新月の夜。あなたに逢いに~人族:リネット編~
『新月の夜。星すら見えない昏い夜に、あの山の奥にある滝つぼを覗くと、死んでしまった人の姿が映る』
そんな噂を本気で信じた訳じゃない。
それでも。
もしかして一瞬だけでもそこに夫の姿が映るのならば、リネットは、どうか叶えて欲しかった。
ひと目でもいい。言葉を交わせたならもっと良い。あなたに触れることができたなら、その場で死んでも構わない。
その一心で、真っ暗な山道をリネットはひとり登っていった。
「ひっ」
油断した瞬間、額をしなった枝に強かに打ち付けられて、リネットは蹲った。
それでも、手にした松明だけは落さないようしっかりと握りしめたままだ。
もう随分前に道らしい道は見失い、今はたぶん獣道を辿っているのだろう。
木の枝が、リネットの胸元辺りまで繁っていた。
暗い夜道。獣除けのお香。そして松明。それだけが、リネットが持っている身を守る為のすべてだ。
家にあるそれらは夫が愛用していたもので、人間でしかないリネットの手にはすべてが大きかった。そんなちいさな事実すら、今の彼女には涙の理由になる。
まだ新婚であったはずの最愛の夫が、『戦争に行って一旗揚げてくる』と言って、新居を構えている街から遠い国境戦線へと出ていったのは、たった半年前のことだった。
獣人と人間の結婚は、ない訳ではない。けれどこの人間ばかりの国ではまだ少なくて、裕福な商家の娘であったリネットが、護衛として雇われた獣人と結婚することを両親は許そうとしなかった。
だから、ふたりで暮らせればどんな貧しい生活になろうともいいと駆け落ちを決行した。
流れ着いたこの土地では、夫は慣れないながら農業を始め、リネットも手に傷を作りながら近所の主婦に教えられて家事をした。
けれど、貧しくとも楽しい生活が送れていると思っていたのは、リネットだけだったようだ。
農業が収入に結びつくまでの道のりの遠さに、夫の心が挫けた。
なんの知識もない素人である夫に、初歩から教えてくれるだけでもありがたいことであるが、陽が昇る前から作業を手伝い、陽が沈んでからも道具の手入れなどと済ませるまでやっても、受け取れるのは売り物にならないようなクズ野菜のみ。
お互いが持っていた資金を切り崩しながらの生活は、追手以上にふたりの生活を息苦しいものとした。
「知識を与えて貰っているのだから、本当なら授業料を要求されても仕方がないところだ」
クズ野菜であろうと報酬が貰えることを喜ぶべきだと近所の誰もが口を揃えて言うものだから、そういうものかもしれないとリネットは受け入れていた。
だが、本人としてはプライドを甚く傷つけられることだったようだ。
「はぁはぁはぁ。それでも私は、あなたとふたり、寄り添っていられれば、それで良かったのに」
疲れも出てきて、ぬかるむ地面とうねるように蔓延る木の根と蔦に、何度も足元を取られては転び、リネットはすでに全身泥まみれだった。
それでも、彼女はまだ見えぬ滝つぼ目指してひたすら山を登っていった。
「きゃっ」
大きな根を跨ぎきれなくて躓いたリネットは、顔から地面へと転んでしまった。
「もう。もうっ、なんでよっ!」
握りしめた手から泥を拭おうにも、服も体も泥まみれで綺麗に拭うことは叶わなかった。
それでもちょこんと見えるようになった爪の先。それを見ているとリネットは悲しくなった。
実家にいた頃は、綺麗に整えられていた形のいい淡く色づく貝殻のようだった爪は、もう影も形もない。
短く切りそろえたというより家事の最中に割れてしまっては、やすりで引っ掛かりを無くすのが精一杯だ。
指や手にもちいさな傷がたくさんできた。
陶器のような滑らかだった頬も、今は日に焼けてがさついている。
髪だって肩の辺りで切り揃えてひとつに纏めるのが精一杯だ。香油どころか一番安い髪油だって使っていないから、ごわごわしてきていた。
視界に入るすべてが、あの頃の自分と違っていることに、リネットの涙が決壊した。
「あなたが好きだって言ってくれた私は、もう何処にもいなくなってしまった」
本当は、夫がリネットを見限ったのではないかと、ずっと思っていた。
『戦争に行って一旗揚げてくる』
もう契約もしてきたと言って、金貨の入った袋を差し出された夜。
戦争に行くのではなく、ただこの街からひとり出ていくのだろうと、リネットはぼんやり考えていた。
このお金も契約金ではなく、彼個人の所持金から出したお金で、いわゆる手切金というものなのだろうと思って、声が出せなくなった。
そうして翌朝、出て行く夫を見送りながら、きっと彼は帰ってくるつもりはないのだろうと思っていたのに。
なのに。
「まさか、本当に戦争に行っていたなんて」
しかも、たった半年足らずで命を落として、契約金だと渡されたお金より、少ない額の慰労金になって帰ってくるなんて。
捨てられた方が、ずっとマシだった。
夫の気持ちを信じられなかった自分が情けなくて苦しくて。
もう会えないなんて、信じたくなかった。
だからリネットは、新月の夜である今夜、この山を登ることに決めたのだ。
「あなたに逢えたら、謝りたい」
その一心でここまで来たのだ。諦めて帰るなんて、出来やしない。
それでも、頭から泥にまみれた今となっては、もう一歩たりとも動けない気がして、リネットはただ涙が溢れていくのに任せた。
泣きつかれて涙も枯れた頃だった。
「……水の、音?」
微かに、水の落ちる音が聞こえた気がして、耳を澄ませた。
本当に聴こえているのかすら分からないまま、音に導かれるように立ち上がり、リネットは、懸命に足を動かした。
ついに辿り着いたその滝は、月の光のない暗闇の中で、なぜか不思議な光を発していた。
ちいさな滝には不似合いな、大きな滝つぼを湛えている。
ぼんやり光る、その水場へ一歩一歩近づいた。
そうして畔に膝をついたリネットは、目をギュッと瞑って心を落ち着けると、覚悟を決めて滝つぼを覗き込んだ。
高鳴る胸を押さえ懸命に目を凝らす。
けれど、昏い夜の闇の中で薄ぼんやりと光を放つ不思議な水面には、何も映っていなかった。
どれだけそのまま、水面を覗き込んでいただろう。
リネットは、つめていた息を大きく吐き出した。
「噂は噂。そうよね、死んでる人と会える訳がないのよ」
強がれたのは、そこまでだった。
謝りたかったのは本当だ。けれど、ひと言でいいから、文句も言ってやりたかったのだ。
──なぜ、リネットをひとり置いていったのかと。
捨てるつもりではなかったのなら、何処へだって一緒に連れて行って欲しかった。
贅沢な暮らしがしたかったら、親の選んだ相手と素直に結婚していた。
うんと歳上で、すでにリネットより歳上の娘と息子がいるような相手であっても、贅沢だけはさせてくれたに違いない。
「何の為に、あなたの手を取ったと思っているの」
あなたと笑い合い、触れ合えるだけで良かったのに。
「あんな端金なんか要らなかったのに」
入隊の契約金も戦死慰労金も、平均的な庶民が何年も暮らしていけるだけの額ではある。
だが、裕福な育ちのリネットにとっては晴れ着が一着買える程度の物でしかない。
「私は、あなたと一緒に居たかったのに! なんでよ!」
思いの丈を咽喉も裂けよと叫ぶ。
「なんで! なんでなのよ!」
叫び疲れて頽れたリネットのすぐ前に、あの人の気配があった。
ゆっくり、ゆっくり。夜と朝の挟間。不安定な時の中で、心臓の音ばかりが騒めく。
間違いではありませんように。
気のせいではありませんようにと祈りながら、顔を上げて、愛しい人の名前を呼ぶ。
「ヨキ」
そこに立っているのは、たしかにリネットの愛する夫だった。
ただし、その瞳に輝きはない。横に広がる瞳孔も、今は虚無のような黒い洞のようなものがあるばかりだ。
……あぁ、この人は、本当に死んでしまっているのだ。
もう二度と、蕩けるように熱い視線でリネットを見つめることはない。
力なくだらりと垂れさがるばかりの腕では、リネットと混ざりあいたいと言って力いっぱい抱き締めてくれることもないだろう。
やわらかで滑らかで、押すと独特の感触のあるひんやりとした鱗を持った腕。いつまでも触っていたいと感じていた滑らかなそれも、今は艶もなく、ごわついて見えた。
胸がぎゅっと握り潰されるように、苦しかった。
この人と一緒に、生きていくという選択肢は未来永劫二度とないのだと思い知らされる。
それでも、彼は冥府の底から逢いに来てくれた。
リネットは、それだけで良かった。
滝つぼの中へと入っていき、愛しい人へ手を伸ばす。
「ヨキ。ヨキ。逢いたかった。ずっと逢いたかった!」
あと少しで、彼に手が届くと思ったその瞬間、ヨキの真っ黒な洞のような瞳と大きく開いた口の中が、真っ赤に光った。
それまでヨキであったモノが、びしゃりと動く汚泥と姿を変えて、リネットの差し出していた手や足を絡めとる。
「!」
気が付けば、リネットは、美しい湧き水を湛えた池ではなく、腐臭漂う汚泥が溜まった泥沼に腰まで浸かっていた。
それまで感じなかった腐臭が鼻を刺激する。
「いやああぁぁぁぁっ!!!!」
つい先ほどまでヨキであったモノは、魔物であった。
夜の山へ迷い込んだ者の記憶に残る人の幻覚を見せて誘いこみ、喰らう。
あの噂は、この魔物の手を逃れられた者の言葉が元になってできたのだろう。
勿論、襲われている最中のリネットにはそんなことは分からなかったが。
「だれか、誰か助けて!!!」
腕が汚泥の魔物に絡め取られて、リネットはそこから逃げることもできなくなった。
「ひぃっ」
汚泥そのもののような魔物は、どれだけリネットが力を込めて払いのけようとしても、まったく払うこともできない。払いのける手ごと、汚泥に捕まった。
魔物は足からも這いあがり、ずるりと一気に、リネットの細い腰を包み込んだ。
あの人が傍にいてくれたなら、何の憂いも何もなかったのに。
ずっと守ってくれると言った癖に。
なぜ今、あの人は私の傍にいないのか。
恨み言が心を埋め尽くしていく。
リネットは、自由の利かない身体を懸命に捩って抵抗を続けた。だが、それもそろそろ終わりかもしれない。
胸、肩、首と、汚泥が全身を包んでいく。
ついには顔すらその冷たく不快な感触に飲みこまれ、リネットは心の中で来てくれる筈のない、その人の名前を叫んだ。
──ヨキ! ヨキ、たすけて!
「俺の女に何をしている」
ゴッ!
リネットの叫びに呼応するように、突如現れた大きな力の塊が、それを弾き飛ばした。
汚泥の魔物から解放されたリネットは、その場に蹲りながらごほごほと噎せた。
息を整え、目を瞑る。
「大丈夫か」
リネットが間違える筈もない。それは、あの人の声だった。
「……ヨキ?」
「あぁ、俺だ。俺の女を、魔物の餌になどくれてやる訳にはいかないからな。戻って来た」
「ヨキ!!」
どこか皮肉気な笑い。それは確かにリネットが大好きな夫の笑い方だった。
「馬鹿だな、リネット。魔物の噂に惑わされるなんて、賢いお前らしくない」
「あなたがいけないのよ。私を置いて、遠い土地で死んでしまったりするからでしょう」
「それは……すまない」
触れようとリネットがこの場から動いた瞬間、彼が消えてしまいそうで。
怖くて動けないまま、リネットは懸命に会話を続けた。
助けてくれた最愛の夫は、こうして会話もできるのに、真っ暗な夜の闇が透けて見えていて、切なかった。
それは、彼はやはり死んでしまったのだとリネットを思い知らせるには十分すぎた。胸が痛む。声が喉の奥に貼りつく。
「あ、あのね、わたし。わたし、あなたが戦争で死んでしまったと連絡を受けてからずっと、私も死んでしまいたいと考えてた」
「リネット」
万感の思いを込めて、もう一度だけでいいから会いたいと願った愛しい人の顔を見上げる。
今リネットの前にいるヨキは、出会った頃の、護衛だった時の彼に見えた。
鉄製の軽鎧と皮で出来た靴とアームガード。腰には実用的な剣を下げている。
リネットが恋をした時のヨキがそこにいた。
「でも、さっき、あの魔物に飲みこまれそうになった時に、分かったの。私、助かりたかった。死にたくないって、思った。だから、あなたがいない世界で、頑張ってみるね。たくさんの土産話を持っていくから、あの世で待っていて」
どんなに愛し合う夫婦であっても、リネットとヨキは今、生者と死者だ。
ふたりの運命は分かたれたのだ。
リネットは、ヨキの魂に永遠の安らぎが訪れることを祈りつつ、これからの人生を生きていく。
そう決意を込めて見上げた愛しい人の瞳はまっすぐに、リネットを見ているようで、どこかぼんやりとして見えた。
何かの呪文を唱えるように、ちいさく早口でなにかを呟いているようだが、それが何かはリネットには聞き取れない。
「俺を、忘れて、ひとり生きるというのか。りねっと。おれを、わすれて。ひとりで。おれをおれをおまえりねっとおれりねっとおれおまえおれのりねっとおれのおんなりねっとりねっと」
「なに?」
突如として反応が鈍くなり返事をしなくなったヨキの様子に、リネットがその細い首を傾げる。
「具合でも悪い……あっ。もしかして、もう、時間が?」
思わず駆け寄ろうとしたリネットの足が、止まる。
ついに永遠の別れの時がやってくるのかと思うと、リネットは胸が熱くなった。
死してなお、黄泉の国から助けに来てくれた夫のことは一生忘れられないだろう。
いいや、忘れない。
きっと死ぬ寸前まで、愛してる。
「ヨキ、ありがとう。愛してる」
「俺もりねっと、オ前を、アイシテル」
「ヨキ!」
止めていた足を動かして、リネットが愛する夫に抱き着いた。
その、夫の瞳が、真っ黒に光った。
「他ノ誰にモ、オ前を渡サナイ。りねっとの夫は、未来永劫、おれ、ひとり」