第四章:流転の海図
潮の音は、いつまでも途切れることがなかった。朝も、夜も、風のない凪のときでさえ、どこか遠くで波が何かにぶつかり、こすれ、息づいている。林浩が倭寇の船に乗って最初の数日は、船酔いに苦しみ、食欲もなく、夢の中ですら波に飲まれていた。
「お前さん、そろそろ足腰を鍛え直した方がいいな。海の上は、陸とは違うぜ」
阿正が言った。彼の声にはいつも余裕があった。どこか気品のようなものさえ感じさせる。肩まで伸びた黒髪は潮風でふわりと舞い、右袖を常にまくったままの腕からは、木製の義手がちらりと覗いた。
「おれは…ただ、流されてここに来ただけだ。あんたみたいに、強くはない」
「強くなんかないさ。ただ、流された先で生き延びる術を見つけたってだけだ」
阿正はにやりと笑い、甲板の端に腰を下ろすと、自らの左腕でぐいと林浩の肩を引き寄せた。
「まずは足さばきからだ。敵が来たら、剣なんか握る前に体が勝手に動くようになってなきゃならん」
それからというもの、林浩は毎朝、甲板の隅で阿正にしごかれることになった。立ち方、重心の置き方、腕の振り方、倒れたときの受け身。最初は何もかもがうまくいかなかった。だが、海上では時間の流れが独特だ。夜明け前の薄明かり、赤く染まる朝陽、そして焼けるような昼、潮風の冷たい夕暮れ……そうした刻の中で、林浩の体は少しずつ変わっていった。
「海の男ってのはな、力よりも柔らかさが大事なんだ。波に逆らうな、流れに乗れ。だが、沈むな。浮かんでいろ」
阿正の言葉には、何か深い響きがあった。
ある晩、風が止んだ海に月光が射す中で、二人は船尾に座っていた。阿正は酒を少しだけ口に含みながら、どこか懐かしむような声で言った。
「お前、海妖って知ってるか?」
「……あの、海に棲む怪物とか、女の化け物の話か?」
「そう。国によって名前も姿も違うが、どこの海にも、必ず“何か”がいると信じられてる。琉球の島では『海神』と呼ばれ、女の声で漁師を惑わす。南蛮の方では『セイレーン』、東洋の古い文献では『魍魎』や『水鬼』……」
「……父さんも、そんな話をしてた」
林浩は、不意に口にしてしまった言葉に、少し驚いた。
「父さんが出港した夜、海から…声が聞こえたんだ。夢かと思ったけど……もしかして、本当だったのかって」
阿正は黙って聞いていたが、やがて静かに言った。
「俺の故郷には“海の底には、失われた都がある”という伝説がある。沈んだ人々の魂が、時折、地上の人間を呼び寄せるのだと。……馬鹿らしい話さ。でも、こうして色んな海を渡るうちに、思うようになった。海ってのは、何でも呑み込むけど、何も捨てちゃいない。昔の声も、命も、きっとどこかに渦巻いてる」
林浩は月を見上げた。雲ひとつない夜だった。満月の光が、波のひとつひとつを銀色に染めていた。
「お前が父親を探してるってこと、誰にも言ってないが、俺は手を貸すよ。……言葉や文化、地図や風、全部教えてやる。お前がこの広い海を、生き抜くために」
それは約束だった。海図もない海に出る者たちの、唯一の道しるべだった。
翌日から、林浩は阿正に教えを請うようになった。異国の言葉。風の読み方。船乗りのしきたり。果ては各国の風俗や交易品に至るまで、阿正の知識はまるで宝の山のようだった。
「この匕首はシャムの商人が持っていたもの。柄に彫られたのはナーガ、蛇神さ」
「この布地は天竺のもの。象の図柄は、王族にしか許されなかった」
「お前もいずれ、自分の“航路”を選ぶことになる。復讐か、探索か、富か、名声か……どれを選んでもいい。だが、絶対に“何のために生きるか”を見失うな」
林浩はその言葉を、まるで胸に刻むように聞いていた。
夜の海は、かつて怖いものだった。だが今、彼はその暗闇の奥に、父の声と、まだ見ぬ真実と、そして…奇妙な輝きを感じていた。