表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東海の暁  作者: 原一文
3/20

第三章 片腕の貴公子

林浩が鬼丸の船に拾われてから三日が経った。甲板の上では船員たちが槍を振るい、縄を巻き、酒をあおっては笑い声を上げていた。


林浩は倉庫のような船底に押し込まれていた。手足は枷で繋がれてはいないが、出入りの自由はない。


最初の夜、林浩は眠れなかった。母のこと、村のこと、そして父の最後の姿が、暗闇の中で何度も浮かんでは消えた。


船底には自分以外にも数人の者たちがいた。明らかに漢人、南洋の民、そして片言のポルトガル語を話す者もいた。中でも、林浩が目を引かれたのは、一人の男だった。


彼は背筋を伸ばし、粗末な敷布の上に座っていた。片腕——右腕が、肘から先ごと失われている。その袖口は布で丁寧に縛られており、血の跡はすでに消えていた。


長い黒髪を後ろに束ね、淡い紫の着物を纏っている。身なりは粗末だが、仕草や眼差しに、育ちの良さが滲み出ていた。


林浩が彼を見ていると、その男はふと微笑んで言った。


「初めて見る顔だな。福建の出身か?」


「……ああ」


驚いた。明らかに中国語だが、訛りがない。


「安心しろ。ここでは言葉が通じるほうが、まだ楽だ」


男は左手だけで器用に湯を注ぎ、小さな杯を林浩に差し出した。


「俺の名は阿正アセイ。もとは琉球の那覇出身……まあ、今は海の民にされて久しいがな」


林浩は戸惑いながら杯を受け取った。湯は塩気の強い草の煎じ汁だったが、芯まで冷えていた体にじんわりと染みた。


「琉球の……?」


「王家の血を引く者だった。昔はな。明へ使者として渡航する予定だったが、海でこの倭寇どもに襲われてな……」


彼は右肩に視線を落とした。


「一人だけ、刀を奪って三人斬った。だが四人目に腕を落とされた。気づけばこの船だったよ」


阿正の語りはどこか淡々としていたが、その奥に渦巻く怒りと屈辱は、林浩にも痛いほど伝わった。


「……通訳として働いているのか?」


「ああ。日本語、琉球語、明の言葉、それに少しのポルトガル語。今や言葉しか武器がないからな」


阿正はそう言って笑った。その笑みは穏やかだが、まるで仮面のようにも見えた。


「お前の名は?」


「林浩。石橋村の漁師の息子だ」


「そうか。林浩……生き残りたいなら、三つのことを覚えろ」


「三つ?」


「一つ、反抗はするな。斬られるだけだ。二つ、命令は守れ。従うふりでもいい。そして三つ——必要以上に目立つな」


林浩は無言で頷いた。阿正はさらに低い声で囁いた。


「この船には“佐久夜の兄”を名乗る若者がいる。名は鬼丸伊吹いぶき。血は繋がっていないが、鬼丸兵介に拾われ育てられた。今や船団の第二の頭目だ」


「……見たことがある。大柄な男だろう?」


「ああ。見た目は優雅だが、心は鋭く冷たい。特に佐久夜の傍に近づく男を……快く思っていない」


林浩は胸の奥に冷たいものを感じた。あの少女——佐久夜の存在が、思いの外大きくなっていることに、自分でも気づいていた。


その夜、甲板で雑務を命じられた林浩は、縄のほつれを直す役目を与えられた。


途中、鋭い声が背後から飛んできた。


「おい、唐人。手が遅いぞ」


振り向くと、伊吹が腕を組み、冷たく笑っていた。


「佐久夜様のお気に入りとは聞いているが……使い物にならねば魚の餌だ」


林浩は黙って作業に戻った。伊吹の足元に置かれた桶が、林浩の肩を強かに打った。


「……今のは偶然だ。気を悪くするな」


笑い声が甲板に響いた。だが、阿正はその場に現れ、さっと桶を拾い上げた。


「失礼いたしました、伊吹様。彼はまだ慣れておりません」


「……阿正か。お前の通訳としての腕は買っている。だが——唐人を甘やかすなよ」


伊吹はそのまま背を向けて去っていった。


阿正は林浩の手元にしゃがみこみ、低く呟いた。


「忘れるな、林浩。今のお前にできるのは、生き延びることだけだ」


林浩は深く頷いた。


その夜、波の音の中で、彼は父の羅針盤を胸元で握りしめた。


海はまだ静かだった。だが、その静けさの裏で、嵐の種は確かに芽吹いていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ