第6話「未来とは?」
登場人物紹介
■リオン
若き研究者。
未来リープ・シミュレータの開発指針を任されるが、未来からの通信で現れた女性オフェリアに心を揺さぶられる。
科学者としての冷静さと、人間としての感情との狭間で苦悩する。
■オフェリア
リオンの「三十年後の未来」と通信で繋がった謎の女性。
科学省の研究者でありながら、どこか妖艶な気配を纏う。
未来の真実を語り、やがてリオンの心を捉えていく。
銀髪と、青と緑が交じる瞳が印象的。
■澪
リオンの同僚であり友人。
Affecticsを駆使してオフェリアの真偽を確かめる協力者となる。
リオンの苦悩や弱さを目の当たりにし、新たな絆を感じ始める。
■タカコ
カフェの店主。
穏やかな笑みと気さくな物腰で、リオンや澪を支える存在。
ホットサンドは彼女の店の名物であり、リオンの「記憶の味」となる。
■ユナ
澪の友人。
セレスティア・ジュニア・アカデミーでヴァルガード語を教えている。
密かにリオンへの想いを抱いている。
■ノナカ博士
科学技術省の重鎮。
リオンに未来リープ・シミュレータの開発指針を依頼する。
「理論は正しいだけでは駄目だ。人を惹きつけ、未来を想像させるものでなければならない」――その言葉がリオンを導く。
ラボの窓は厚いブラインドで覆われ、外界の時間を忘れさせていた。
朝か夜かもわからない。ただ蛍光灯とモニタの白い光だけが、リオンを現実に繋ぎ止めている。
彼のノートには数式が幾十ページにもわたり殴り書かれていた。
黒インクの軌跡はすでに芸術めいた迷路になり、ところどころに付箋や赤線が乱雑に貼られている。
ノナカ博士から依頼されていたのは、EIDOSに実装する未来へのタイムリープ・シミュレータの開発モデルとアプローチだ。
つまり、理論の骨格と開発手順だ。
「……未来リープ・シミュレータ。机上の理論でも、骨格を作らなければ」
オフェリアが言った言葉が頭の中でループしていた。
「でも未来はね、確率と演算の世界。だから“絶対唯一の未来”なんて存在しないのよ」
リオンは単純なシミュレーション・モデルを考えていた。
リオンは自分の書いた開発ノートを何度も読み返していた。
〈リオンの開発ノート〉
■概要
未来は一本の線じゃない。
ある事件の後に続く未来は、いくつも分かれて存在している。
たとえば、コインを投げれば『表』か『裏』か。
同じように、一つの事象からは複数の“未来の枝”が伸びていく。
それぞれの枝には“確率”という重さがある。
ある枝は0.6(60%の可能性)、別の枝は0.3、もう一つは0.1。
これらを全部足せば1.0になる。
それぞれの未来は“確率空間”の中で共存している。
シミュレータがやるべきことは、
それぞれの未来をただ並べるんじゃなくて、確率を重みにした“加重平均”をとり、未来の流れを一つのモデルにまとめること。
もちろん確率が高い未来だけを見れば簡単だ。
けど、それじゃ危険すぎる。
可能性が低くても、大きな衝撃をもたらす未来があるかもしれないから
■モデル算出の条件と要素
1.同一事象に関する一定時間経過後の位相は複数あり得る
2.各位相の発生確率を確率測度を用いて算出する
3.確率空間における各位相の発生確率の総和は1.0になる筈である。
4.各位相の全ての組合せで論理演算を行い、一つの未来モデルを導き出す。
5.論理演算は確立のレンジ別に演算子を変える
■深堀り
1. 同一事象に関する一定時間経過後の位相は複数あり得る
→ 未来は一本の線ではなく、枝分かれした「相(phase)」の集合である。
→ 例えるなら、コインを投げた後の表と裏。二つの位相が同時に潜在している。
2. 各位相の発生確率を確率測度を用いて算出する
→ 各位相には必ず“重み”がある。
→ 確率測度 μ を導入し、各位相Ωiに対して P(Ωi) = μ(Ωi) を割り当てる。
3. 確率空間における各位相の発生確率の総和は1になる
\sum_i P(\Omega_i) = 1.0
4. 各位相の全ての組合せで論理演算を行い、一つの未来モデルを導き出す
→ 各Ωiをただの「点」として扱うのではなく、論理的に束ねる。
→ 未来は確率の群れであり、論理演算によって一つの「モデル」へ集約する。
5. 論理演算は確率のレンジ別に演算子を変える
→ 高確率(0.9以上):AND を強めに。つまり「ほぼ確定の未来」として束ねる。
→ 中確率(0.5〜0.9):OR を混ぜる。「どちらにも転び得る」として複数提示。
→ 低確率(0.5未満):除外。ただし希少事象として脚注に残す。
■ 補足
未来のモデル化(図解メモ)
分岐点:Δtごとに事象は分岐する
位相Ωi:各分岐後の可能性
測度P(Ωi):確率の重み
演算子:AND/ORを確率レンジで使い分ける
> 例)
紛争CI = 0.62、災害DI = 0.51、技術革新TB = 0.48、感情変動EV = 0.40
→ SI ≈ 0.93(準安定)。
「確定」とは呼べない。必ず別シナリオも提示する。
「……99%でも100%ではない。
未来を語るなら、嘘をつくときも“安全側の嘘”をつけ」
彼はノートの端にそう書き残した。
リオンはペンを置きノートを閉じる。
「まだ思い付きレベルにすぎない...数式化を行って検証しなければ。集中を要するタフな作業だ」
だが、集中すればするほど、視界の隅に別の像が浮かぶ。
銀糸の髪が、薄暗いラボに流れ込む。
鮮やかな瞳が、数式を透かすようにこちらを覗く。
そして、唇にそっと指を当てる仕草。
「……オフェリア」
名を呼んだ瞬間、心臓が不意に跳ねる。
この式を突き詰めれば、彼女の存在が証明される――そんな錯覚すら覚える。
だが同時に、その微笑が、すべての思考を邪魔する。
紙面に書きかけた数字の「7」が、彼女の笑みでにじんだ。
――『リオン、会いたいわ。研究なんかより、もっと大事なものがあるでしょう?』
耳の奥で幻聴のように響く声。
彼は両手で頭を抱えた。
「やめろ……今は理論だ。女に浸っている場合じゃない」
それでも、理論のすき間から顔を出す彼女を、心は拒めなかった。
「リオン!」
不意に扉が開き、現実が押し込まれる。
澪がラボの中に入ってきた。
リオンの乱れた髪と目の下のクマを見て、澪は呆れたように首を振る。
「顔色……ひどいどころじゃないわね」
「これから最もキツイ作業が待っているんだ」
「三日前もそう言っていたわよ? 研究する人間って、どうして体を犠牲にするのかしら」
澪は机のノートの端に書かれた`オフェリア`という手書き文字をちらりと見て、小さく笑った。
「それに……オフェリアの幻影に取り憑かれてるみたいよ?」
リオンは息を呑む。
図星だった。だが、否定の言葉は出てこない。
「……違う」
「ふーん? でもね、好きな人を考える顔って、すぐにわかるのよ」
澪はからかうように肩をすくめる。
「タカコさんのカフェに行きましょう。コーヒーで一息ついてから続けなさい。
オフェリアだって、倒れるあなたなんて見たくないでしょ?」
澪に連れ出され、リオンはしぶしぶカフェのドアを押した。
タカコがにこやかに迎える。
「まあ、リオンじゃない。顔色ひどいわね。コーヒー淹れてあげるから、座ってなさい」
窓際の席に腰を下ろすと、外の光がようやく彼の目に差し込んだ。
熱いカップを手にした澪が、からかうように笑う。
「で、どうなの? オフェリアのこと」
リオンは黙ったままカップを見つめる。
白い湯気の揺らぎが、銀髪の幻影に重なる気がした。
「……澪、お前は――人を好きになったことがあるか?」
澪は意表を突かれたように瞬きをした。
Air on G の顔が脳裏に浮かぶ。
そして少し考え込んだあと、口元に微笑を浮かべた。
「……あるよ。痛いくらいにね」
リオンは息を呑み、目を逸らす。
澪はカップをくるりと回し、視線を窓の外に投げた。
「だからわかるの。あなたがどんな顔で彼女を思ってるか」
タカコがコーヒーを運んできて、軽く冗談めかして言う。
「恋はね、研究よりタフな作業なのよ」
リオンは苦笑し、カップを持ち上げた。
苦味の奥に、どこか温かいものが滲んでいた。