第8話「消滅の予兆」
登場人物紹介
■リオン
若き研究者。
未来リープ・シミュレータの開発指針を任されるが、未来からの通信で現れた女性オフェリアに心を揺さぶられる。
科学者としての冷静さと、人間としての感情との狭間で苦悩する。
■オフェリア
リオンの「三十年後の未来」と通信で繋がった謎の女性。
科学省の研究者でありながら、どこか妖艶な気配を纏う。
未来の真実を語り、やがてリオンの心を捉えていく。
銀髪と、青と緑が交じる瞳が印象的。
■澪
リオンの同僚であり友人。
Affecticsを駆使してオフェリアの真偽を確かめる協力者となる。
リオンの苦悩や弱さを目の当たりにし、新たな絆を感じ始める。
■タカコ
カフェの店主。
穏やかな笑みと気さくな物腰で、リオンや澪を支える存在。
ホットサンドは彼女の店の名物であり、リオンの「記憶の味」となる。
■ユナ
澪の友人。
セレスティア・ジュニア・アカデミーでヴァルガード語を教えている。
密かにリオンへの想いを抱いている。
■ノナカ博士
科学技術省の重鎮。
リオンに未来リープ・シミュレータの開発指針を依頼する。
「理論は正しいだけでは駄目だ。人を惹きつけ、未来を想像させるものでなければならない」――その言葉がリオンを導く。
ラボの空気は、冷蔵庫の中みたいに冷たかった。
リオンは端末の前で身じろぎもせず、無数の数式と格闘している。
SI、CI、DI、EV――画面に踊る文字は“未来”を数に落とすための鍵のはずなのに、今日に限ってはすべてが指の隙間からこぼれ落ちていく。
「……収束しない」
口に出した瞬間、背筋に小さな寒気が走った。
ロジスティック関数のカーブは思ったほど立ち上がらず、重み係数は暴れる。
安定度指数SIは0.91で足踏みしたまま、未来は“準安定”の霧の向こう側に留まっている。
(集中しろ。式に戻れ)
そう言い聞かせた目の裏側に、銀の髪がふっと揺れた。
画面越しの笑み、潮風にほどけるポニーテール、指先が唇に触れるくせ。
オフェリアの断片が、数式の余白にしみ込んで消えない。
「……邪魔を…しないでくれ」
呟いてみても、心臓の鼓動は従ってくれなかった。
そのころ、タカコのカフェ。
澪はカウンターに肘をついて、カプチーノの泡をスプーンで崩していた。
「で、最近のリオンは?」
タカコがマグを拭きながらさりげなく聞く。
「“ランチに誘っても今日はいい”ばっかり。気晴らしに散歩でもって誘っても、全部断られた」
澪は唇を尖らせて肩をすくめる。
「研究が佳境なのは分かるけど……様子が変。目の奥が、いつもより遠くを見てる」
タカコは苦笑した。
「ここ数日、毎日ホットサンドをテイクアウトしていくのよ。あの子」
「毎日?」
「毎日。私としては嬉しいけど、ほら、毎日同じメニューは体が心配でしょ。スープでもつけなさいって言ったら、ぼんやりした顔で“お願いします”だって」
澪は思わず笑ってから、ほんの少しだけ視線を落とした。
「……恋の病、かな」
「さあ…」
タカコは肩をすくめると、澪のカップにミルクを少し足した。
二人は顔を見合わせ、同時に小さくため息を漏らした。
ラボの照明が一段明るくなる。着信。
胸のどこかが確かにそれを予感していて、しかし備えはなかった。
――オフェリアだ。
「こんにちは、リオン」
映った顔は、強がりの艶めきをまとっていた。
けれど目の奥で、細い光がかすかに震えている。
「……オフェリア」
声が思ったより低く出て、自分で驚いた。
「時空観測機器がね、わたしたちの“重なり”を追っているんだけど――」
オフェリアは一拍置き、銀髪を耳にかけた。
いつもの癖が、今日は脆い。
「かなり不安定になってる。いつ消えてもおかしくない、って」
返事をしようと口を開いたのに、乾いた空気が喉をすべり落ちるだけだった。
「消えたら?」
やっと絞り出した言葉が、自分でも他人の声みたいだった。
「……もう、会えない」
オフェリアは微笑んだ。
強く、綺麗に、でも少しだけ不器用に。
「あなたに会えてよかった...」
オフェリアの微笑みには悲しみが満ちている。
オフェリアのこんな表情を見たのは始めてだった。
リオンは汗ばんだ拳を握った。
「そんな顔で言うなよ」
「どんな顔?」
からかう調子は相変わらずだ。けれど、その先にある感情を隠しきれていない。
「ねえ、リオン。何だか不思議ね。あなたとこうやってモニター越しに話しているだけなのに、何故こんなにあなたの事が気になるのかしら」
リオンは無言で、オフェリアの顔と声を記憶に焼きつけるように彼女を見つめている。
「きっと...あなたに触れたい、でも出来ない、そのもどかしさ...それが恋なのかも...」
短い沈黙。
画面にノイズが走った。
「……リオン、ワタシ…」
その瞬間、通話が途切れた。
ライトの白が、急に冷たくなった。
ラボの空気が固体になって、肺に入ってこない。
指先の震えは、止まるどころか全身に拡がっていく。
(覚悟はしていた。いつか、こうなることは)
(でも、こんな風に――こんなに、近くで)
リオンは椅子を蹴るように立ち上がり、たまらずに端末を掴んだ。
「澪...」
タカコのカフェ。
昼のざわめきは穏やかで、ガラス越しの港はどこまでも普通の顔をしていた。
「急に呼び出してごめん」
リオンは息を整えきれないまま椅子に沈み、手のひらで顔を覆った。
「大丈夫。何があったの?」
澪は姿勢を正し、彼の目の高さに合わせるように身を乗り出す。
タカコは離れたカウンターで、気づかないふりをして新しいコーヒーを落としていた。
沈黙。
やがて、リオンは指の隙間から顔を上げた。
瞳の奥で、何かが崩れる音がした。
「――怖いんだ」
その声は、澪の知っているどのリオンの声とも違った。
勝ち気でも、理屈っぽくも、無表情でもない。
ただ、裸のままの言葉。
「時空の重なりが消えるかもしれない。そうなったら、俺は……もう二度と、オフェリアに――」
全てを言い切れなくて、唇が震えた。
澪は反射的に手を伸ばし、テーブルの上で彼の拳に自分の指先をそっと触れさせた。
リオンの呼吸が拳から伝わってくる。
「……気が狂いそうだ」
リオンは天板をまっすぐ見つめたまま言った。
「俺は研究者だし、EIDOSの理論も、指針も、全部ここで回ってるはずなのに……」
こめかみに当てた指が、悔しそうに強張る。
「式の外に、彼女がいる。外にいるのに、全部の数値を揺らす」
「……リオン」
澪は言葉を探す。
こんなリオンを見たのは始めてだった。
正しい言葉、彼を救える言葉。
でも、口の中で何度も組み立てたフレーズは、どれも軽すぎた。
「ごめん、今はうまく言えない。だけど――」
澪は、触れていた指をほんの少しだけ強くした。
「あなたは、わたしが知ってる中でいちばん正直な人だよ。だから、壊れそうでも、逃げないで」
「逃げ方が分からない」
リオンはひどく素直に言った。
「どうすればいい。どうすれば――」
タカコが二つのカップを二人の前に静かに置いた。
一つは、澪のいつものブレンド。
もう一つは、蜂蜜とミルクを少し多めにしたリオンのブレンドだ。
「言葉が見つからない時は、無理に探そうとしなくてもいいのよ」
タカコは澪の肩に優しく触れるとカウンターに戻っていった。
リオンは湯気を見つめた。
白い揺らぎは、数式でも、観測データでもない。
ただ、今ここにある温度だった。
「……ありがとう」
やっとの思いで、彼は言った。
誰に向けたのか、自分でも分からない“ありがとう”だった。
澪は小さく頷いた。
窓の外で、港の風が旗を揺らす。
普通の昼が、何事もなかったみたいに続いていく。
テーブルの上には、湯気と、言えなかった言葉と、置き場のない祈りが残った。
タカコはふと、澪の方を見た。
目が合う。
その短い視線の中に、“今は見守るしかない"という暗黙のサインが交わされていた。
そして、ただそばにいること、それが二人に出来る全てだった。