魔女の子
柔らかな日差しの中カンナは寝返りをうつ。障子の向こう側で雀の鳴き声が聞こえ、カンナはパチッと目を開いた。既に明るい室内に寝坊をしたと、慌てて起き上がる。カンナは決して朝が苦手ということはない。いつもは日の出と共に起きていた。村を出る前からの習慣だ。それは旅に出てからも変わらない。慣れない旅に男所帯、カンナ自身も気が付かず疲れていたのだろう。そこに手入れの行き届いた布団となれば、朝を越してしまうもの仕方がない。
カンナは寝過ごしてしまったと恥じ入りながら身支度を済ませる。シヅキのくれた蝶の眼帯を姿見で調節しながら痣を隠すようにつける。雑魚寝が当たり前の安宿や、野宿とは違い、一人で眼帯をつける。初めてのこと。いつもはシヅキが痣をうまく隠してくれていた。何気に紐を結ぶことが難しい。上手く結べたつもりで紐が緩み、眼帯がずれる。事も無げに結んでいたシヅキに関心する。
漸く、納まった眼帯にカンナは安堵の息を吐く。このくらい一人でできなくは恥ずかしい。この旅もいつまで続くのかわからないし、ずっとシヅキに着けてもらうわけにはいかない。フジの本殿へ向かうとウリュウに言われただけで、旅の目的も、カンナのこれからだってわからない。何も聞いていない。
この蝶の痣のせいで両親には苦労を掛けた。少しでも両親の負担を減らせるならば、カンナはなんでも構わなかった。痣が消えない限り、カンナが生きやすくなることはないと思っているからだ。
「……起きたか」
障子を開ければ、タツキが座禅を組み、不機嫌そうに声を掛けてきた。寝坊をした申し訳なさにカンナは小さな声で謝る。タツキのこめかみがピクリと動き、立ち上がる。その機嫌の悪そうな様子にカンナは肩を縮こまる。それが余計にタツキの気に障るとは思ってもいない。
「あのなっ! ……あー、オレのせいか」
タツキはカンナから視線をずらしてもう一度、カンナへ視線を戻す。
「怖がらせてすまない」
真っ直ぐな彼の視線にカンナは首を横に振る。咄嗟になんと答えていいのかわからなかった。勝手にタツキを怖がっていただけのこと。謝らせようとなんて思ってもいない。
じっとタツキに見つめられ、居住まいの悪さにカンナは俯いた。
「そのうっとしい前髪どうにかしろよ」
吐き捨てるように言い、タツキは歩き出す。カンナは心臓がバクバクとしていた。眼帯がずれてしまったのかと思った。蝶の痣が露見してはシヅキ達にだって迷惑を掛けてしまうかもしれない。もうすでに迷惑を掛けているだろうが、それは避けたいことだった。
「なにしてる? 早く来い!」
タツキの大きな声にカンナの肩が跳ね、慌てて彼を追いかけた。
村の外はカンナに色々なものを見せてくれた。市での人の多さに驚き、昨日泊まったこのショウジ大社の隅々と手の行き届きいた部屋は心地がいい。旅の疲れを癒すからと案内された風呂の大きさに度肝を抜かし、質素ながらも質の良い食事は美味しかった。
だから余計に蝶の痣が気になってしまうのだ。自分のような卑しい者が受けるような歓待じゃないと。
「カンナさん、よく眠れましたか」
ショウジ大社の宮司マツヨシは柔和な顔した老いた尼僧だ。彼女から向けられる慈悲深い笑顔にもカンナは恐縮しっぱなしだ。ただの村娘ならばショウジ大社の宮司と向かい合うことも、ましてや姿を見かけることすら適わない存在だ。ショウジ大社と名前は知っていても、宮司までは知らない。旅の目的地がフジの本殿だと聞いた時以上にこの身に起きていることが夢ではないかと、勘ぐってしまう。
「タツキから話は聞きました。貴方自身も辛い思いをしているというのに、苦しんでいる人々に寄り添いたいなんて、なかなか出来るものではありません」
タツキには治癒の力があると話をした。見られてしまったのだ。誤魔化すよりは話した方がいいとウリュウは判断した。だけど、相手が神官だからと全てを話さす必要はないと、ウリュウはカンナの顔の痣が蝶の形をしているとは言わなかった。顔に痣がある。それだけで何かを察し、聞くことはなかった。年頃の娘の顔に痣があればそれだけで生きずらい。そんな世の中だ。
治癒の力にしたってそうだ。カンナの望むままに治癒の力を使えるならば、カンナが村を出る必要はなかったかもしれない。タツキに話をする間、カンナはずっと俯いていた。自分のことだというのに、怖がって顔を上げられなかった。
タツキを怖がってではない。あの老人を助けるために力を使った。それ自体は助かってよかったと、思っている。だが、その結果、タツキに見られた。隠さなくてはいけないと、父に言い含められていたこと。ウリュウには力を持つことがどういうことか、脅されていたというのに。軽率だったと言われればそれまでだ。
内緒にして欲しいと最後に付け加えられた言葉にタツキの返事は曖昧だった。
「カンナさんはどちらの神社に入られるのですか?」
神社に入る。それは現世を離れ、神官または巫女になるということだ。返答にまごつくカンナを横目にウリュウが答えた。
「彼女はまだ何も決めていません。巫女になる予定も今はありません」
神官や巫女になればカンナの生きづらさが解消されるという保証はない。治癒の力を奇跡だと喜んでくれるだろうが、それだけ。治癒の力をカンナの自由に使えればまだいいが、権力者に飼われる可能性もある。自由の制限される神官や巫女になってしまえばそんな権力者から逃げる術など無くなってしまう。今のように隠してはいられない。
「ウリュウ様、黒死蝶の方はどうなっているのかしら?」
それこそ、カンナと二人が出会う前からある旅の理由だ。このところ黒死蝶の発生が頻発していた。ただの蝶だと無視するには気持ちが悪い黒死蝶。しかも、群れで目撃されることが多い。荷馬車が横転することになった黒死蝶も一羽だけだったわけじゃない。数羽が群れていたがために、人々は手を差し伸べることを躊躇ったのだ。それに、カンナの家に発生した大群などは今までに聞いたことのない例だ。
役所に黒死蝶が群れていると駆け込んでも、対処出来る者はいない。あの黒死蝶を打ち払うことが出来るのは、神霊と契約を交わした神官だけ。奇跡の力といわれる魔法でなくては出来なかった。いつものお勤めに黒死蝶への対応。神社も人手不足に喘ぐことになろうとは思いもしなかったものだ。
「まだ何も」
ウリュウの答えはそれだけ。ショウジ大社も黒死蝶のせいで人手が足りなく困ることが増えている。さっさと問題を解決しろとせっついているのだ。それはカンナにはわからない、カンナとは別の話だと、聞き流していた。目の前にいるマツヨシという大物に緊張し慄き、心ここにあらずだ。
どのくらいの時間をカンナは緊張して過ごしていたのか、足が痺れたと訴えることも出来ずに、居住まいを正すことなくじっとしていた。
「カンナ?」
気遣わし気な顔で覗き込むシヅキの顔にカンナは小さく息を飲む。距離が近いのだ。そこまでの距離に気が付かなかったカンナもカンナだが、シヅキの距離の近さは人慣れないカンナには近すぎる。
「大丈夫?」
何を聞かれているのかわからない。神官たちの難しい話についていけず、ボーとしていた自覚はあった。が、それだけだ。心配されるようなものはなにもないと思っていた。
「ああ、本当に。顔が真っ青じゃないか」
顔が青いと言われても実感がない。ただ、思考か定まらなかった。聞かれたことを答えようと考えては頭の中が霞む。考える、それだけのことが妙にゆっくりとしていた。周囲がやたらと早い。いつもと変わらないはずなのに、自分だけがゆっくりともたつき、事が進んでいく。
「カンナ!」
シヅキのカンナを呼ぶ声に返事をしようとして、ぐらりと揺れる体を支えるだけで精一杯だった。
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燃える炎の中で対峙した彼は苦々しく顔を歪めていた。これからのことを思えばそんな顔になるのも仕方がないのかもしれない。あともう一歩でこの天下は彼のものだ。そうなるはずだった。そうなると、信じて疑ってはいない。彼女の前に立つ彼は戦時にいつも着るような重厚な鎧姿ではなかった。普段と変わらない軽装の彼は酷く疲れた顔だ。かたや彼女は静かに穏やかな表情。
この違いはなんだろうか。
白梅の打掛が肩から滑る。姫にしては珍しく、彼女はいつも袴を穿いていた。戦乙女なんて彼女を馬鹿にしたような異名もあった。それだけ彼女が戦場に立っていたということ。
「これは、貴方がしたの?」
寂しそうな彼女の問いに彼は沈黙を返す。それを彼女は肯定と受け取ったのだろう。静かに目を伏せた。
「もうすぐ、もう天下は貴方のものだというのに」
彼女は抱えていた『揚羽の舞』を鞘ごと彼に差し出した。それを受け取った彼は何も言わずに鞘から引き抜いた。炎の赤を刀身に映す『揚羽の舞』は美しい。凛と佇む彼女そのもののようだ。
「どうして? 私は貴方と一緒に幸せになりたかった」
彼は『揚羽の舞』を何の躊躇いもなく彼女に向けた。いや、そう見えたのは一瞬のこと。彼の瞳は迷いに迷っていた。彼は全てを知っていたからだ。彼女の異名も悪名も全て彼のためだった。昔から今もずっと彼を思う彼女の気持ちを。
「それは俺も同じだ。だけど、他人の不幸の上に立つ幸せなんていらない」
彼の本心だ。彼女とずっと過ごしてきた年月は計り知れない。何度も繰り返されてきた悲劇を繰り返すのはもうたくさんなはずだ。
「ずっと、その他人に踏みにじられてきたのに?」
それと、彼女が魔女と悪名を付けられることは別だ。他人の不幸、その中には彼女も含まれている。これでは彼女は不幸を背負うようなもの。
「ああ、前世の恨みを今生に持ち越したくなかった」
怨みなんて悲しい感情を彼は嫌っていた。それに彼女気が付けなかった。
「優しい人」
『揚羽の舞』が彼女の胸に突き刺さる。苦しそうに歪んだ顔は彼を安心させようと微笑みを作った。それに応えるように彼も笑う。笑っているはずなのに、彼の瞳から涙が止まらない。今生の終わりをこんな風に望んだわけじゃない。いつだって彼女との幸せを願っていた。
「来世では必ず……っ!」
彼の背中に刀を突き刺す者がいた。自ら大切な女を刺した彼が、彼女を抱きしめているその背中を。まだ息のあった彼女の戸惑う息が漏れる。二人の零した血から黒い蝶が舞い上がる。
これで天下は我が物と喜ぶ声はすぐさま凄惨な悲鳴へと変わった。