄線はそういうことはなかったと思う」
「あっ、権力は銃口から生まれるって言葉があるって、鉄線さん言ってました」
「女より男のが優勢、というわけか」
「あの、そういう意味で言ったわけではないです」花梨は言った後、鉄線との会話の時に、自分がいかに恥ずかしい発言をしたのかを思い知った。
「だろうな。そういえば、あいつ、高校中退なんだ。三年生のときにな。知ってた?」
初めて聞いたことだった。花梨は首を振って否定する。
「本当なんですか? しかも三年生って、なんかもったいないですね」
「本当なんだよ。たしかにもったいない。でも、鉄線が悪いわけじゃない」
「え?」
「鉄線は、事件起こして、決まってた就職先が駄目になったわけだよ」
「えっ、そうなんですか! もしかして、それでこの劇団に?」
「察しがいい。あたしが拾った。救った、って言ってもいいと思うぞ」
「どんな事件起こしたんですか? 鉄線さんが事件なんて、想像もできないです」
「単純な、暴力事件さ。でも、さっきも言ったけどな、鉄線が悪いわけじゃないんだ」
「んん? それってどういう」
「鉄線はさ、止めたんだよ、女の子が襲われているところを。その現場に、殴りこんだんだ。しかも何も持たずに。文字通りの殴り込みだ」
あいつ、そういうの嫌いらしいんだ、と椿付け加えた。なんだったかな、かぼちゃのコロッケと同じくらい嫌いなんだと、とも言った。
劇を待ち切れない観客のざわめきが、舞台裏にまで聞こえてくる。その声でテンションを上げる者もいれば、緊張に襲われる者もいる。
花梨の場合、後者だ。既に三回くらい、トイレを行き来していた。その度に、誰かしらに「緊張するなよ」と言われる。どうやら、他のメンバーは前者のようだ。
「緊張するね~」と間延びした声を出されても、その緊張感は全く伝わってこない。
「うぅ、なんで葵さんは、そんな気楽そうなんですか」
「そんなことないよ。ものすっごく緊張してるよ」
そこで、花梨はもう一度席を立った。トイレ、トイレ。でも、これが最後ね、と自分に言い聞かす。
花梨が戻ると、みんな既に着替え始めていた。
他の劇団は知らないが、『フラワーズ』の場合、この場面に静寂はない。例によっては、芹野と恵理花が口喧嘩しているし、葵は鉄線と好きな作家の話で盛り上がってるし、椿は聞いたこともないような英語の歌詞を口ずさんでいる。ああ、わたしん家だ。花梨にそんな感覚が生まれる。
着替え終わった花たちが、カーテンの前に集まった。その向こう側へ行ったら、その瞬間、花梨はミユキちゃんになるわけだ。
大音量の防犯ブザーのような音が鳴り、会場がすっと暗くなる。始まりの合図だ。
葵、椿、芹野、少し間が空いて恵理花がカーテンの中へ突入して行った。主役とヒロインの出番は遅かったので、カーテンの前に二人だけ残っている。ヒーローは遅れて登場するというわけだ。
もう数分もしなう内に、花梨はミユキちゃんになることだろう。
花梨が緊張に押しつぶされそうになっていたとき、隣で鉄線は手首の運動をしていた。彼なりに緊張を解ほぐしているのだろう。
「頑張りましょうね」花梨は声を確かめながら言ってみた。よかった、震えてはいないようだ。
「おう」と短く言った後、「まあ、大丈夫だろ。花梨最近いい感じだ。よく頑張ったな」
「あっ、ありがとうございます」
「そういえば」鉄線はふと思い出したかのような声を出した。「そういえば、前に訊いてきただろ。大人の恋がどうとか」
花梨は、まだヒロイン役に苦戦していた頃の自分を思い出した。
「はい。大人の恋愛って、全然分からなくて」
「花梨は、劇良くなったみたいだけど、分かったのか?」
「うーん、正直言うと、まだ分かってないです」
「自信は?」
「自信?」
「恋する自信」と言ってすぐ鉄線は首を傾げた。ちょっと違うな、と呟いた。「前は、自信が無い様子だった。それこそ、大人の恋愛に」そしてまた、これも違うかな、と呟いた。
「色っぽい恋が大人の恋愛なら、自信ないですね」
「俺、思ってたんだけど、口出ししていいか?」
「え、もしかして鉄線さん、大人の恋愛がどんなか分かるんですか?」
花梨が質問したところで、ミユキとコウタが入場する合図であるBGMが流れた。ついに、花梨の劇の始まりだ。このBGMが止まったら、カーテンをくぐる。
カーテンに手をかけたのは鉄線だった。あとおよそ一分で音楽は止まる。開くか開かないかのところで、彼は口を開いた。
「花梨は、好きだったんだろ、趣味の悪い先輩のこと。俺が思うにな、大人も子供もないと思うんだ、恋に。誰かを好きになったら、きっとみんな本気なんだ。子供とか、大人とか、そういうふうに分けるのは、間違ってる。だから、ガキっぽくたって、色気がなくたって、花梨の恋は、大人でもガキでもない、花梨の恋だと思うぜ」
ああ、と花梨は思った。ぐんと熱いものが胸の中に現れたのだ。あの忌々しい桃色の液体を思い出す。ああそうか、これか。
憧れの先輩がカーテンを持ち上げた。花梨はそれをくぐろうと歩き出す。
わたし、先輩のことずっと好きでした。カーテンをくぐる瞬間に、花梨は囁いてみたけど、鉄線に聞こえたかどうかは、分からない。聞こえたとしても、鉄線はどうせ台詞の最終練習だとでも思っているに違いなかった。そうだったなら、おい花梨、まだ気が速いぞ、とでも注意されるだろうな。はい、図星です。
ミユキはそのまま振り向かずに歩いた。彼女はもう、ミユキなのだ。
舞台まで、少し距離がある。そこまでの歩いているうちに、もう一曲音楽が流れる。その音楽が最高に盛り上る瞬間に、ミユキの登場だ。ミユキは一歩一歩力強く歩いて行った。緊張はしてるが、気にしないことにした。
ただ、緊張からか、速く歩きすぎたかもしれない。舞台はもう目と鼻の先だが、まだちょっと時間がある。
ミユキは息を整え、台詞を頭の中で反芻させた。大丈夫、台詞は完璧だ。
そのときだった――。
突然、ミユキの背後から呼ぶ声がした。「花梨」と名前を呼ばれた。その名を呼んだということは、彼はコウタではないのだろうな。
花梨ははっとなる。ああそうか、これは『ストロベリーフィールド』のラストシーンだ。
声をかけたのが、誰かは言わない。どうなったかも言わない。ただ、彼らはそっと身を寄せ、そこで照明が落ちる。いや、ちょっと違うな。彼らが照明を浴びるのは、こそすぐ後なのだ。
ちょっと先輩、まだ気が速いですよ。
後書きを読んでくださってるってのは、全部読んでくれたってことなのかな。
えーっと、とりあえず、読んでくださってありがとうございました。
これ、act1なのでね、もしかしたらact2も書くので、その時はぜひそちらも読んでください。本当は単発のものにしようと思ったんだけど、これ書いてたらものすごく楽しくて(笑)
というわけで、読んでくれて、誠にありがとうございました。