第一章:潮禁の村
明朝・嘉靖二十二年(西暦1543年)、福建省泉州府の南岸に、小さな村がひっそりと息をひそめていた。名は石橋村。
三月九日の未明、潮風が骨の髄まで冷たかった。海は灰色に濁り、空には月が薄く浮かび、波は岩礁に激しくぶつかっていた。
少年・**林浩**は、村の外れの崖に立っていた。蓑を羽織ったその姿は風に吹かれ、今にも飛ばされそうだった。
「……父さんは、どこまで行ったんだろうな」
海を睨むその目は、六年前に消えた父・**林遠山**の面影を探していた。
懐から取り出した黄銅の羅針盤が冷たかった。父の形見——針は震えながらも、常に東の岬を指し示す。六年前のあの日、密貿易から帰った父は酒に酔い、「東の岬に龍宮城がある。珊瑚の柱に守られた、海禁などない国だ」と笑った。朝廷が鎖す以前の海を、林浩は父の話でしか知らなかった。交易船が星座のように連なり、マラッカの商人が胡椒の袋を担ぎ、琉球の漁師が真珠を数えていた時代を。
「……嘘だったのか、父さん」
羅針盤を握りしめる手に力が入った。今や海に浮かぶのは交易船ではなく、倭寇の黒船か官兵の軍艦だけだ。
石橋村はもとは漁で栄えた村だった。福建沿岸では代々、海とともに生き、潮の満ち引きを読んで魚を獲り、海路で交易を行っていた。だが嘉靖帝の治世になると、朝廷は**「海禁令」**を発布。庶民による私的な海上交易を禁じ、違反者は重罪とされた。
その背景には、沿海部で横行する倭寇——主に日本や琉球、そして中国沿岸の海賊が連携した集団の脅威があった。彼らは交易だけでなく、略奪・殺害・誘拐を繰り返し、民衆の暮らしを脅かしていた。
だが、林浩にとっては、そんな大義名分などどうでもよかった。海に出られなければ、生きるすべがない。
家では母が病に伏せ、数日も口に米をしていない。
「浩! また海に行ったのか!」
家の方から母の声が聞こえた。枯れたその声に、林浩は小さく肩をすくめた。
「ただ、見ただけさ」
屋根の崩れた家に戻ると、母・李氏は布団に包まり、やせ細った腕で咳き込んでいた。口元には血の跡があり、布団の中には微かに乾いた薬草の匂いが漂っていた。
「お前まで罰を受けたら、母さんは……母さんは……」
「大丈夫。俺がいるから」
林浩はそう言いながらも、心の奥では決めていた。
今夜、海に出る。
村では密かに「老鬼湾」と呼ばれる入り江に数艘の舟が隠されている。そこから夜陰に紛れて海に出れば、官兵の目を逃れることができる。うまく魚を獲って帰れば、米と薬草を買うだけの銭にはなる。
だが、そこへ出た者の中には——戻らぬ者もいた。
夜半、村は静まり返った。林浩は縄と網、粗末な帆とわずかな干し餅を背負い、裏道を抜けて北の断崖へと向かった。
老鬼湾は霧深く、人の声に似た潮騒が夜な夜な聞こえるといわれていた。昔、倭寇がこの入り江で漁師を百人斬り殺し、村娘をさらったという噂がある。夜に入るのは忌まれる場所だった。
しかし林浩は迷わなかった。父が最後に舟を出したのもこの湾だった。
舟はまだあった。蓆で覆われ、潮に打たれながらも、しっかりと形を保っている。彼はそれを押し出し、海へと漕ぎ出した。
舟は波間を滑るように進んだ。月光が水面に反射し、黒銀の道が遠くまで続いているようだった。林浩は網を打ち、何度か試してみたが、魚は少なく、収穫はわずかだった。
「やはり潮が変わったのか……」
そう呟き、戻ろうかと思ったその時——
「……ドン」
鈍い音が船底から響いた。
「岩か……?」
身を乗り出して水面を見る。だが、そこには何もなかった。
一瞬、視界の端を黒い“影”のようなものが走り抜けた気がした。
潮の流れが変わった。風も逆向きに吹き始めた。波はうねり、霧が立ち込めてくる。
「……何かが、いる」
次の瞬間——
海が“生きて”いた。
霧の向こうに、青白く光るものが浮かび上がる。目だ。確かに、巨大な目が水面からこちらを見つめている。人間ではない。魚でもない。
**“それ”**は、海そのものから生まれたかのような存在。
林浩は舵を掴んだまま動けなくなった。心臓が凍りつく。声が出ない。
波が跳ね、舟が浮き上がる。まるで見えない何かが舟の底を持ち上げたかのようだった。
「くっ……!」
次の瞬間、舟がひっくり返り、彼の体は海中へと叩き込まれた。
冷たい水圧の中、ふと温もりが背中に触れた。母が病床で抱きしめてくれたような、あの柔らかさ——と思った刹那、その「腕」に異様な感触を覚えた。鱗が手のひらに刺さり、指の間には水かきがあった。
彼は意識を失う前、どこか遠くから声が聞こえた。
「……林浩……」
母の声? 父の声? それとも——
**“海の声”**だった。
視界が青く染まり、完全な暗闇に沈んでいった。