#37 石の心臓
蟲への恐怖も嫌悪も消えている。
あるのは重く冷たい覚悟だけ。
パゴタは思い出していた。
冥々童子と呼ばれていた魔族の日々を。
生きることに頓着するからこそ、人は恐怖や死に瀕した時に身体が強張る。目を閉じる。
だからパゴタはそれを諦めた。
生きていこうと思わなければいい。
腕を失くせば剣を握れない。
足を失えば逃げられない。
その最終系はいつだって死だ。
死さえ厭わなければ、何も身を固くする必要はないのだ。
この悍ましい蟲の感触も、あるかもしれぬ毒の恐怖も、生きようとするからこそ生まれ来る。
そうしてパゴタは稲妻の化身となって横穴を駆け抜けた。
生かすべきは、自分ではなく、レイン。
パゴタの覚悟が鋼のように暗く冷たく固まったころ、長い横穴が終点を迎えた。
広いドーム状の空間に視線を泳がせる。
「アノニーの言葉は本当だったんだ……」
そこには巨大な蜘蛛の亡骸がぶら下がり、化石のように時を止めていた。
横穴の蜘蛛とは比べ物にならない大蜘蛛が無数に犇めき、古の女王の腹の中――ぽかりと開いた空洞の闇には、新たな時代を統べる女王の目が八つ、緑の光を放っていた。
蜘蛛たちは前足を高く上げ、毒牙をガチガチと噛み鳴らして威嚇している。
しかしパゴタの暗く淀んだ目に、そんな姿は映らない。
隈なく部屋を見渡し、パゴタは糸で簀巻きにされてぶら下がるレインの姿を見つけた。
ほんの一瞬だけ、石になった心臓に血が巡る。
けれどパゴタはそれを押さえつけて、心を殺した。
血色からして、まだ生きてる……
パゴタは無造作に毒蜘蛛の群れの中に飛び降りた。
着地を待ち構える蜘蛛たちに紅の雷が襲い掛かり、一瞬で十はくだらない蜘蛛が灰になる。
パゴタは迫りくる蜘蛛を薙ぎ払いながらもその場を動かなかった。
全てはレインの周りにいる蜘蛛どもを、出来る限りおびき寄せるため。
パゴタに群がる蜘蛛どもが再び雷で焼き払われた。
それでも蜘蛛はぞろぞろと、どこからともなく湧き出してきて同胞の亡骸を踏み越えながらパゴタに向かってくる。
雷鳴が何度も轟き、ドームの中を焦げ臭い死臭が満たし始めたころ、ようやく蜘蛛たちの数が減り始めた。
同じく肩で息をするパゴタの魔力も底を尽き始める。
パゴタは大技を温存し、右手から新たに生み出した黒紅色の剣を握った。
「邪魔するな……どけぇええええええ!」
蜘蛛を切り裂く。何度も切り裂く。
蜘蛛の爪がパゴタの頬を裂く。
毒の気配を感じる。
それでも足を止めず、レインのもとへと駆け抜ける。
切り裂いた蜘蛛の体液で全身が紫色に染まる。
毒牙が脇腹に喰らい付く。
その蜘蛛の頭部に創生した短剣を突き刺し、少年は駆ける。
「レイン……レイン……せめて君だけでも……‼」
とうとうパゴタは蜘蛛の群れを抜けてレインの真下に辿り着いた。
視界が霞む。
身体が熱く、背筋は凍るように寒い。
気にしない。
自分の命の灯のことなど、ずっと気にしてこなかった。
パゴタは短剣を投げてレインをぶら下げる糸を切断した。
雷に糸が焼け、レインが落ちてくる。
それを優しく受け止め、抱きしめ、パゴタはアノニーから託された小瓶を口にあてがったが、レインは一口たりともそれを飲もうとはしなかった。
レインは息をしていなかった。




