マグラス夫人の溜息
番外編です。
マグラス夫人と言えば、多くの人が眉間に皺を寄せて溜息をつく彼女を思い浮かべる。
彼女はやっぱり今日も、大きな溜息をついていた。
ダーナ・マグラス。
ブルエーム国でも数少ない女性世襲制を採用している侯爵家だ。内政には関わらないという契約の下、代々の王族の礼儀作法の教育係を担うのがマグラス侯爵家に課せられた仕事だ。
現国王と王妃の礼儀作法を叩きこんだのもこのダーナ・マグラスで、この2人も礼儀作法の授業で泣きに泣いたことを、一定以上の年齢の者なら誰でも知っていた。現国王に至っては、今なおマグラス夫人のひと睨みで冷や汗をかく。
王妃が婚約者候補だった時も、泣きながら去っていった令嬢は数知れず。授業中にも拘わらず、悪態をつかれたことも、暴力を受けたこともある。娘可愛さにその親から嫌がらせを受けたことだって一度や二度ではない。
厳しすぎると言われたことも多々ある。それでも決して手を抜かなかった。自分自身の誇りの為でもあったし、教育を受け終えた人々は口を揃えて言うのだ。「そのままで良い」と。
初めて彼女――ルディローザ・アクアティア侯爵令嬢に会った時のことは、正直あまりよく覚えていない。
ヴィクトル第一王子の婚約者候補3人の内の1人。最有力候補だったクリスティーナ・ブライバル公爵令嬢でさえも、名前と顔が一致する程度だ。
教え出してからも、特段思うことはなかった。礼儀作法の初歩の初歩を、少し注意しただけで慌て、混乱し、泣き出す。いつ辞めると言い出すか。今までと一緒だ。
候補者用の御妃教育を始めてから1ヶ月、ルディローザだけが残り、彼女が婚約者に内定してからも、辞められるかはさておき、辞めると言い出すのではないかと誰もが言っていたし、本心ではそれに同意していた。ただ、王妃だけは大丈夫だと断言していた。
王妃がそう断言することが不思議だった。ルディローザは、外国語は優れていると聞くが、それ以外は普通の令嬢だった。頭が素晴らしく良い訳でもなく、覚えも悪くはない程度。厳しく注意すれば未だに涙目になるし、第一王子に惚れ込んで頑張っているのかと思えばそうでもない。礼儀作法の本を読んで分かった気になっているだけの、普通のお嬢様。
王妃の言っていた意味が分かったのは、第一王子の婚約者のお披露目を兼ねたお茶会の後だった。
自信満々のルディローザに、溜息が零れた。
「ヴィクトル殿下、顎を引きすぎです。ルディローザ嬢はティーカップを持った時の小指の角度が違いましたよ」
思わず強張ったルディローザの顔に、眉をひそめる。彼女は腹を立てている。淑女にあるまじき顔だ。
本当に、彼女は何も分かっていない。
「ルディローザ嬢。貴女は王族の礼儀作法を何だと思っているのですか」
「相手に失礼がないようにするためのものだと思っています」
「いいえ、違います。王族の礼儀作法とは、敬意を受ける為のものです。人間関係や秩序を分からせる為のものです。その為に心からの礼儀を尽くし、誰よりも美しく、誰よりも洗練されていなければならないのです。本だけ読んで形だけできても、それに意味はないのですよ」
「……っ」
「今日はもうこれで終わりです。下がって、自由にお過ごしなさい」
憤りか、羞恥か。その両方か。ルディローザは、今にも泣きそうな顔で歯を食いしばっている。内心、彼女もこれで「辞めると言い出すかもしれない」と考えていた。正式発表がなされた後なので、そう簡単には辞められないが。
けれどルディローザは違った。彼女は深く息を吸い込むと、出来得る限りの綺麗な礼をして、真っ直ぐ自分を見たのだ。
潤んだ瞳のまま、しっかりと。
「明日からも、ご指導よろしくお願いいたします」
芯の通った強い眼差しの彼女を見つめ返す。
マグラス夫人は無意識に口の端を持ち上げた。あの目は、若き日の王妃と同じだ。
その翌日も驚かされるとは思ってもみなかった。
いつも通り5分前にルディローザの部屋へ行くと、いつもなら開始時間まで黙ったままのルディローザが声をかけたのだ。
「マグラス夫人、1つお願いしたいことがあります」
「話してみなさい」
「はい。姿見を置いていただきたいのです。わたくし自身でもチェックが出来るように」
「……分かりました。すぐに手配しましょう」
すぐには反応出来なかった。叱られた翌日に、こんなことを言い出した令嬢は初めてだった。最初からやり直しても、彼女は文句はおろか、顔色ひとつ変えずに従った。
このやり方は見事にルディローザにはまったようで、めきめきと上達した。お試し御妃教育を受けに来る令嬢たちとは比較にならない程、誰の目にも明らかにルディローザは見事な淑女へと変貌していったのだ。
それがとても嬉しく、また楽しみでもあった。
「ふふふ。お母様、またルディローザ様のこと話してる」
「また?」
「ええ。ここ最近ずっと。この前のお茶会で久しぶりにお会いしたけど、確かに前よりずっと美しくなられたわ」
「そうでしょう。彼女は思っていた以上に負けず嫌いで努力家です。この前初めて、わたくしが注意する前に自ら訂正した時は驚きました」
「王妃様の時と一緒ね。お母様、とても楽しそう」
婚約者だった頃の現王妃は、見るからに負けん気の強い令嬢だった。それは言葉にも態度にも表れ、見せないようにするのが大変だったことを覚えている。
ルディローザは違う。目に見えない奥底に、驚くほどの熱量を持っている。
恐らく王妃はそれを見抜いていたのだろう。
ルディローザが御妃教育を受け出して3年。初めて熱を出して倒れたと聞いた時、一緒にいた孫のハンナだけでなく、自分でも驚く程に動揺した。
急いで部屋に向うと、丁度第一王子が出てくるところだった。
「マグラス夫人。彼女ならまだ寝ているよ。医者は普通の風邪だろうと言っていたが」
「そうでございましたか。安心いたしました」
「彼女の目が覚めたら教えてほしい。彼女の侍女が見えなかったから」
「承知しました」
ヴィクトルは心配そうな顔のまま、彼女の部屋を後にした。
彼も驚く程に作法が美しくなった。ルディローザを意識しだしてからは尚更。彼女に負けないようにと今まで以上に熱が入っているのをひしひしと感じる。思えば国王もそうだった、と第一王子の背中を見つめながら、彼女は少し昔のことを思い出した。
覗きに行く度に魘されているルディローザだったが、3回目で漸く目を覚ました。
「起き上がらなくていいのですよ。すぐに誰か呼んできます」
「…わたくしは、やっぱり不適性だと判断されたのでしょうか」
その言葉に固まった。ゆっくり身体を起こした彼女は、まだどことなくぼんやりとしている。
少し待っても彼女の表情は変わらない。心を殺したような、少し寂しげな顔のまま、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「何を言うのです」
「いつまでも誰からも認められない、その上体調管理も出来ないような人間です。マグラス夫人が直接伝えに来て下さったのですか」
「落ち着きなさい。とにかくまずは医者を呼びましょう。貴女付きの侍女を…」
「わたくしに専属の侍女はいません。最初からずっと」
専属の侍女がいない?第一王子の正式な婚約者に?
確かに妙な気はしていた。何度この部屋を覗きに来ても、侍女がいなかったからだ。念の為にハンナに確認するように言っていて良かった。
廊下に出て、近くにいた使用人にハンナを呼ぶように声をかける。
暫くしてハンナと医者が入ってきた。医者はてきぱきと触診と問診をしている間に、ハンナから話を聞く。
恐れていた通り、彼女には専属の侍女がいなかった。侍女長が、最初に婚約者候補を辞退したブライバル公爵家の派閥の者なので嫌がらせの一種だろうというのがハンナの見立てだった。
それが本当なら、なんと情けない話だろうか。最初に辞退したクリスティーナ・ブライバル公爵令嬢本人は、今ではルディローザに憧れすら抱いているというのに。
親しい者がいない王宮での御妃教育の日々。どれほど心細かっただろうか。
ルディローザは視線を下に落としたままだ。最近は見なくなったが、泣き顔も落ち込んだ顔も怒った顔も悔しそうな顔も、もちろん嬉しそうな顔も見てきた。それでも、彼女がこんなに小さく見えたのは初めてだった。こんなに消えてしまいそうなほど自信のない彼女を見たのは。
孫のハンナを紹介し、専属の侍女にすると言うと、彼女は今日初めて反応を見せた。
「どうして専属の侍女がいないことを黙って受け入れていたのですか」
「王家の意向でもあるのかと思っておりました。いつ、もっと相応しい婚約者が出てきてもいいようにと」
「どうしてそう思うのです?」
「未だにお試しの御妃教育を受けさせていること、受けたいと思うご令嬢がいることが理由です」
つい大きな溜息をついてしまった。ルディローザの藤色の瞳が不安げに揺れている。
彼女の為だと思っていたことが、裏目に出ていたとは。専属の侍女でもいれば、愚痴のひとつでも誰かに零すことが出来ていたなら、こうはならなかったのではないか。
身近な者が、彼女を褒めていたら。彼女はもっと自分を誇れていたはずだ。
いや、それだけは駄目なのだ。誰かに認められるだけで満足する。それだけでは。
彼女は、それだけの努力をしてきたのだから。
「貴女は、もう貴女自身を認めてあげるべきです」
「自分を認める…ですか?」
「そうです。そもそも、そのお試しの御妃教育ですら、貴女の為でもあるのですよ」
こちらを見つめる瞳はまだ震えている。それでも少し、暗い瞳の中に期待のような光が見えた。
「辞めていく人がいればいるほど貴女の自信になると、ヴィクトル殿下も王妃様もそのように考えてのことです。それに、王家もわたくしたち教育担当者も、皆が貴女こそと思ったから婚約式が正式に行われたのですよ。王家の決定が、そう簡単に覆るとお思いですか」
「それは…いいえ」
「貴女はよく頑張っていますよ」
ルディローザは目を見張った瞬間、ボロボロと大粒の涙を落とした。その姿に目を細め、少しだけ口の端を持ち上げた。
彼女が頑張っていることは、他の誰よりも自分が知っている。
「貴女は、わたくしが認めた殿下の婚約者なのです。自信を持ちなさい」
彼女が目の前で泣いたのはいつぶりだろう。
両手で顔を覆い、それでも漏れる涙と嗚咽。そっと背中を撫でると、小さくて細い肩が震えていた。
一緒に目頭が熱くなったのは、きっと、歳のせいだ。
ルディローザは少しずつだが自分に自信が持てるようになってきたようだ。
そうして彼女は、所作から来る美しさだけでなく、自信というオーラが加わったことにより更に美しくなった。
顔や身体などの造形だけではない美しさ。王族に必要な、絶対的な気品と存在感。それを彼女は漸く手に入れ出したのだ。
目下の心配は、彼女が全く第一王子からの熱視線に気付いていないことだ。
こればかりは指導出来ない。
マグラス夫人は、誰にも分からない程度に口の端を持ち上げながら、今日も大きな溜息をつくのであった。




