第三章 片腕の貴公子
林浩が鬼丸の船に拾われてから三日が経った。甲板の上では船員たちが槍を振るい、縄を巻き、酒をあおっては笑い声を上げていた。
林浩は倉庫のような船底に押し込まれていた。手足は枷で繋がれてはいないが、出入りの自由はない。
最初の夜、林浩は眠れなかった。母のこと、村のこと、そして父の最後の姿が、暗闇の中で何度も浮かんでは消えた。
船底には自分以外にも数人の者たちがいた。明らかに漢人、南洋の民、そして片言のポルトガル語を話す者もいた。中でも、林浩が目を引かれたのは、一人の男だった。
彼は背筋を伸ばし、粗末な敷布の上に座っていた。片腕——右腕が、肘から先ごと失われている。その袖口は布で丁寧に縛られており、血の跡はすでに消えていた。
長い黒髪を後ろに束ね、淡い紫の着物を纏っている。身なりは粗末だが、仕草や眼差しに、育ちの良さが滲み出ていた。
林浩が彼を見ていると、その男はふと微笑んで言った。
「初めて見る顔だな。福建の出身か?」
「……ああ」
驚いた。明らかに中国語だが、訛りがない。
「安心しろ。ここでは言葉が通じるほうが、まだ楽だ」
男は左手だけで器用に湯を注ぎ、小さな杯を林浩に差し出した。
「俺の名は阿正。もとは琉球の那覇出身……まあ、今は海の民にされて久しいがな」
林浩は戸惑いながら杯を受け取った。湯は塩気の強い草の煎じ汁だったが、芯まで冷えていた体にじんわりと染みた。
「琉球の……?」
「王家の血を引く者だった。昔はな。明へ使者として渡航する予定だったが、海でこの倭寇どもに襲われてな……」
彼は右肩に視線を落とした。
「一人だけ、刀を奪って三人斬った。だが四人目に腕を落とされた。気づけばこの船だったよ」
阿正の語りはどこか淡々としていたが、その奥に渦巻く怒りと屈辱は、林浩にも痛いほど伝わった。
「……通訳として働いているのか?」
「ああ。日本語、琉球語、明の言葉、それに少しのポルトガル語。今や言葉しか武器がないからな」
阿正はそう言って笑った。その笑みは穏やかだが、まるで仮面のようにも見えた。
「お前の名は?」
「林浩。石橋村の漁師の息子だ」
「そうか。林浩……生き残りたいなら、三つのことを覚えろ」
「三つ?」
「一つ、反抗はするな。斬られるだけだ。二つ、命令は守れ。従うふりでもいい。そして三つ——必要以上に目立つな」
林浩は無言で頷いた。阿正はさらに低い声で囁いた。
「この船には“佐久夜の兄”を名乗る若者がいる。名は鬼丸伊吹。血は繋がっていないが、鬼丸兵介に拾われ育てられた。今や船団の第二の頭目だ」
「……見たことがある。大柄な男だろう?」
「ああ。見た目は優雅だが、心は鋭く冷たい。特に佐久夜の傍に近づく男を……快く思っていない」
林浩は胸の奥に冷たいものを感じた。あの少女——佐久夜の存在が、思いの外大きくなっていることに、自分でも気づいていた。
その夜、甲板で雑務を命じられた林浩は、縄のほつれを直す役目を与えられた。
途中、鋭い声が背後から飛んできた。
「おい、唐人。手が遅いぞ」
振り向くと、伊吹が腕を組み、冷たく笑っていた。
「佐久夜様のお気に入りとは聞いているが……使い物にならねば魚の餌だ」
林浩は黙って作業に戻った。伊吹の足元に置かれた桶が、林浩の肩を強かに打った。
「……今のは偶然だ。気を悪くするな」
笑い声が甲板に響いた。だが、阿正はその場に現れ、さっと桶を拾い上げた。
「失礼いたしました、伊吹様。彼はまだ慣れておりません」
「……阿正か。お前の通訳としての腕は買っている。だが——唐人を甘やかすなよ」
伊吹はそのまま背を向けて去っていった。
阿正は林浩の手元にしゃがみこみ、低く呟いた。
「忘れるな、林浩。今のお前にできるのは、生き延びることだけだ」
林浩は深く頷いた。
その夜、波の音の中で、彼は父の羅針盤を胸元で握りしめた。
海はまだ静かだった。だが、その静けさの裏で、嵐の種は確かに芽吹いていた。