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東海の暁  作者: 原一文
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第八章 静かな渦

夜の帳がゆっくりと船を包み込み、星々が波間に揺れる頃。林浩は甲板の端に腰掛け、海を見つめていた。冷たい潮風が頬を撫でるたび、あの日の感触が甦る――波間を漂っていた自分を、佐久夜が拾い上げた瞬間。あれから幾月が過ぎたが、恩人である彼女の姿が脳裏から離れることはなかった。


佐久夜は今も同じ船にいる。医術に長けた彼女は、船員たちの傷や病を静かに癒していた。明るく振る舞うことは少ないが、その丁寧な所作と凛とした瞳は、多くの者の信頼を集めていた。林浩もその一人だった。


今夜もまた、彼女は船室の端で薬草を煎じている。遠くからその姿を見つめる者がいた。鬼丸伊吹。物静かで冷ややかな瞳の彼だが、佐久夜を見るときだけ、その視線にわずかな揺れがあった。かつて兵介に拾われ、養子として育てられた伊吹にとって、佐久夜は“義妹”にあたる。だが、胸の内に潜む想いは、それだけでは片づけられぬものだった。


その夜、風が強まり始めた頃。林浩は阿正と共に甲板を歩いていた。海は静かだが、どこか不穏な空気が漂っていた。


「……おまえ、最近、あの娘と話したか?」と阿正がふいに尋ねた。


「佐久夜か?」林浩は少し戸惑って言葉を返した。「いや、用もなく近づくのは、なんだか悪い気がしてな」


阿正はふっと笑った。「おまえ、あの娘のこと、ただの恩人と思ってないだろう?」


林浩は黙って海を見つめた。その沈黙が、何よりの答えだった。


すると背後から声がした。「見張りの交代だ。もう下がれ」


振り返ると、伊吹が無表情に立っていた。林浩は軽く頷き、阿正と共にその場を離れた。伊吹は黙って甲板に立ち、夜の海を睨みつける。その横顔には、抑えきれぬ何かが浮かんでいた。


その夜、佐久夜は船室で林浩とすれ違った。ほんの一瞬、目が合う。


「……また風が強くなりそうね。気をつけて」と、彼女は静かに言った。


「ありがとう。君も、無理をするなよ」と林浩は返す。


ふたりの距離はほんの数歩。だが、その間には、救われた過去と、まだ名もなき想いが静かに流れていた。


そして、そのやりとりを、遠くから見つめるもうひとつの影――伊吹。


闇に溶けるように佇む彼の胸に、名も告げぬ想いが渦を巻いていた。


まだ、誰も気づいていなかった。やがてこの小さな船に、静かな波では済まぬ、大きな渦が生まれようとしていることに。

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