第九章 波間の絆
雨が降り始めたのは、黄昏の前触れのようだった。
空の色は鉛のように重く、波のうねりは次第に荒くなっていく。船を包む空気が張り詰め、誰もが口をつぐんだ。甲板では帆を畳む者、桶で水をかき出す者、声を張り上げる者たちが忙しなく動いていた。
阿正は風にあおられながらも、帆の下で指示を出していた。その横顔は凛としていたが、突如として一陣の強風が吹き抜け、帆が暴れ、次の瞬間――。
「阿正っ!」
甲板から叫びが上がった。
彼の身体が、まるで風に攫われるかのように海へと投げ出された。男たちが駆け寄る暇もなく、波が彼の姿を飲み込んでいく。
誰かが飛び込んだ音がした。誰よりも早く、誰よりも真っ直ぐに。
林浩だった。
「無茶だ!」という叫びが背後で響いたが、彼の耳には届かない。海は怒っていた。巨人のようにうねり、ふたりを押し流そうとしていた。
必死に泳ぎ、ついに阿正の身体を捕らえたとき、林浩の左肩に激しい痛みが走った。何かにぶつかったのか、それとも岩か――意識が遠のく。
……
気がついたのは、温かな布の感触と、どこか懐かしいような香りだった。
細く開けた瞳に、見慣れた天井板と、誰かの背中が映る。動くこともできずにまどろむなかで、ふとその人物が振り返った。
「……起きたのね。」
佐久夜だった。長い髪を結い、袖をまくり、薬壺と濡れ布を手にしていた。
「無茶しすぎよ」と、彼女は小さく叱るように言った。だがその声は、どこか震えていた。
林浩は言葉を探そうとしたが、喉が乾いていた。ただ目を閉じ、肩の痛みに顔をしかめる。
「肩が外れていたの。なんとか戻したけど……暫くは動かしちゃだめ。海水も入ってたから熱も出たのよ」
その声は柔らかく、けれどどこか怒っていた。
佐久夜の指がそっと、林浩の額の汗を拭う。
「どうしても飛び込むと思ったわ。あなただもの」
林浩は目を開けた。
その瞳に映った佐久夜の顔は、どこか遠い日の光のようだった。海で拾われたあの時――冷たい波の中で、彼女だけが彼を抱きしめてくれた。
「阿正は?」
かすれる声で尋ねると、佐久夜は微笑んで、「無事よ」とうなずいた。
「意識も戻ってる。ただ、あなたが起きるまで、ずっと心配してた」
林浩は息を吐き、安心した。
そのまま視線を天井に戻そうとした時、不意に佐久夜の指が彼の手を握った。
「……無茶はもう、やめて」
その言葉の裏に、どれほどの感情が込められていたのか。林浩はわからないまま、そっと目を閉じた。
その夜、船の揺れが穏やかになった頃、静かに扉の隙間から誰かが様子を覗いていた。
鬼丸伊吹だった。
暗がりの中で、彼は林浩と佐久夜の姿を無言で見つめていた。
表情は読めなかった。ただ、長く息を吐き、音もなくその場を去っていった。
海は、また静かさを取り戻していた。だが、人々の心には、小さな波が静かに広がっていた。