7.イベント(後半)
「わたくしよりもロゼッタ子爵令嬢の方がヴィクトル殿下には相応しいそうですので、アレをお試し頂いてみてはいかがですか?」
「…その間、君は?」
「もちろん、お暇をいただきますわ」
ルディローザがにっこりと笑うと、ヴィクトルは大袈裟に溜息をついた。お暇という響きだけでもウットリしてしまうルディローザは、どれをやろうかと妄想を始める。
「酷い! 私に分からないように話をするなんて…! ルディローザ様はいつもそうやって!」
「必要ない。婚約破棄などするわけがないからな」
「え…っ、どういうことですか!?」
言葉を遮って言い切ったヴィクトルに、マリアンナは驚愕の表情を浮かべた。ルディローザは舌打ちしたい衝動を必死に抑えていた。純粋に休みは欲しかった。
そんなルディローザに気付いているヴィクトルは、輝かんばかりの笑顔を彼女に向けた。その余波を受けて倒れる令嬢が数名、視界の端に映った。
「私は君以外を妃に迎え入れるつもりはないよ」
「視野は広い方がよろしいですわよ、ヴィクトル殿下」
「君を繋ぎ留めるだけで精一杯だよ、ルディ」
「お戯れを」
「動くな」
次の瞬間、護衛騎士であるジェルバートが剣を抜き、マリアンナの喉元に剣先を向け、食堂にいた全員が息を呑んだ。
彼女の右手には大ぶりのハートのペンダントが握られている。
「な、なんなのよ! ヴィー様、助け…ひっ!」
「動くなと言ったはずだ」
剣先が僅かに揺れたかと思えば、マリアンナのペンダントチェーンだけが器用に切れていた。次に剣先を向けられたラムリエ商会のウィロビーは、腰が抜けたのかどさりと尻餅をついたまま動かない。カタカタと震えるマリアンナに近付いたのは、ルディローザの兄グレアランだ。すっと彼女からペンダントを取り上げ、慎重に袋に仕舞った。
「無事確保しました」
「みな、騒がせて済まない。詳しい話は追って伝えるが、簡潔に言うとロゼッタ子爵令嬢が持っていたこのペンダントの中には、人を惑わせる劇薬が入っている。何か知っていることがあるものは教員にすぐに伝えるように」
食堂の入り口から近衛隊が入ってくる。それに加え、いつの間にか入ってきた学園長が「午後の授業はなしだ。速やかに帰るように!」と告げると、途端にざわざわと騒がしくなった。
セリーナとエマと共に帰ろうとしたルディローザを、ヴィクトルは笑顔で制した。
「ルディ、君にはまだ残ってもらうよ」
「折角のお休みは有効活用したいのですが」
「私と一緒でも?」
「時間は有限ですから」
腰に手を添えられ、ぐっと引き寄せられる。物理的にも逃がさないつもりのようだ。
近い。ヴィクトルが人前でこんなことをしたのは初めてだったため、ルディローザは珍しく驚きを顔に出してしまった。
そんな彼女をマリアンナは恐ろしい顔で睨みつける。
「何でよ! もう少しでヴィー様は私のものだったのに!!」
「愛称で呼ぶことを許した覚えはない。はっきり言って不愉快だ。それに私やジェルバード、グレアランは最初から君たちの罪を明らかにする為に近付くよう仕向けたんだ。決して君の魅力云々じゃない」
「そんな…嘘、嘘よ!!」
「俺は関係ない! この女に操られてただけだ!!」
「そうだ! いくら殿下でも、アイルド侯爵家が黙ってないぞ…!」
近衛隊が3人を縛り上げている最中も、口々に喚く。
マリアンナはもう、何十枚も被っていたであろう猫は全て脱いだようだ。貴族のかけらも感じられない。元からほとんど感じられなかったが。
「ところで、アレって何だ? お試しがどうとかって言ってた」
「アレというのは、御妃教育のことですわ。お兄様」
「はぁ?意味分かんない! 馬鹿にしてんの!? どうして私がそんなもの…!」
マリアンナの言葉に、今度はルディローザが絶対零度の微笑みを浮かべた。
それを見たトーマスとウィロビーは「ひっ」と声を漏らす。
「馬鹿にする? それは貴女たちの方じゃありません?」
「はあ!?」
「よろしいですか?」
ずいと前に出ようとしたルディローザだったが、ヴィクトルにまだ抱き寄せられたまま離してくれなかったため、仕方なく顔だけ彼女に近付けた。
「そもそもなぜ御妃教育も受けずに、簡単にヴィクトル殿下の婚約者になれるとお思いなのかしら。しかも皆、揃いも揃って『婚約破棄されろ』など笑止千万。そんなことも分からないような可愛らしいオツムじゃ到底無理だと分からないのかしら。本当にヴィクトル殿下を慕っているのなら、私の方が所作も教養も完璧に出来るから御妃教育代われくらい言えばいいものを。それでしたらいつでも代わって差し上げるのに。それとも御妃教育なんて造作もないくらいにお思いなの? 四六時中、一挙手一投足厳しくチェックされて、小指を曲げる角度ですら注意されてみればいいのよ」
「おい、ルディローザ…その辺で…」
「あら、お兄様。まだまだ言い足りませんわ」
「ちょっと…皆って何よ!」
「皆は皆ですわ。ロゼッタ子爵令嬢でそうね…ちょうど20人目かしら」
「はあ!?」
人の血を吐くような努力を何だと思っている。自分の時間も少なく、常に御妃教育という名の監視に指導、嫌がらせだってあった。
何度、逃げ出したいと思ったことか。何度、代われるのならさっさと代わってくれと思ったか。
それなのに、何も知らない令嬢たちは、簡単に自分こそ婚約者に相応しいと宣う。
だから毎回、ヴィクトル殿下にお願いするのだ。
『そこまで言うなら彼女にも御妃教育を受けさせてあげて』と。
結局誰もひと月と持たなかったが。
「皆様、最初はきちんと受けて下さるのですよ?貴女のようにそんなものと仰った方は初めてですわ」
「だって…私はヒロインで…」
「ヒロイン? 喜劇のヒロインだか何だか知りませんけど、そんなもの第一王子の婚約者になることと何の関係もありませんわ」
「違うわよ! 私はこのゲームのヒロインなのよ!! そんなもの、ゲームのシナリオになかったわ!」
それを聞いたルディローザは、マリアンナへの興味を失った。
これ以上話したところで、彼女は絶対に御妃教育を代わってくれることはないのだ。
ヴィクトルに許可を取って席に着き、ポケットに忍ばせていたミニ辞典を取り出すと、栞を挟んだページを開く。
「お前というやつは…!」
「隙間時間の有効活用ですわ」
「ちょっと! 私を無視するな!!」
ルディローザの手にあるのは古代ブルエーム語辞典だ。
彼女は自他ともに認める語学狂だ。現在完璧に使いこなせる言語は10種類以上。日常会話程度を入れれば20種類を優に超える。
厳しくて辛い御妃教育を逃げ出さなかったのも、ひとえにマニアックな外国語でも好きなだけ学べるからだった。
休みが貰えれば、好きなだけ外国語の海に溺れようと思っていたのに。
まだ喚き続けるマリアンナの声は、ひとかけらもルディローザの耳には届いていなかった。
「ふふ、また語学の世界に入り浸ってしまったようだ」
「こんな妹ですみません、殿下」
「そこが彼女の魅力だろう? さて、ロゼッタ子爵令嬢。ゲームとはどういうことか、答えてもらおう」
ルディローザが顔を上げた頃には全て終わっていたようで、マリアンナもトーマスもウィロビーもいなかった。兄グレアランだけが溜息をつき、ヴィクトルはルディローザに手を差し出し、立つように促した。
帰り道、馬車に揺られながら事の顛末を聞く。
マリアンナは前世の記憶を持ち、この世界は前世のゲームの中で、自分はそのヒロインだったという。偶然ラムリエ商会で買ったペンダントを身に着けたところ、ウィロビー、トーマスと攻略できたらしい。次はヴィクトル、グレアラン、ジェルバートを攻略しようと思っていたのに、なかなかイベントが始まらない。悪役令嬢のルディローザも何も仕掛けてこない。だから無理矢理こんな騒ぎを起こしたのだそうだ。
一方ヴィクトルたちは、一度マリアンナが話しかけてきた時に起こった自分たちの変化に疑問を持ち、内密に調べる為に彼女たちに近付いたそうだ。そしてラムリエ商会が闇組織と繋がっている疑いが浮上し、その証拠集めに奔走していたらしい。証拠は既に揃っていたらしく、この週末にでも査問委員会が開かれる予定だったという。
「そうだったのですね。お疲れ様でございました」
「思うことはそれだけかい?」
「ええ」
ルディローザはさしたる興味も湧かないまま話を聞き終えた。だから疑問点があろうがどうでもよかった。どうせまた今日も変わらない1日を過ごすだけなのだから。
「俺は、今回のことで色々と思うことがあったよ」
「まぁ。そうでしたか」
ヴィクトルが一人称を変える時は決まってプライベートの話の時のみだ。それなのに彼は、貼り付けた王子スマイルをより輝かせ、王子様そのものの動きで横に座るルディローザの手を取った。
その上馬車内の温度が一気に下がったのはなぜなのか。
向かいに座るグレアランとジェルバードが視線を逸らしたのはなぜなのか。
「一番は、君に俺の気持ちが少しも届いてなかったことだよ。ルディ」
「何のことでしょう」
「これまでは君たってのお願いだったから聞いていたけれど、この際だからもう一度はっきり言っておこう。俺は、ルディ以外を妃に迎え入れるつもりは決してないから」
そもそもヴィクトルは分かっていて、その他の令嬢にも御妃教育を受けさせたのだ。
どうせ辞めていく。辞めた後は、お茶会でどれだけ大変かを勝手に語ってくれる。そうすれば、ルディローザがどれだけ第一王子の婚約者に向いているのか、勝手に広めてくれることになると。
事実、それはルディローザの評価を高め、今ではルディローザを褒め称える信者のような者までいる。
どんどん近付いてくるヴィクトルの顔に、危機を感じたルディローザはじりじりと後ろにさがっていく。いくら王家の馬車といっても、さほど逃げられるはずもなくすぐに壁に追い詰められた。それでもなおヴィクトルは近付いてくる。
「ヴィ、ヴィクトル殿下?」
「エスコートやダンス以外では触れないようにと我慢してきたけど、もうそれも止めることにしよう。俺がどれほどルディを愛しているか、これからは言葉でも態度でも分かってもらわないとね」
「ちちち近いです! ヴィクトル殿下!」
「ヴィーと呼んでくれるまで止めないから」
壁に手をついてルディローザの逃げ道を完全になくし、とうとう額までくっつけてきた。ルディローザは慌てて兄と護衛騎士の名前を呼ぶが、2人からの返事はない。
ルディローザの鼻にヴィクトルのそれが付けられた時、彼女は御妃教育なんて忘却の彼方へと飛んで行った。
「ヴィー様!! お呼びしましたからもう…!」
「この状況で俺以外の男の名前を呼ぶなんて、お仕置きが必要かな?」
鼻先にキスが落とされる。ルディローザは叫び声をあげそうになるのをどうにか堪えた。顔をこれでもかと真っ赤にした彼女を見て、ヴィクトルは満足そうに笑った。それはもう、愛おしそうな目で。
「そこまで驚かれるのも心外だな。本当に伝わってなかったみたいだね?」
「ど、どうしてって…そう、そうですわ、あの3人が申してましたもの。ヴィクトル殿下が婚約破棄を肯定していたと…!」
「ああ、そんなこと」
壁についた手とは反対の手で、ルディローザの頬を優しく撫でる。ルディローザは固まり、ヴィクトルにされるがままだ。
「破棄してはどうかと聞かれたから微笑んだだけだよ。向こうが勝手に勘違いしたようだね」
その場にいた全員がわざとだと気付いたが、指摘できる者はいない。
ルディローザは思った。
マリアンナのいうゲームの方が良かったかもしれない。御妃教育を「そんなもの」扱いしたような世界なら、こんなことにはならなかったのではないか。
一体どんな国か知らないが――…
「…ヴィクトル殿下。そういえば、ロゼッタ子爵令嬢は前世の国名は話しましたか?」
「ああ。確かニホンと言っていたな。」
「ニホン…聞いたこともない国の名前…」
ルディローザの瞳が急にキラキラとしたものに変わった。それを見たヴィクトルが笑顔のままこめかみに血管を浮かばせようが、残りの2人が震えようが気付かない。
「あぁ…どんな言語の国なのかしら…。で、殿下、ヴィクトル殿下! 何を…!」
「ヴィーだと言ったよね? 体で覚えてもらうしかないね」
「ひゃあ!」
唇以外へのキスと愛撫の雨嵐が降ってくる。鼻に、頬に、耳に、髪に、わざとリップ音を響かせながら。ルディローザは王子相手に抵抗などできる訳もなく、息も絶え絶えに終わるのを待った。羞恥で心臓が物凄い速さで鐘を打つ。
漸く満足したのか、恐ろしく艶やかな笑顔をルディローザに向け、はっきりと言った。
「…ルディ。俺はもう手加減しないから、覚悟してね」