4:あの男と話す。
「このあと、旦那様は予定がないようだから、おしゃべりしに行かない?」
三歳になったある日、母がそう誘ってきた。そろそろあの男と話したいと思っていたのでちょうど良かった。
了承の返事をすると、母がニコニコと笑いながら私の手を引いて、あの男の執務室へと向かって歩いていた。
予定がないのに執務室なのかと聞くと、あの男は基本的に執務室にいるのだと言われた。
私はまだ幼いので、食事に同席できない。
マナーが守れるようになってからなので、基本は十歳前後になるだろう。早い者は七歳くらいでも同席していたと思う。
なので、私があの男に会う機会は今のところほぼないのだ。あの男が会いにくれば別だが、会いに来ることなどないからな。
「ニコラウス、緊張しているの?」
母が心配そうにこちらを覗き込んできた。
緊張か。確かに緊張しているのかもしれん。生まれ変わってから一度くらいは顔を合わせただろうか? …………うむ、記憶にないな。
近くからこっちを見ているらしいとか乳母が話していたことはあったが。
「あのお……父と話すのは初めてな気がしましゅ」
「あら? そうだったかしら? うーん?」
母もあまり記憶にないということは、顔合わせしていないのではなかろうか。私の体力が限界を迎えて、昼寝などしている間に様子見に来ていた場合はあるかもしれないが。
あの男の執務室に着いてしまった。
母がノックをして中に入ると、穏やかな日差しが室内に差し込んでいるのに、執務机の周囲は妙に薄暗く感じた。
そんな執務机には、少し暗めのブルネットヘアを横に流し、コールマン髭の端を左手で弄りながら何やら書き物をしていた。
予定がないと聞いていたが、ガッツリ仕事してないか?
「旦那様、ニコラウスがお話しに来ましたよ」
母よ、丸投げなのか。ニコニコ笑ってやることがえげつないな。そもそも、母が誘ったよな?
私が本当に三歳児ならば泣いているぞ? あの男、滅茶苦茶こっちを睨んでいるじゃないか。あれ、仕事を邪魔された時の顔だぞ?
「なんの用だ」
ほらみろ。明らかに歓迎されてないじゃないか。いくら私でも、不当に仕事の邪魔は…………前世ではしていたが。だからあの顔を知ってはいるのだがっ。
「お仕事の邪魔をちてしゅみません」
「いい。用件を言え」
「本棚にありゅ本を読み終えてしまいまちた。新しい本を買ってくだしゃい」
「全部、読んだだと?」
「はい」
あの男――ライゼガング侯爵がちらりと母の方を見ると、母がニコニコ笑顔のままコクリと頷いた。
ライゼガング侯爵は長いため息のあとに、新しい本を商人に持ってこさせるから、好きに選べと言って手を払う仕草をした。
なにやら楽しそうな母と執務室を出ながら思う。
あの男はなぜこのおっとりした母を選び結婚したのだろうか、と。