第六章:海の声
海がようやく静けさを取り戻した夜、月が静かに波間を照らしていた。甲板には潮の香りが立ち込め、船員たちの間にも、昼間の混乱とは打って変わって落ち着いた空気が流れていた。
林浩は、船の縁に腰掛け、しずくを拭いながら海面をじっと見つめていた。思い出されるのは、あの海妖の姿。人の形をしながら、どこか異様に歪んだ肢体。声のような、風のような音を発していた。
その隣、阿正がそっと腰を下ろした。「見たか、あの影。」
林浩は軽くうなずいた。「あれは……人じゃなかった。」
「そうだな。琉球にも、似たような伝承がある。海底に棲む神の落とし子。嵐を呼び、船を沈める。」
少しして、伊吹が甲板に現れた。彼は林浩たちの会話に興味を示す素振りを見せたが、近づくことはなかった。照明の影の向こうで、船員たちと一緒に黙々とロープの結び直しに取り組んでいる。
林浩はその姿を目で追いながら、阿正に尋ねた。「あいつ、何者なんだ?」
「伊吹か? 鬼丸の部下だが、あの中でもちょっと違う匂いがするな。頭が切れるし、殺気を隠さない。」
「でも、助けてくれたんだ。」
「……ああ。おそらく、鬼丸の命令でお前を見張ってる。だが、それだけじゃないようにも見える。」
林浩は眉をひそめた。伊吹とは、初めて出会った日からどこか合わない感覚があった。ときに無視され、ときに冷たく言葉を投げつけられる。しかし、あの海妖の出現の際には誰よりも早く刀を抜き、林浩を庇うように立ちはだかった。
――信用できるのか。できないのか。
その答えを出すには、まだ時が必要だった。
「海妖って、本当にいるんだな……」林浩がぽつりと呟いた。
「信じるかどうかは、お前次第だ。だが、今の海では、何が起きても不思議じゃない。」阿正はそう言って立ち上がり、夜の見張りへと戻っていった。
残された林浩は、再び海を見つめた。波間に浮かぶ月の影が、まるで海の奥底から誰かがこちらを見ているように思えた。
だがその視線よりも、もっと気になるのは、時折こちらに向けられる伊吹の横目だった。