首が回らない2
「すいません。今まで寝てました」
なるべく自然にとぼけた感じでそう言って見た。
僕の事を睨めつけるように、女主任の林さんが鋭い視線を向ける。
昼過ぎに遅れてきたからこのような態度を取っている訳では無く、いつも強く当たられるのだ。
きっと嫌われているのだろう。
年下だが、自分より仕事ができるから言い返した事はない。しかし、人間関係は鏡とよく言うが、その通りで、彼女の事はあまりよく思っていない。
つまり、お互い様って事だ。
「あのねえ、あなた。連絡もなく、よくこんな時間にノコノコとやってこれたわね?それになに、その反省のない態度は」
「すいません」
林さんは大きなため息をついてから言葉続けた。
「……反省文書いて提出しなてください。上には私から話しておきます。着替えたからケアの方に回ってください」
「はい。承知しました」
なるだけの笑顔を作って頭を深々と下げると、再度大きなため息をついて去っていった。
よし。うまくいった。
測らずも、事務所内に一人になれた訳だ。
これで、あのいけ好かない主任様にも人知れず復讐できるってもんだ。
頼まれた物を持ち出せたら、この職場ともおさらばするつもりだ。
安月給でこき使いやがって。嫌な思いもたくさんしてきた。ケア利用者に罵声を浴びせられた事もあった。
そのたびにあの主任には叱責された。
僕は悪くないのに。
不快だ。不快だ不快だ不快だ。
不愉快きまわりない。この空間でアイツラと同じ空気を吸っていると思うだけで、鳥肌が立つ。
さっさと仕事を終わらせて、僕はここを去る。
勢いに任せて僕はパソコンの置かれている席に腰を降ろした。
そして、激安価格で買ってきたUSBメモリをポケットから取り出すと、怒りに任せてパソコンに突き刺した。
僕が依頼された仕事は、デイケア利用者の個人情報が書かれているファイルをコピーしてくる事だった。
そのファイルには、デイケア利用者の住所から生年月日、電話番号、家族構成、子供の勤務先までもが網羅されている。
当然、社外秘。持ち出しは厳禁とされていたが、二重の意味でケツに火がついた今の僕を止められる物はいない。
急いで利用者のファイルを開くと、USBメモリへコピーを急いだ。
早くしなくては。
上に報告をしにいった主任が戻ってきたら全てが台無しになる。
そうなれば、借金がチャラになる話もなくなる。
臓器の一つや二つ、覚悟しなければならなくなるだろう。
急げ、急げ、急げ。
ファイルの転送速度の遅さに、貧乏ユスリが止まらない。
慌てても仕方がない事はわかっている。無駄にキーボードの端をトントンと叩いてパソコンを急かした。
本当に頼むよ。俺の人生がかかっているんだ。
それでもファイルの転送は一件、二件、三件とゆっくりとしたペースで進んで行く。
木の遠くなるような時間を過ごしたような気がしたが、実測で十五分。
何世代も型落ちのパソコンは、時間をかけてファイルのコピーを終えた。
すぐにパソコンをシャットダウンさせて、USBメモリを取り外すと、走って事務所を後にした。
ようやく僕にも運が向いてきたのだろう。
その道中で誰に遭遇する事もなかった。
悪い奴らの手にこのファイルは渡る。
そうなれば、あの女主任もきっと困る事になる。
どんな事が起こるのかは僕には想像もつかない。
だけどとても嬉しかった。
復讐心が満たされていくのがわかった。
きっと、僕は笑っていた。
何年かぶりに笑ったのだ。
「ざまあみろ!」
施設を出る時、大声でそう叫んだ。
マスターベーションなんかよりよっぽど気持ちよかった。
そのままの足で、施設近くの公園に向かった。
男との待ち合わせ場所だ。
公園の中に入ったが、男の姿はなかった。
そんなに広くない公園だから、誰かいれびすぐわかるはずなのに、人っ子一人見当たらない。
しばらく公園で立ち尽くしていると、公園脇に黒塗りのワンボックスカーが停まった。
誰が乗っているかはわからないけれど、後ろの座席の窓が開き、僕に向かって手招きをした。
きっとあの男だ。
僕は駆け寄り、ファイルの入ったUSBメモリを手渡そうとすると、トビラが開き、中に引き釣り込まれた。
後部座席には僕の知っている男と、知らない男が一人。
前の運転席、助手席にも誰か座っている。
「まあ、真ん中に座れよ」
「は、はい」
言われるがままに真ん中の席に座ると、男はさっそくUSBメモリを要求してきた。
すぐに、僕は手渡した。とんでもない事をしてしまった事に気がつくのは、数十秒後の事になる。
「これで、借金チャラなんですよね?」
「あー、そうだっけか?」
知っている男が、とぼけた様子で口元を歪ませる。
「いやいや、電話で約束したじゃないですか」
「いやー知らねーな」
「それは無いですよ!確実に言いました!だからこんな危ない思いをしてまで持ち出したんですよ!」
男はほほうと頷き、続けて言った。
「自分が危ないことをしている自覚はあったんだな?」
男がそう言った瞬間、回りに座っている男たちがわざとらしくハハハハハと笑い出した。
何がおかしくてそんな事をしているのか分からなくて、僕は頷く事も、言い返す事も出来なかった。
「もし、俺がこのUSBメモリを持って、お前の職場に行ったらどうなると思う?お前から渡されたんだけどと言ってな」
「そ、それはやめてください!」
懲戒免職はいいにしても、訴えられるのは目に見えていた。難しい法律なんかはわからないけれど、多分僕は捕まる。
それだけは理解できた。
「だよなあ。困るよなあ?」
「は、はい。困ります。やめてください」
「別に、やめてやっても構わないよ。俺達のお願いを聞いてくれるならな」
「そ、それは話が違うじゃないですか!」
「ああ!!」
男は息のかかるほどの距離まで顔を近づけてすごんだ。
喧嘩なんてしたこともない僕はそれだけで何も言い返せなくなってしまった。
「いい子だから、お願い聞けるよな?」
「……はい」
「よい返事だ」
「……なにをすればいいんですか?」
「お前、他の介護施設に就職して、また同じように情報を抜いてこい」
「……次で、次が最後ですか?そうですよね?」
「ああ。そうだな。次が最後だ」
「……わかりました」
「よし、出せ」
僕の返事を聞くと、男は運転席の男に合図を送る。
すると車は動き出す。当然行き先を僕は知らない。
「ど、どこへ向うんですか?」
「さあ、どこだろうな。着いてからのお楽しみと行こうや」
男達全員がケラケラと可笑しそうに笑う。
その中で、僕は小さくなってカタカタと震える事しか出来なかった。