#35 悪夢の具現〝エントロサ・シェラフ〟
不気味なほどに蟲達がいない。
縦穴を下りれば降りるほどに闇が濃くなり、静けさが増す。
アノニーの語った古の蜘蛛の末裔がいるからだろうか……?
それとも環境が適さなくなってきているからだろうか……?
じっとりと肌に絡みつく湿度と異臭。
そして生暖かい空気。
地熱なのか、微生物による発酵が原因なのか、それすらも分からない。
ただ分かるのは、とんでもない危険の中に自ら足を運んでいるという確信だけ。
パゴタは己を奮い立たせるようにランプを高く掲げた。
緊張とランプを掲げ続けているせいで左手の筋肉が痙攣し始めたころ、パゴタは一際広い踊り場に辿り着き、辺りの様子が変わったことに気がついた。
「湿度が低くなった……どうしてここだけこんなにも乾燥を……?」
乾いた風が干乾びた腐肉の臭いを運んできて、パゴタは鼻を覆う。
その風の吹いてくる方に目を凝らすと、大きな横穴が目についた。
地獄の口のような闇ではなく、白く霞んだような横穴。
その正体に気がついてパゴタの身体に緊張が走る。
「ここだ……ここに間違いない……」
霞の正体は糸だった。
細く薄い蜘蛛の糸が幾重にも掛けられて、穴が白く霞んでいるのだ。
恐る恐る剣でそっとその糸を切り裂くと、無数の子蜘蛛の姿が露わになり、カサカサと逃げ惑っていくのが見える。
穴の上には古い金属板が張られていた。
古の文字で刻まれた警告の言葉。
〝汝、進むべからず。我、此処に悪夢の具現を封ず。此れより先、名を【エントロサ・シェラフ】と呼ぶ〟
魔石の格子があったのだろう。
その基礎の残骸が、忘れ形見のように残った入り口に立ち、パゴタは息を整えた。
「レイン……どうか無事でいてくれ……」
パゴタはランプを仕舞い、リュックに結わえてあった杖に持ち替えた。
その先端に油を染ませた布を巻き、火を灯す。
伝承が正しければ、蜘蛛の嬢王は火を嫌ったという。
こんな火でもきっと無いよりはいいはず……
松明と剣を頼りに、パゴタは遥か昔に封じられた悪夢の中へと進んだ。
視界が悪い。
斬っても燃やしても、ヴェールのような蜘蛛の巣が垂れ籠めている。
それは侵入者を捕える罠のようでもあり、逃がさない為の封印にも感じられた。
異臭が酷くなっていく。
閉ざされた空間に息が詰まってくる。
一本道にも関わらず迷っているのではないかと不安になり、帰り道が分からなくなる妄想に囚われる。
なにもしていない。
歩いているだけ。
それなのに汗が吹き出し、呼吸が乱れた。
「レインを助けるんだ……レインを助けるんだ……」
いつしかパゴタはそればかり呟いていた。
そうでもしなければ気が狂いそうだった。
何度目かの曲がり角を曲がった時、視界の奥に何かが走り去った気がして、パゴタはビクリと肩を震わせる。
「誰だ……!」
恐怖に呑み込まれない為に、パゴタは思わず叫んだ。
蟲相手にそれは意味がないどころか、自分の居場所を報せる愚策と分かっていながらも叫ばずにはいられなかった。
「怖くないぞ……? 僕はレインを助けるんだ……!」
影が動きを止めた。
身構えるパゴタの方に、その影が近付いてくる。
白いヴェールを払いながら、何者かが近付いてくる。
とうとうヴェール越しにも姿が目視できるほどにソレは近づいてきて、パゴタの足がガクガクと震えた。
「どうして……どうしてお前がここにいる……?」
パゴタの言葉で、影の主がニタリと微笑んだ。




