5.学園
ルディローザは15歳になり、貴族の子息令嬢の通うスチュアート学園に通うようになった。
3年間この学園に通うことは貴族の子息令嬢の義務である。学園での授業内容は、国学や文化芸術、外国語や礼儀作法など、多くの貴族が家で家庭教師から学んでいるであろうものばかり。ここに通う1番の理由は、社交界の練習の為だ。婚約者の決まっていない者にとっては出会いの場でもある。
また下級貴族にとってはチャンスでもある。ここでの成績が良いと、卒業後に宮廷から声がかかったり、王族や大臣などの側近に抜擢されるような、出世の道が開ける可能性があるからだ。
コルセットもない、過剰な宝飾もない落ち着いた制服は、ルディローザのお気に入りだった。紺色の上質な生地に、胸元には金色の刺繍で学園の紋章が入っている。
学力分けされたクラスでは、昔からの友人であるセリーナ侯爵令嬢やエマ伯爵令嬢も同じ一番上のAクラスだったため、あることを除けばとても楽しい学園生活を送れている。
1つ歳上のヴィクトルとは教室の階が違うため、ほとんど会うことはない。入学式の時にエスコートしてもらったくらいだ。ただ、恒例である月2回のお茶会はあるし、2週に1回は手紙まで届く。あまり会わないとはいえ同じ王宮に住んでいるのに、とヴィクトルの筆まめ具合に驚いた。
入学して早3ヶ月。恒例のヴィクトルとのお茶会では、最近は学園の話だったが今日は違った。
「まあ。パルガーロン国の王女であるエミリア様が、お試し御妃教育を」
「そうなんだ。既に婚約者のいる王族に婚約を希望するなんて国交にも関わるから、表向きは国外の無謀な公爵令嬢ということにしてあるけどね」
「それで、どれだったのですか?」
「ルディはどれだと?」
ルディローザは小さく首を傾げて考える。
どれ、とは何の授業がきっかけで辞めたのかということだ。5人目くらいからはこのように理由当てゲームと化している。ほとんどがマグラス夫人の礼儀作法だが。
1週間ほど前に、確かに国外の公爵令嬢がお試し御妃教育を受けたいと突然乗り込んできたとは聞いたが、まさかそれが王女だとは思わなかった。パルガーロン国との外交で、ルディローザはエミリア王女を含む王族と何度も会ったことがある。あの国は赤髪黒目が王族の証であり、また揃いも揃って美形でもあったのでよく覚えている。そういえば2週間前にも外交で会ったが、彼女の兄セイロンも一緒だったはずだ。
「王族でしたら礼儀作法でもないでしょうし…国学でしょうか?」
「ふふ、それがね、外国語だったんだ」
「まあ。ですがエミリア様は3ヵ国語が話せたと記憶しておりますが」
「正確には国学、外国語と受けて、彼女のセイロンに説得されて渋々ね。俺に興味がある訳でもなかったし」
いつの間にか、ヴィクトルはお茶会の時には決まって一人称が「俺」になり、口調もかなりラフなものに変わっていた。それに気付いてから、ルディローザも肩肘張らずに会話ができるようになり、今ではとても気楽な時間を過ごせている。お互いにとって良きパートナーでいたいと思うし、実際にそういう関係でいられているとルディローザは思っている。
「とうとう国外からまで…次、アレが行われる時は、是非お暇を下さいませ」
「何か理由でも?」
「いいえ、特には。ただ、わたくしにもお試しお暇があっても良いんではないかと…。それはさておき、エミリア様は何がしたかったのでしょう?」
「さあね…ところでルディ。絶対にないと言い切れるけど、万が一、俺が婚約破棄をしたらどうする? パルガーロン国に呼ばれたら行く?」
こんな例え話をするなんて珍しい、と思いながらもルディローザは考える。パルガーロン国も悪くないけれど、他の国も捨てがたい。
「そうですね、傷心旅行とかこつけて、複数国に留学するのも良いですね。パルガーロン国だけでなく」
「かこつけて…口実程度なのか、俺は…」
「何かおっしゃいましたか?」
「いや? ルディらしいなって。そうだ。そんなことより、変な女子生徒に絡まれてるって聞いたけど、大丈夫かい?」
変な女子生徒と言われれば1人しか思い浮かばない。名前も最近知ったばかりの、クラスも違う同級生のことだろう。
マリアンナ・ロゼッタ子爵令嬢。
薄桃色の真っ直ぐな髪を腰まで伸ばし、同じ色のぱっちりと大きな瞳。形の良い小ぶりの鼻とぷっくりとした唇は彼女の可憐さをより強調している。小柄な身長により上目遣いになる視線と仕草は、同性から見ても可愛いと思う。
ルディローザはこの学園に入学してからというもの、この庇護欲の塊のような彼女に何かと絡まれ、目の前でなぜか泣かれて走り去るという、至極迷惑な寸劇を繰り返されてきた。
いつも遠くの方で「あ! いた!」と叫ぶや否や、令嬢とは思えぬ速さで走り寄り、じっとルディローザを見つめて“何かを”待っている。そしてルディローザが何も言わない、何もしないでいると、ただ「酷い! ルディローザ様!」もしくは「ごめんなさい! そんなつもりじゃ…!」と言って去っていく。
だが特段実害はない。常に友人と一緒だし、影の護衛がいるのも知っている。最近は他のクラスメイトの前でもこの不思議な寸劇を披露するものだから、一部のクラスメイトでは賭け事にしているらしい。今日は台詞Aの「酷い!」か、台詞Bの「ごめんなさい!」か、と。
名前を知ったのは、先日あるクラスメイトの家で開かれたお茶会でのことだった。
この国で3番目に大きいラムリエ商会の次男が婚約破棄をしたらしい、という話題でだった。それだけでは大した噂にはならないが、その原因でもある令嬢がアイルド侯爵子息とも懇意にしているということで、結構な噂になっていた。三男とはいえアイルド侯爵家の子息であり、両名とも見目麗しい容姿であることから人気があるようだった。そのアイルド侯爵子息までも婚約破棄を匂わせているということで、余計に話題になっている。
「そのご令嬢というのが、あのAB役者…ではなく、ルディローザ様に寸劇を披露するマリアンナ・ロゼッタ子爵令嬢みたいなのです」
「まあ」
ルディローザの感嘆は、彼女の名前を知ったからだけではない。彼女がクラスメイトの間では、AB役者と呼ばれていることに対する反応でもあった。
噴き出さなかった自分を褒めてやりたい、とルディローザは思った。
「ルディ?」
「すみません、思い出しておりました。絡まれるといっても特に問題はございません」
「それならいいんだ。何かあったら俺に相談して。ね?」
「はい」
優しく笑うヴィクトルに微笑み返す。何かあったら影の者がすぐに王家に報告するだろうとは思ったが。
噂のアイルド侯爵子息が正式に婚約破棄をしたのが、それからちょうど3ヶ月後のことだった。
近くで見ていた者がいるらしく、かなり詳細な噂が広まっていた。
「トーマス・アイルド卿が、マリアンナ・ロゼッタ子爵令嬢を抱き寄せながら婚約破棄をなさったそうですわよ」
「しかもマリアンナ・ロゼッタ子爵令嬢が『貴女にトムは相応しくないです!』とおっしゃったとか…」
「まあ。婚約者がいるご子息を愛称で呼んでいるのですか?またそれを許していたと?」
「ええ、そのようですわ」
友人のセリーナとエマの話を聞いて、ルディローザは驚いた。
家族や婚約者以外で愛称呼びを許すなんて、浮気と捉えられても可笑しくない。しかもそれが原因で婚約破棄されるならまだしも、破棄した方だとは。
破棄された伯爵令嬢の怒りは凄まじく、その場で破棄を承諾し、アイルド侯爵家に高額な慰謝料を請求したと聞くが、それは当然の権利だろうと伯爵令嬢への同情の声の方が大きかった。
そしてそれから4ヶ月後、ラムリエ商会の次男とトーマス・アイルド侯爵子息だけではなく、ヴィクトル殿下、ルディローザの兄で側近のグレアラン、殿下の護衛騎士ジェルバートが一緒にいるという噂が流れた。しかもヴィクトルを含める全員が、彼女に御執心なのだという。
特に、お試し御妃教育を辞めていった一部の令嬢たちが、聞いてもいないのに事細かに教えてくれるのだ。やれどのように見つめ合っていただとか、やれどこで優しく微笑みかけていたとか。
彼女たちは気付いているのだろうか。自分たちの時にも似たようなことを言っていたことに。
「殿下は私だけを見つめてくれている」とか「殿下は私には特別優しい」とか。
当のヴィクトル本人はというと、恒例のお茶会でも、未だに定期的に届く手紙でも、特に変わったこともなければ彼女の名前が出たこともない。だからルディローザも特に気にも留めていなかった。
本当にそういったことがあれば、ヴィクトルが御妃教育を受けさせるだろうと。
「殿下が心変わりなさらないよう、わたくしも祈っておりますわ」
意地悪く笑いながら言うのはアニータ・バルモンド侯爵令嬢だ。最初にお試し御妃教育を受けて逃げた1人。彼女を取り巻く友人たちも、同じく辞退した人ばかり。
ルディローザは優雅に微笑んでから、わざと一呼吸おいてから口を開いた。
「わたくしは、ヴィクトル殿下を信じておりますので」
ほう、と聞こえる溜息。こうやって突っかかってくる一部以外は、ほとんどがルディローザをヴィクトルの婚約者として認めている。
ルディローザ以外に相応しい者はいないと信者のように称える者までいる。驚くことに、その筆頭がクリスティーナ・ブライバル公爵令嬢とシャーリー・テルドン伯爵令嬢という、最初に婚約者候補に選ばれた2人だった。中にはお試し御妃教育を受け、その後ルディローザ信者に転向した令嬢も多数いる。
厳しい教育と、それを乗り越えた自負、そして培われた経験が、彼女の気品をより高めている。第一王子の婚約者として恥じないよう、淑女の鑑として立ち振る舞う彼女に憧れる者は多いのだ。
毎日のように教えられる6人の噂。それが徐々にルディローザに敵意を見せる者以外から聞こえるようになっても、彼女は気にしなかった。
それが初めて揺らいだのは、もうすぐ初学年が終わるというある日のことだった。
王宮であてがわれている部屋に、珍しく父が訪ねてきた。
「調子はどうだい? ルディ」
「それが最近古代ブルエーム語を学んでいるのですが、なかなか難しくて遣り甲斐があります」
「ああ、そっち…」
苦笑いする父は、改めて婚約者としての調子はどうだと聞いてきた。
そこで漸くルディローザは思い出した。
そういえば、まだ手紙が来ていない。前回来たのは先月末だから、いつもならもうとっくに届いているはずだ。けれど父には、特に問題ないとだけ答えた。ヴィクトルも学園に執務にと忙しいはずだ。
「そうか、それならいいんだ。ちょうど殿下に執務のサインを貰いに行った時に言伝を預かってね。明日のお茶会、キャンセルしてほしいと。とても残念そうだったよ」
ルディローザの心が小さく波立つ。小さな小さな波紋が少しずつ広がっていくように、じわじわと動揺に変わっていった。
そしてその翌週、事件は起こった。