3.御妃教育
初めての“婚約破棄されろ”宣言は、その王妃主催のお茶会が終わった夕方のことだった。
アクアティア侯爵家はルディローザの為にぎりぎりまで王都のタウンハウスにいる予定であり、そのためにルディローザもまだ毎日家から王宮に通っていた。
御妃教育がなかったため、いつもより早い帰宅だった。うちでは見たことがない、ド派手な馬車が停まっている。馬車から降りると、困った顔の執事に来客を教えられた。
「やっと帰ってきたのね!」
サロンに入った瞬間、甲高い声に出迎えられる。
真っ赤なドレスに真っ赤な口紅。過剰に装飾された宝石類。アニータ・バルモンド侯爵令嬢。12歳にしてはっきりした美人の顔立ちで、彼女が歩けば振り返る男性も多い。婚約者候補選びの控室で使用人に詰め寄っていた1人だ。
「ごきげんよう、アニータ様」
「ヴィクトル殿下の婚約者になった割には相変わらず地味ね」
「先触れもない程の急用とお見受けしますが、ご用件は?」
「ちょっと婚約者に選ばれたからって、何なのその言い方!」
御妃教育凄い。
こんなにきゃんきゃん怒鳴られても何も感じない。マグラス夫人と比べたら、なんと可愛らしいことか。心の底から凪いた気持ちのまま、微笑み続ける。
「ともかく!わたくしにヴィクトル殿下を譲りなさい。わたくしの方が貴女より相応しいわ」
「わたくしに仰られても、何のお力にもなれません」
「どうやって取り入ったか知らないけど、貴女みたいな地味女よりわたくしのような美人の方が、ヴィクトル殿下だっていいに決まっているじゃない!さっさと婚約破棄されればいいのよ」
取り入った訳ではない。ただ消去法のように残っただけだ。
そう言っても聞き入れるような令嬢ではなかった。延々と代われと喚いている。
「わたくしの方が貴女よりも全て上なのよ?美貌もスタイルも、貴族としての経験だって。ちょっとしかお披露目させてもらえないような出来損ないの貴女とは違うの!」
「…つまり、アニータ様も御妃教育を受けたいということですね?」
「は?」
「ヴィクトル殿下の婚約者になりたいということは、御妃教育を受ける必要があるのはもちろんご存知ですよね。ですから、アニータ様もお受けになりたいと仰っておられるのですよね」
アニータは花を咲かせたように笑った。それを見て、ルディローザも深く微笑む。
「では、ヴィクトル殿下にそのようにお伝えいたしましょう」
「言ったわよ!約束だからね!それで貴女が婚約破棄されても怒らないでちょうだい」
「もちろんですわ」
アニータはスキップしそうな勢いで帰っていった。ルディローザは本当にヴィクトルに手紙を書き、それは夜のうちに届けられた。
ルディローザは深呼吸ひとつで切り替え、いつも開くビエズネ語の本ではなく、礼儀作法の本を最初から読みだした。
「どういうことだい?」
王宮に着くと、教育担当責任者のマークと一緒にヴィクトルがいた。しかも見るからに不機嫌な様子だ。
「丸投げのようになってしまい、申し訳ありません。ですが、わたくしに権限はないとお伝えしても納得していただけなかったのです」
「それで、君の考えは?」
「ご負担だとは思いますが、受けさせて差し上げればよろしいかと。わたくしより優れたご令嬢だとなれば、王家にとっても良いことではありませんか」
ヴィクトルは眉間の皺を深くして考え込む様子だったが、暫くして「分かった」と呟いた。
ルディローザがこう提案したのにも、ヴィクトルが頷いたのにも理由がある。こういったことは予想されていたからだ。
実際にルディローザの家にはお祝いだけでなく、匿名で誹謗中傷の手紙も多く届く。ヴィクトルの方も、父親についてきた令嬢たちによる、偶然に見せかけてのアプローチが絶えないのだ。
もちろん希望者全員に受けさせるのは難しいので、ヴィクトルは最初に上位貴族で、口の軽そうな令嬢を選ぶのはいいかもしれないと考えた。
それにはアニータも適任だと言える。彼女から何度もアプローチを受けているヴィクトルは、彼女の性格もある程度は知っていた。
もっとも、ヴィクトルの頭には「ルディローザより優れたご令嬢が出てくる」なんていう心配は欠片もなかったが。
「実は昨日のお茶会の後、もう1人王妃に直談判したご令嬢がいるんだ。公爵家のご令嬢なんだけど」
「そうでしたか」
特に変化のないルディローザに、ヴィクトルは顔には出さずに少しムッとした。
だからつい、少し意地悪な質問をしてしまった。
「彼女たちの方が適性だったら、ビエズネ語の授業は受けられなくなるよ?」
「そうなりますね」
廊下の分かれ道で立ち止まる。ここからは別々だ。
真っ直ぐルディローザを見つめる瞳を、彼女もしっかりと見返す。
「負けません。ビエズネ語の為だけじゃなくて、昨日の決意の為にも」
ヴィクトルは深く微笑んだ。それが例え自分の為ではなくても、現時点では満足だ。
別れの挨拶を交わして、それぞれの部屋へ向かった。ヴィクトルは帝王学、ルディローザは礼儀作法の授業が待っている。
あてがわれた部屋でマグラス夫人を待つ。
壮年の女性で、ロマンスグレーの髪をきっちりと後ろでまとめ、細い身体にいつもパリッと糊の効いたお仕着せ。ルディローザの祖母より歳上なのに、常に誰よりも綺麗な姿勢。吊り目と眉間に刻まれた深い皺によって、より怖い印象を受ける。
いつも通り5分前に入ってきたマグラス夫人と挨拶を交わし、いつもなら開始時間まで黙ったままなのだが、今日はルディローザが声をかけた。
「マグラス夫人、1つお願いしたいことがあります」
「話してみなさい」
「はい。姿見を置いていただきたいのです。わたくし自身でもチェックが出来るように」
「……分かりました。すぐに手配しましょう」
珍しく間のあったマグラス夫人に、ルディローザは内心少し慌てた。余計なことを言ってしまったのか、生意気だったのか。しかしそのあとも特段変わった様子のない夫人に、ルディローザは気にすることを止めた。
姿見はすぐに2枚届けられた。昨日のお披露目が終わったからか、礼儀作法はまさかの最初からだったが彼女は挫けなかった。
このやり方は見事にルディローザにはまったようで、めきめきと上達した。昨日のマグラス夫人からの叱責によるルディローザの意識変化も大きかったのだろう。カーテシーから歩き方指導に移る時に「次に行きましょう」と言われたのだ。「時間がないから」ではなく。
その夜、ルディローザは初めて嬉し涙を流した。
ちなみに御妃教育を立候補した2人は、翌日には希望通り御妃教育を受けだした。科目は礼儀作法、テーブルマナーに国学、外国語の4種類だけだった。それでも2人は1週間で音を上げ、逃げるようにして領地へと帰ってしまった。
それを聞いたヴィクトルは満足気な笑みを浮かべ、ルディローザは呆れ顔になった。
社交界シーズンが終わったことも相まって、ヴィクトルが思っていた程の話題にはならず、彼は今後のお試し御妃教育はシーズン中のみにしようと決意を新たにしたのだった。
9月に入ってすぐ母や兄が領地へ帰ってしまったため、ルディローザは王宮に部屋を用意され、そこで生活するようになった。家族と離れるのは寂しいが、父は宮廷で働いているので会おうと思えば会える。それに移動時間がなくなったことによる語学学習の時間が増えたこと、王宮の図書館を使えるようになったことは嬉しかった。
そして食事は王族と一緒にとることになった。第二王子のエドウィックとも初めて会った。ヴィクトルや陛下と同じ金髪碧眼だが、父や兄より可愛らしい甘めの顔をした天真爛漫な8歳。その彼の、第一声が凄かった。
「ねぇ、ルディ義姉様はヴィクトル兄様が好きなの? 違うなら僕のお嫁さんになって?」
こてんと首を傾げて尋ねる姿は天使そのもので、ルディローザはうっかり頷きそうになる程だった。実は腹黒だとすぐに判明したが、「ルディ義姉様、ルディ義姉様」と懐いてくれる姿は目の保養になる。御妃教育以外の時間、ルディローザはよく彼からの突撃を受けていた。その度にヴィクトルが回収に来るという一連の流れまで出来上がり、ルディローザは寂しいと感じる暇もなかった。
秋が過ぎ、冬が終わり、もうすぐ第一王子との婚約式がある。
ルディローザはあまり実感がなかった。毎日変わらず厳しい御妃教育を受け、ただ怒涛の日々を過ごしていたに過ぎなかった。ヴィクトルとは相変わらず戦友のような関係だ。最低でも月2回行われるお茶会やサロンで色々な意見交換をして、あと一歩で言い合いになりそうな程白熱したこともある。そんな時は大体いつもエドウィックの乱入により話は終わる。
婚約式も、デビュタントになったお披露目パーティも恙なく終わり、夜会やお茶会に呼ばれはするものの、あまり変わりなく御妃教育を受ける日々を送っていた。
そう、変わりなく。
相変わらずマグラス夫人には叱責される日々だし、余裕の出てきた科目が増えてきたと思ったら、今度は国外の王候貴族を覚える授業が始まった。婚約式には国外の招待客はいなかったが、デビュタントも無事終わったからと外交のパーティに呼ばれることもあるらしい。外国語を使うチャンスかもしれないと、ルディローザは密かに楽しみにしていた。
変わったことといえば、シーズン中でもタウンハウスに帰れなくなったことくらいだ。護衛の問題や往復の時間が勿体ないからということだった。
相変わらず侍女は固定されない。侍女長が、最初に婚約者候補を辞退したブライバル公爵家の派閥の者らしく、地味な嫌がらせの一種だろう。ただ、どの侍女も仕事は出来るので文句はなかった。
正式に婚約者だと発表されたにも拘らず、アクアティア侯爵家には匿名の誹謗中傷文が届く。ついにはこの前のお茶会で「お前なんか婚約破棄されてしまえ!」と面と向かって言われた。社交界シーズン開始早々にお試し御妃教育を受けた侯爵令嬢だ。彼女は2週間を目前に来なくなったと聞いた。
婚約式を行ったシーズンで既に通算10人のお試し御妃教育が行われたが、いずれも1か月と持たなかった。早い者はたった3日で辞退した。「自分だけが厳しい御妃教育を受けているのだろう」と言い出す令嬢もいたが、1日一緒に行動させれば黙った。
その次のシーズンにも5人の令嬢が受け、やはり1ヶ月乗り切った者はいなかった。
そしてその次も3人受け、結果は同じ。
ここまでくると、ルディローザは合格する令嬢を見たくなった。マグラス夫人が手放しで認めるような人はいつ出てくるのだろう――…完全な興味だ。
内定してから3年、未だに「自分の方が第一王子の婚約者に相応しい」と思う者がいること、そしてまだ一定の爵位以上の者をお試し御妃教育を受けさせるということは、ルディローザは王家からも世間からも第一王子の婚約者としては認められていないのだろう。
記憶力が特別良い訳でもないので、何度も怒られるし、未だに悔しくて夜1人で泣くことだってある。出来が悪いとは言わないが決して良い訳ではないと分かってはいる。けれどルディローザは段々と腹が立ってきた。いつまで経っても止まない誹謗中傷にも、いつまでもよそよそしい侍女たちも、終わらない御妃教育にも。そして自分にも。
それが爆発するかのように、ルディローザは初めて高熱を出して倒れた。