大切のその意味
「じゃあ行ってくるよ、ヘレナ」
「気をつけてね、あなた」
ぼく達の様子を見て、父は母と軽くキスを交わした。
外出する際に、二人が必ずする恒例行事だ。
幼い頃からぼくは、これが普通だと思っていた。
世の中にいる全夫婦がそうするのだと思い、疑うことも無かった。
『二人ともいつもあんな感じでチューするの?』
あの発言があるまでは__
あれは街でリアナと遊び、そのままぼくの家で絵を描こうという話になった時の事。
ぼく達が家に入ると、家を出る父と遭遇した。
「おっ、二人ともおかえり」
「ただいま__あれ、今から探索なの?」
父はその時、玄関に靴を履いて立っていた。
普段は身に付けない、中に特殊な金属が入った衣服が目に入る。
「『ノクサ』の方で、ちょっとね…先に母さんと一緒に、夕飯食べて待っててくれる?」
__『ノクサ』の奥の方まで行くんだ…
そう言われた訳ではない。
だが父の身に付けた装備と父の言葉で、ぼくは確信した。
「…危ない所に行くんだよね?その…」
ぼくの言葉は頭に置かれた父の手に遮られた。
不安な表情を浮かべているのを感じたのだろう。
「大丈夫。カイも知ってるでしょ?父さんは__」
「忘骨!街で一番強い探索者っ!__だよね、カイっ!」
父が言い切る前にリアナから快声が飛んだ。
「はは…一番強いかどうかは別として、言う通りだよ。
__それに、カイと母さんが家で待っててくれるんだ。絶対に無事で帰ってくるよ」
父がそっとぼくに小指を出した。
不安な顔をぼくが浮かべると必ずする、ぼくと父の恒例行事だ。
差し出された小指にぼくの小指を重ねると、父がそっと小指を閉じた。
ぼくもそれに合わせて、父に包まれた小指をそっと閉じる。
「約束だ。父さんが約束を破ったことは?」
「…ない。絶対に帰ってくる」
「よし、さすが僕の息子だ!」
父はもう一度小指に力を入れ、そのままもう片方の手でぼくの頭をワシワシと撫でる。
父の暖かい手に撫でられ、不安は一気に吹き飛んだ。
「__リアナちゃんは、今から帰る?」
ぼくの事を撫でながら、父はリアナの方を向いた。
「ううん、カイの部屋で遊んでもいい?」
「もちろん、ゆっくりしていって__なんならベリス達に『遅くなる』って言っておこうか?」
「ホント!?ありがとう!」
父の言葉に飛び跳ねるリアナ。
無理もない。リアナはうちの母の料理がとても好きだから。
『遅くなる』
これはうちとリアナの家の間でのみ使用される隠語だ。
リアナかぼくが、どちらか互いの家でご飯を食べて帰る__それだけを伝える、可愛い隠語。
「ヘレナさんっ、今日の夕飯は!?」
「いいタイミングね。今日はカレーよ、リアナちゃん」
その言葉に深い体勢でガッツポーズを決めるリアナ。
出来ればガニ股はしないで欲しい。
その様子を見る父が頬を掻いて、
「僕が食べる分は、残しといてね…」
と言ったのは、もう聞こえていなかった。
「はは…ゆっくりしていって__じゃあ行ってくるよ、ヘレナ」
そう言うと立ち上がった父は母に手を伸ばした。
「ええ、いってらっしゃい。あなた」
母はそれに反応し、父に近付く。
伸ばされた手を自身の腰の辺りに置き、手を重ねた。
身長の高い父を少しだけ見上げて、母はそっと目を閉じる。
そんな母の頬に手を添え、父はそっと屈んだ。
そのまま、二人は唇を重ねる。
一秒か、二秒くらいだろうか。
唇が少し惜しそうに別れる。
その後二人は少しだけ見つめ合い、
「__じゃあ、待っててな」
母と、ぼくとリアナにそう言い、父は家を後にする。
ぼくにとってよく見慣れた、いつもの光景だった。
「__二人ともいつもあんな感じで、チューするの?」
その後ぼくの部屋で絵を描いているリアナが言ったのが、先の言葉だ。
「え、そうだけど…」
質問の意図が分からず彼女の方を向くと、顔が少し赤いのに気付く。
放心したまま手に持ったクレヨンをグルグルと紙に回し、何やら前衛的なアートを作っていた。
「…別に普通だろ?」
その言葉に、リアナはピタッとクレヨンを止めた。
「…チューはしないよ?」
「…え?」
「__うちのお父さんとお母さんも仲良いけど、私が見てるところでチューはしてない…かな」
ぼくはその時、七歳にして初めて自分の世界が崩れる感覚がした。
「いや、リアナの家がしてないだけじゃ__」
「友達のお父さんとお母さんも、してない」
「…じゃあ、うちは__」
「…すごく、とっても、仲がいいんだろうね」
そう言ってリアナはフイッと横を向き、自分の作った前衛的なアートに何かを書き足し始めた。
普通の夫婦は出がけにキスをしない。
うちの二人は出がけにキスをする。
ぼくとリアナの世界の見え方が変わった、そんな瞬間だった。
__と、そんな訳でうちが珍しい方だ、ということがあの時分かった。
何も知らないまま大人にならなくて良かった、とその時は非常に安心した記憶がある。
「…二人とも相変わらず仲良いね、カイ」
そんな事を考えていると、リアナが僕の服の裾を掴んだ。
リアナは多分目の前の光景に呆れていて、ぼくを急かす為に裾を掴んだのだろう。
__だってぼくがまさに今、そう思っているからな…
「『特別』仲がいいとそうしたくなるんだろうな…」
ぼくは彼女を見ず、問いに答えた。
先程の話には続きがある。
ぼく達は三人で夕飯を食べて、その後リアナは帰っていった。
父の不安は的中して、少し多めに作られたカレーはすっかり空になっていた。
「あらあら…別のもの、作らなきゃね」
そう言ってキッチンに立つ母にぼくは、リアナに提示された真実を話し始める。
「お母さん、その…」
「なあに?」
「お父さんとお母さん出る時いつも、その…チュー、してるよね?」
「そうだけど…どうしたの?」
当たり前だと思っていた行為が、そうではないと分かったぼくは、
__もしかしたら、二人もするのが当たり前…いや、むしろやらなければいけないと思っているんじゃないか
そんな事を考えた。
グッと拳を握り、意を決して母に告げた。
「__その、いつも出る時に…チューするのは、うちだけらしいよ?」
料理の具材を切っていた母がピタッと止まる。
元々パッチリとしている目を、更に大きく開きゆっくりぼくの方を向いた。
__あっ、本当に知らなかったんだ…
やはりしなければいけないと思っていたんだ。
そんなことを考えていると、母は大きくしていた目を逆に細めぼくの前に少し屈んで頭に手を置いた。
「だから、その…無理にしなくても__」
「カイ」
続く言葉は、母に遮られる。
「お母さん達、嫌々してるように見える?」
「いや、見えないけど…」
「でしょ?私達はしたいから、そうしてるの。
__カイもそういう人、いつか見つかるといいわね」
ポンポンと頭を撫でた母は、そのまま料理を再開した。
母の言葉の意味は、ぼくにはよく分からなかった。
__一応、父にも同じ事を聞いてみた。
「はは…リアナちゃん、やっぱり食い尽くしちゃったか…」
装備を着替えて椅子に座り、自身の前に置かれた料理を見て苦笑いを浮かべる父に、先程と同様に意を決して言葉を出した。
「お父さん」
「ん、どうした?」
「その、リアナが言ってたんだけど…。
__お母さんとチューして出るの、うちだけらしいよ?」
父はその言葉に整った顔を崩しながら笑った。
「__ああ、知ってるよ。多分、この辺じゃうちくらいだろうな」
父は言葉と共に、配膳を終えて隣に座った母の肩を掴みグッと抱き寄せる。
「うちほど仲が良いと、こうなるんだよ__な、ヘレナ?」
肩を抱き寄せられた母は、頬を少し赤くし、
「ふふっ、もう…あなたったら」
そう言い父が抱き寄せた手にそっと自分の手を重ねて、父の肩に頭を預けた。
__また始まっちゃった…
今回はぼくが悪い。それは認める。
だがこの二人は、何かにつけてよくぼくの目の前でこうして肩を寄せ合い仲を深め始める。
他の家ではこんな光景を見ることがないのなら、確かにリアナが疑問に思うのも無理はないのかもしれない。
__せめてぼくがみていないところで、やればいいのに…
__いや、見てない所でもやってるからこうなっているのか…
ぼくは目の前の光景にはあ、とため息をつき、頭の中の疑問を自己完結させながらノソノソと部屋に戻った。
「…もしかして、カイも『そう』思ってる?」
「ん?__ああ、リアナも、『そう』思うよな」
ぼくのその言葉で、リアナがパッと裾を離した。
「えっ、私は別に…」
「なんだよ、リアナは違うのか?__って…」
どうもさっきから様子のおかしいリアナ。
ぼくはその理由を探るべく彼女の方を振り向いた。
そこには耳の芯まで真っ赤なリアナが見た。
ぼくが振り向いたのが原因か分からないが、目を白黒させてパッと顔を隠す。
「ちょっと、急にこっち向かないで!」
ぼくはその様子を見てハッとした。
何で今まで気付かなかったのか__それは彼女がぼくに隠していたからだ。
__だから今まで気付けなかった。
「リアナ__」
ぼくの部屋から逃げていった時。そして今。
リアナはどちらも、顔を赤くさせぼくから遠ざかっている。
__間違いない。
「もしかして今日は、『ダメな日』だった…?」
リアナは今日、体調が悪い。
顔を真っ赤にしてしまう程に。
それなのにぼくが楽しみにしていると思って、無理している。
裾を掴んだのも、具合が悪く支えて欲しかったからだろう。
それなのにぼくが彼女の方を向いたから、感染すると思い離れて顔を隠した。
「いや、そもそもダメとかそういう話じゃ__」
「リアナ、ごめんな。気付いてやれなくて」
「__えっ?」
本当に悪い事をした。
ぼくの事を考えて元気にふるまってくれていたんだ。
もしかしたら、ご飯も無理してお腹に詰め込んだのかもしれない。
「え、ちょっと…カイ!」
ぼくはリアナの額を撫でて髪を退けると、真っ赤な額が姿を現した。
__これは相当だな…
「__大丈夫、楽にして」
ぼくはリアナが嫌がらないように慎重に顔を近づける。
彼女の方を見ると、目を瞑って顔を突き出していた。
__だいぶひどいんだな、ごめんな…
「__最近、だいぶ『慣れて』きたんだ」
『熱を測る為』に、更に顔を近付けた。
これをやるとリアナが『子ども扱いしないで!』と暴れるが、やはり額をくっつけるのが一番分かりやすい。
子ども扱いにならないようなやり方を母に教わっていて本当に良かった。
「__『慣れてきた』って、何?」
そんな事を思っていると、閉じていた目をカッと開いたリアナがぼくを睨みつけていた。
心なしか赤みも引いている。具合が良くなってきたのだろうか。
「ああ、ほら。『普通にすると』リアナ嫌がるだろ?
__だから、お母さんに『教わった』んだ」
その言葉にサッと顔を青くしたリアナ。
心なしか身体が震えている。
__寒気がしてきたのか、まずいな…
万が一倒れでもしたら大変だ。
ぼくは髪を退けている手じゃない方を彼女の腰に回した。
「えっ、何!?」
そのまま熱を測る為に、今度は回した手でジタバタするリアナをぼくの方に寄せた。
「ちょっと!やめて、カイ!」
「リアナ、じっとしてて。すぐ済むから__」
「__やだっ!!」
リアナの叫びが聞こえた時、ぼくは既に玄関に転がっていた。
頬と頭に痛みが走る。
ぼくは何が起きたのか全く分からなかった。
「何するの、バカ!へんたいっ!!」
揺れる視界で声の方を向くと、リアナが拳を固く握ってぼくを見下ろしていた。
その拳でぼくの頬を思い切り殴ったのだろう、という事だけ分かった。
「えっ…えっ?」
「『私達』は違うでしょ!!」
リアナはそう言い残し玄関を飛び出た。
__私達って、どういう事…?
「そんなに、されるの嫌だったの…?」
その言葉はリアナには届かない。
脳が揺れて更に回らなくなった頭では、もう理解のしようがなかった。
「カイ…流石に今のは、どうかと思うよ?」
「そうよ、リアナちゃんの気持ちも考えてあげないと」
肩を寄せ合ったままぼく達を見ていた二人は、ぼくが殴り倒されたのを見て思わず頭を抱えていた。
「それより…起こして…」
その言葉に父が反応し、ぼくを玄関の小上がりに座らせる。
依然よろめくぼくをしゃがみ込んだ母が、後ろから抱きかかえた。
数分後、ようやく視界が落ち着いたぼくに母が声をかけた。
「ねえ、カイ。
__リアナちゃんの事、どう思ってるの?」
ぼくを抱きしめたまま横から顔を覗かせる母は、柔らかく微笑んでいる。
その表情に促されて、ぼくは本心を口に出した。
「ぼくの、『大切な家族』…かな」
紛れもない本心。
いつも一緒にいるリアナは、もはやぼくにとっては家族と同じ存在だ。
だからこそぼくは、体調の悪そうなリアナを本気で心配した。
「リアナちゃんの事、好き?」
「うん、好きだよ」
家族なんだから好きで当たり前だ。
ぼくは母の言葉に即答した。
「__だって。リアナちゃん」
母がそう言うと、父は立ち位置を少しずらし玄関までの空間を開ける。
その先には、先程と同様に玄関の外から半身でこちらを見るリアナがいた。
「__私の事、好きなの?」
そう言うリアナの顔は赤い。
ぼくは母に背中を押されて立ち上がった。
「うん…面と向かって言うのは恥ずかしいけど、好きだよ」
ぼくは立ち上がった勢いのまま彼女の元へ行き手を握った。
「__っ!」
「だから…どうしてもしたかったんだ。リアナの事、大事に思ってるから」
「…そっか、分かった…」
リアナはそれだけ言うと、再び顔を赤くし目をギュッと瞑った。
「じゃあ__『測る』ね」
「うん…ん?えっ__」
ぼくは彼女の疑問の声を無視し、額を合わせる。
少し温かい気もするが、特に問題ないくらいの体温だった。
「良かった…熱はないみたいだね」
「…」
「心配だったんだ…今日ずっと顔が赤かったから」
「…」
「…リアナ?」
「…バカ、サイテー」
ぼくの手を払ったリアナは、ジトッとした目でこちらを見た。
顔の赤みはすっかり消えている__どころか、文字通り『白けた』表情になっている。
「…え、何で?」
「…知らない。お母さんに『教えて』もらえば?」
リアナはそれだけ言って、スタスタと出ていった。
「今のどういう意味__」
「カイ」
彼女の言葉通り母に聞こうとしたぼくを止めるように、母の手がポンと肩に置かれる。
「…それは、自分で考えるといいわ」
「えっ、でも__」
ぼくが言葉を返す頃には、母は父の方を見ていた。
父も再度頭を抱え、うーん、と唸っている。
「__悪い事しちゃったわね…私達」
「そうみたいだね…カイ、ごめんな?」
ぼくに分からない言葉を二人は使い、その後ぼくの事をいつもより丁寧に撫でくりまわした。
__二人は何を言ってるんだろう…
__リアナはなんで怒ったんだろう…
答えは分からない。
…誰も言ってくれないから。
__その後、一向に来ないぼく達をリアナが迎えに来る直前まで、ぼくは撫でくりまわされ続けた。
撫でくりまわしの最中、突然母が自身の胸にぼくを埋めた。
「ちょっ、何するのお母さ__」
ちょうどそのタイミングで、いつまでも来ないぼく達を迎えにリアナが帰ってきた。
「…何してるの、カイ?」
ドン引き。その言葉に尽きる表情を彼女はしている。
その様子を見て母がリアナに応えた。
「これがうちの仲直りの方法よ?そうよね、カイ?」
母はイタズラ声でそう言った後、
「ほら、カイ」
ぼくをポンとリアナの元に送った。
「リアナ、さっきは__」
「…謝りに帰ってきたの」
「…え?」
「心配してくれて、ありがと…」
そう言うリアナは何故かプルプルと震えている。
母が「頑張って!リアナちゃん」と言っているのが聞こえた。
やがてリアナは意を決した表情になり、
「カイ、ごめんね!」
そう言ってぼくの事をギュッと抱いた。
__ああ、なるほど…
うちにこんな仲直りの方法はない。
恐らく自分達にハッキリ分かる形で仲直りした方が、後腐れがないだろうと母は考えたのだろう。
結果こうしてリアナは全力で謝意をぼくに表し、ぼくはそれを許さざるを得ないという構図になった。
__母、恐るべし。
「…許してくれる?」
「ああ、ぼくの方こそごめん__」
ぼくは謝意を返そうと、同じように手を回した。
「__ごめん、それはちょっと…いいかな、はは…」
ぼくの謝意はリアナの両手により防がれた。
「大丈夫…うん、伝わったから…もういいよ」
彼女の後ろに吹き出しのようなものが見えた。
『抱きつかれるのは気持ち悪い』
本当にそう思っているかは分からない。
だが、ぼくは何が正解か分からずガクッと項垂れた。
「若いわね…」
「ああ、羨ましいよ」
ぼくたちの様子を見ていた父と母は、もう一度キスを交わす。
__もう、好きにしてくれ…
その後、無気力になったぼくをリアナが引っ張りながら三人は家を出た。




