2.婚約者
登城して、穏やかだったのは初日だけだった。
同じく婚約者候補のクリスティーナ・ブライバル公爵令嬢と、シャーリー・テルドン伯爵令嬢と初めて顔を合わせる。両名ともお淑やかで聡明そうな雰囲気を纏い、表面上は何事もなく挨拶を終えた。明日からはバラバラに授業を受けるので、顔を合わせる機会はもうあまりないらしいが。
王宮の案内が終わると、各々の教育担当責任者から、明日からのスケジュール表を見せられた。
礼儀作法、テーブルマナー、ダンス、国学、外交、文化、芸術、外国語…まだまだ項目がある。これを隔日でみっちりと詰め込まれている。
「何か質問はありますか?」
「どの日も最後の学習項目が空欄なのはなぜでしょうか」
「そこは好きな授業を入れて構いません。刺繍などでもいいですし…もちろん外国語をもう一度入れてもいいですよ」
「外国語を希望します。言語の指定は出来ますか?」
教育担当責任者のマークは、笑いながら1枚の紙を出した。そこには10種類の言語が書かれている。
ルディローザは目を輝かせて、食い入るようにその一覧を見つめた。父は婚約者になってからと言っていたが、マイナーな言語も1種類だけあった。それを見つけた瞬間、ルディローザに迷いはなかった。
「ビエズネ語の授業を受けたいです」
翌日からは御妃教育漬けの日々だった。登城しては厳しい御妃教育を受け、帰ってからも休みの日も宿題に復習に予習の毎日だった。
何度も泣いたし、何度も行きたくないと駄々を捏ねた。その度にこう言われるのだ。
「ビエズネ語はいいの?」
そう言われてしまえば、ルディローザは行かざるを得なかった。あの授業だけが唯一の救いなのだ。
一度父に「御妃教育を辞めてもビエズネ語は学べるか」と聞いたところ、答えはノーだった。王家の伝手じゃないと難しいらしい。
そんなこともあって、ルディローザは文字通りの泣く泣く御妃教育を受けに隔日で登城する日々だった。
候補に選ばれてからもうすぐ1か月。
今日は珍しくお茶会のみらしいのだが、ビエズネ語の授業がないため、正直なところ行きたくなかった。馬車から降りると、そこにはいつものように教育担当責任者のマークがいた。
なぜか第一王子ヴィクトルも一緒に。
「久しぶりだね。ルディ」
「お久しゅうございます。ヴィクトル殿下」
授業で習ったように挨拶をする。この場には厳しく指導する礼儀作法の先生はいないが、叱責する声が聞こえてきそうだ。あの先生が一番怖い。
ヴィクトルの当たり障りのない会話に相槌を打ちながら、中庭に向かう。通された場所には椅子が3脚しかなかった。
婚約者候補でお茶会の試験でも受けさせられるのかと身構えたが、思いもよらない人物がやってきた。
王妃だ。
ルディローザは今日1番神経を尖らせて、自分に出来得る最上の礼をした。
「…母上への礼の方が綺麗じゃないか?」
「婚約者になったばかりだというのに、もう嫉妬かしら?」
間抜けな声が出そうになったが、ぐっと堪える。婚約者候補ではないのか。他の婚約者候補がいたじゃないか。最有力候補と言われていたブライバル公爵令嬢は、可愛らしいテルドン伯爵令嬢は。
王妃はにこりと綺麗な微笑みをルディローザに向けた。思わず見惚れてしまう。
「おめでとう、ルディローザ。今日から貴女がヴィクトルの正式な婚約者よ。正式な婚約式は来年だから、それまでは表向きは婚約者内定だけれど」
「よろしくね、ルディ」
喜びも悲しみも浮かばない。あるのはただ驚きだけだ。
それでも辛うじて「ありがとうございます」と王妃を見つめたまま返事をした。
「わたくしもルディと呼んでもいいかしら?」
「恐悦至極にございます」
「貴女はもうわたくしの娘も同然なのだから、そんなに畏まらなくていいのよ。そういった匙加減も追々学んでいくといいわ」
「ありがとうございます」
わざとらしい咳払いが聞こえて、ルディローザは漸く視線を王妃から外した。ヴィクトルが胡散臭い笑顔を浮かべている。
「ルディ、御妃教育を頑張っているのは私の婚約者になる為? それともビエズネ語の為?」
「ヴィクトル殿下の婚約者になる為でございます」
「……本当は?」
「ビエズネ語の為でございます…」
「ふふふ。そこはヴィクトルの役に立ちたくてビエズネ語を頑張っている、と答えるのよ」
「申し訳ございません」
そんな言い方すぐには浮かばない。ルディローザは特別頭が切れる訳でもないのだ。正直、王妃のようになれる気がしない。
「どうして自分が選ばれたか分からないって顔ね?」
「はい」
「それは貴女が、わたくしに似ているからよ」
優しい笑顔でそう答えると、王妃は公務があるからと退席した。カーテシーをしながら王妃の言葉を反芻する。
私と王妃様が似ている?まさか。
「婚約者候補だった残りの2人は辞退したんだ」
「そうでしたか」
ヴィクトルの声がして頭を上げると、座るように視線で促された。
ブライバル公爵令嬢は2週間、テルドン伯爵令嬢は3週間で辞退してしまったらしい。気持ちはよく分かる。ルディローザだって、ビエズネ語がなければ逃げ出していたに違いない。
登城してしまえば、休憩なんてないに等しいのだ。食事やお茶の時間はテーブルマナーの授業だし、短い休憩時間ですら前後の授業が割り込んでくる。分からなければ怒られ、理解が浅ければ怒られ、泣いたら最後、大目玉だ。蝶よ花よと育てられたルディローザたち貴族令嬢には耐え難い扱いでもあった。
ああ、なるほど。本当は、自分だけが残ったからなのか。
「驚いた?ルディに決まったこと」
「はい。特にブライバル公爵令嬢はとても優秀だと聞いていましたから」
「確かに彼女は勉強は出来たよ。でもそれだけじゃ王族は務まらないからね……何より、マグラス夫人の授業に耐えられなかったらしい」
マグラス夫人とは礼儀作法とテーブルマナーの先生だ。ルディローザも毎回厳しく怒られ、時には泣いてしまい余計に怒られた。
「マグラス夫人は容赦ないからね…私も何度泣かされたことか…」
「ヴィクトル殿下もですか?」
「ああ、内緒だよ」
そうだ。この人は生まれた時からずっと、王子としての教育を受けてきたのだ。辛くても辞めることなど許されず、努力し続けている。
それはきっと王妃も。陛下も。
悪戯っぽく笑うヴィクトルに初めて親近感が湧き、おこがましくも仲間意識のような感情さえ浮かんだ。
王教育と御妃教育は共通するものも多く、そこから2人は愚痴の言い合いにより盛り上がった。
婚約者が決まったことにより、明日からより厳しい教育が待っていることなど、2人はまだ知らない。
婚約者の内定は一瞬にして貴族内に広まり、翌日にはお茶会のお誘いとセットになったお祝い文が山のように届いた。
デビュタントは12歳から15歳に行うのが一般的だが、ルディローザは11歳になる来年に婚約式のあとのパーティーで行われることになった。なので大々的なお披露目パーティーのようなものはなく、ただの日常――いや、前よりも過酷な日常を送る日々が続いた。
最初のお披露目は、王妃主催のお茶会にちらっと顔を出す程度らしい。それも社交界シーズンの最終盤に行われるので、そこを第1目標に御妃教育を受けることになった。
婚約者候補から正式な婚約者になって一番変わったことは、御妃教育が隔日から毎日になったことだ。しかも社交界シーズンが終わっても領地に帰れず、王城で生活しなければならない。説明された時、あまりにも絶望感が顔に出ていたのだろう。今家で受けている外国語学習はそのまま王宮でも受けられることになり、1日2~3コマ外国語学習に割り当てられた。
それでもルディローザは不満だった。
毎週末行われる親睦会という名のヴィクトルとのお茶会では、最初は愚痴を言い合っていたが、次第にお互いを鼓舞するものへと変わり、今では学んだことについての意見交換が出来るようになった。
この頃からルディローザは少しずつ自信もつき始め、やっと要領が掴めるようになった科目も出てきた。
礼儀作法以外は。
「足の位置が違います。背中はそんなに反らさないように。そこでストップ。それでは戻しすぎです」
今月末には王妃主催のお茶会だというのに、やっと着席まで辿り着いたところだ。それまではずっとカーテシー、歩き方、表情の指導だった。しかも、着席に進めたのも「時間がないので次」と渋々である。
最初は毎夜泣いていたものの、段々と怒りや悔しさに変わっていった。
見てろ、いつかぎゃふんと言わせてやる、と。
隙間時間や寝る前に、礼儀作法についての本を何冊も読み、毎日変わる王宮での侍女たちに怪訝な目で見られようとも止めなかった。
そうして迎えた8月末のお茶会。これを機に領地へと戻っていく貴族も多いので、多くの夫人と令嬢が参加していた。
侍女長に呼ばれ、ヴィクトルと顔を見合わせて頷く。顔には出していないが、ヴィクトルも緊張しているのが、いつの間にか分かるようになっていた。差し出された手を取って歩き出す。まるで戦場へ乗り込むかのような心境だ。
王妃による紹介、ヴィクトルの挨拶に次いで、ルディローザも挨拶をする。
滞在時間僅か10分。お茶で口を潤した程度で引き上げる。
出来た。絶対に今までで一番綺麗に出来た。これならあのマグラス夫人だって「まあ、及第点でしょう」くらい言ってくれるんじゃないか。
庭を抜け、王宮に入る。少し離れたところで見ていたマグラス夫人も一緒だ。
王宮に入った瞬間、マグラス夫人が2人に向かって話し出す。いつもの感情が読めない顔のまま。
「ヴィクトル殿下、顎を引きすぎです。ルディローザ嬢はティーカップを持った時の小指の角度が違いましたよ」
こ、ゆ、び。
思わず強張った顔に、マグラス夫人が眉をひそめる。
ショックではない。感じたのは怒りだ。
自分のどこが駄目なんだ。小指くらい誰も見てない。理不尽に、八つ当たりで怒られているだけなんじゃないか。
ルディローザは無意識に手を握り締めた。
「ルディローザ嬢。貴女は王族の礼儀作法を何だと思っているのですか」
「相手に失礼がないようにするためのものだと思っています」
「いいえ、違います」
きっぱりと言い切られる。淑女にあるまじき顔をしていることもルディローザは自覚していた。
分かっていても止められなかった。
「王族の礼儀作法とは、敬意を受ける為のものです。人間関係や秩序を分からせる為のものです。その為に心からの礼儀を尽くし、誰よりも美しく、誰よりも洗練されていなければならないのです。本だけ読んで形だけできても、それに意味はないのですよ」
「……っ」
「今日はもうこれで終わりです。下がって、自由にお過ごしなさい」
ルディローザは下唇を噛み締めた。ほどかなければと分かっていても、ほどけない。ほどいてしまったら最後、泣いてしまうと分かっているからだ。
隣にヴィクトル殿下もいるのに。恥ずかしい。腹立たしい。悔しい。
でも、図星だった。
王族の礼儀作法の意味なんて考えたこともなかった。自分がもう“王族側の人間”のように見られていることだって。
悔しい。
情けなくて、悔しい。
泣かないように、深く息を吸う。真っ直ぐマグラス夫人を見てから礼をした。
「明日からも、ご指導よろしくお願いいたします」
顔を上げると、マグラス夫人も真っ直ぐルディローザを見ていた。そして、見逃しそうになるほどの一瞬。本当に少しだけ微笑んで、2人に背を向けた。
ヴィクトルに誘われて、ルディローザはヴィクトルの部屋へと通された。白地に金の装飾、カーテンなどのファブリック類は紺色でまとめられており、落ち着いた色合いの部屋だ。
勧められてソファに座ると、どっと疲れが襲ってくる。それはヴィクトルも同じらしく、向かいでぐったりとソファに沈んでいる。
使用人たちがてきぱきとお茶の準備をしてくれたので、2人してのろのろと起き上がった。
「ルディは強いね。あのマグラス夫人に微笑ませるなんて」
「いいえ。もう少しで泣くところでしたし、何より本当に分かっていませんでした」
「まだ、一緒に頑張ってくれる?」
「もちろんです」
嬉しそうにルディローザを見つめるヴィクトル。
ルディローザは初めて知った。自分がこんなに負けず嫌いだなんて。
「絶対にいつかぎゃふんと言わせてみせます」
ヴィクトルが声を出して笑った。
その瞬間から、彼が彼女に向ける視線は期待だけではなく、明らかに熱を帯びたものが含まれるようになった。