#31 トルエノ・デル・インフラムンド
ランプに火を灯してすぐさまパゴタは周囲に目を凝らした。
しかしそこには誰もいない。
ランプに照らされてできた自分の影が、背後であざける様に踊るばかり。
パゴタは穴の淵に駆け寄り下を覗き込む。
ランプの明かりを掲げてみても、強すぎる闇は光を拒んで照らし出せない。
膝が震えた。
「どうしようどうしようどうしよう」
レインが蟲に攫われた。
もし穴に落ちていたら……?
レインが、レインが、レインが……
死んでしまっていたら……
涙が溢れて震えが強くなる。
泣き叫びそうになったその時、穴のずっと下の方で何かが光った。
それはほんの一瞬の光だった。
けれど見間違いではない。ランプが見せる確かなオレンジ色の光。
「生きてる……! レインは生きてる……!」
パゴタは震える足をピシャリと叩きつけて立ち上がると、レインのランプが光った方を睨んで覚悟を決めた。
魔族の自分なら……
そう考える。
同時に無数の蟲達、多種多様な魔素変異蟲の姿が脳裏に浮かぶ。
構うものか。
レインを救うためなら、恐怖の巣食う穴だろうと構うものか……!
深紅の雷を纏う長い槍を魔力で創生し、パゴタは助走をつけるため後に下がった。
両手で槍を高く構え、壁の向こう岸を睨みつけて地を蹴る。
パゴタは槍の石突きを地面に突き立て、半月のように弧を描いた。
最も高く舞い上がった瞬間を狙って槍を消滅させる。
このままいけば、光が見えた場所の真上に辿り着けるだろう。
このままいけば……
しかし宙を舞うパゴタを捕食者たちは見逃したりはしなかった。
羽根百足、浮遊蚯蚓、跳び蜘蛛。
見たことも無い異形の蟲達が、ご馳走を求めて飛び掛かってくる。
邪悪さ、悪辣さが、意地の悪さが滲むその姿に、パゴタは心底から嫌悪感が沸き上がった。
「来るな……! 品位の欠片も持ち合わせない邪悪な蟲どもめ……!」
気がつくとパゴタは二本の剣を創生し、近づいてくる蟲を片っ端から斬り付けていた。
黒紅色の雷に焼かれて、蟲の焦げる異臭がする。
それがさらなる蟲を呼び寄せ、いつしかパゴタの周囲には蟲達が群がり黒い球体のようになっていた。
四方八方から襲い来る爪や毒牙がパゴタの身体に傷を作る。
すんでのところで切り落としても、躱しても、かすり傷は免れない。
その程度では毒が侵入しないことを祈りながら、あるいはそんなことなどお構いなしに刃を振るいながら、パゴタは奈落の底へと落ちていく。
「邪魔するなぁあああああ……! 穢らわしい蟲どもぉおおお……! 僕はレインを助けるんだぁあああああ……!」
パゴタは魔力を身体の奥深くに溜めて叫んだ。
「冥撃魔法〝冥府の雷鳴〟」
パゴタを爆心地として赤と黒の閃光が不規則に駆け抜ける。
それが通り過ぎると、今度は遅れて凄まじい雷鳴が、破壊の慟哭が牙を剥いた。
範囲内でその音を聞いた者の精神と神経系を焼き尽くす、冥府の雷鳴。
その響きが通り過ぎると、蟲達は身体を強張らせて落下していった。
異臭が強くなる。
落ちていく蟲の亡骸に別の蟲が飛びつき食い漁る。
地獄のような光景を見ながらパゴタ明かりの方に目をやった。
それなのに、四肢が痺れてうまく力が入らない。
「そんな……毒が……⁉」
どうやら毒が入るにはかすり傷でも十分だったらしい。
速度を増して身体は落ちていく。
「動け……動けぇええええ! 僕が死んだら……誰がレインを助けるんだぁああああ」
鬼気迫る声を上げたところで、身体は動かない。
それでもパゴタは目を瞑ったりはしなかった。
自分が死ぬのは怖くない。
怖いのは、レインが死んで、ジークとシルファが悲しむことだ。
「冥府に坐す昏色の冠を戴く王よ……」
禍々しい魔力がパゴタの呪詞から溢れ出したその時だった。
空を裂くような嘶きが響き、パゴタの身体にかかる重力に激しく抗う者が来た。
パゴタは地面に激突する寸前で静止する。昏い呪文を唱えきる前に。
「サンドラ……君ってやつは……本当にありがとう……」
痺れて動けないパゴタに、サンドラは優しく頬を寄せる。
羽毛の柔らかな温もりに包まれたところで、パゴタの意識が静かに消失した。




