#29 耐え難き気配
深い縦穴の中は強い湿気に覆われ始めた。
無理もない。
壁からは地下水が染み出し、見たことも無い洞窟の原生生物が水の周りに蠢いている。
湿気がもたらしたのはそれだけではなかった。
臭いのだ。
猿蝙蝠の糞と思しきもの、食い荒らされた遺骸、それらを菌類や原生生物たちが分解し、発酵し、腐熟し、湯気を上げている。
レインはリュックから雪銀羊の毛を取り出し、それを布にくるんでマスクを作った。
パゴタも真似しようとしたが上手く出来ない。
レインはそんなパゴタから布と羊毛を取り上げて慣れた手つきでマスクを作って差し出した。
「はい! 出来たよ!」
「ありがとう。レインって見かけによらず器用だよね?」
「ああ! 今ちょっと馬鹿にしたでしょ⁉」
「ち、違うよ! 僕はただ感心して……」
慌てて手を振るパゴタを見て、膨れ面を浮かべていたレインがぷっ……と吹き出し、笑いながら言う。
「イシシ……! 別に怒ってないよ。本当はね、ママにすっごくしごかれたの。お婿さんが仕事に行く時、マスクくらい作れるようになっとけー! って」
「そうだったんだ……ふふ。シルファさんらしいや」
二人は火を吹きそうな勢いで怒鳴るシルファの姿を思い浮かべてクスクスと笑った。
それと同時に、石になって家で待つシルファとジークの痛ましい姿を思い出し真顔になる。
「進まなきゃ。二人が待ってるんだから……」
「うん」
二人が頷きあって踏み出したのちょうど重なって、縦穴全体を地響きが襲う。
地響きは穴の底から迫って来ているようで、二人は咄嗟に壁に寄りかかりしっかりと手を繋いだ。
サンドラもまたそんな二人のそばにぴったりと寄り添い身体を小さくしている。
怖いのだ。
幼体とは言えバーべリアの空の王者が、備え持つ野生の本能をもってして、計り知れない危険を嗅ぎ取り守りに徹している。
パゴタもまた全身に魔力を漲らせた。
「3、2、1……」
心の中で秒読みしたとおり、地響きの主が目の前を通り過ぎていく。
レインがパゴタの手を強く握りしめた。
パゴタもその手を握り返し、地鳴りの正体に備えて臨戦態勢に入った。
しかし二人の目には何も映らない。
ただ、呻き声のような地鳴りが、地獄の底から響くような慟哭が、二人と一羽を通過して昇っていく。それだけだった。
しかしそれだけで十分だった。
声の主の忌まわしさ、強大さ、途方も無さを知るには十分だった。
二人は冷や汗を流し思わず地面に崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えた。
脳裏に蘇るのは古の伝説。神話の神々の偉業。忌まわしき悪神の名。
荒廃王〝デア・ヘア・デア・クランクハイト〟
「まさか……本当にいるの……?」
レインが泣きそうな声で言いながらパゴタの方に首を回す。
「でも……神話の時代の話でしょ……? それに、もしそうだとしても封印されてるんじゃ……」
同じように強張った顔でパゴタが返した。
地鳴りが止み、悲鳴のようなぬるい風がひゅう……と吹き抜けていく。
悪臭に満ちた風ですら、先ほどの〝声〟に比べればずっと生温い……
二人はよろよろと淵に向かい、そっと暗闇を覗き込む。
まるで巨大な黒い眼が睨み返しているような気がして、二人は思わず身を震わしさっと後ずさるのだった。




