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本気のバントに敵はない!  作者: 小走煌
1 環の日常は変わっていく
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考えた末

 環は得意気に語るえりかに対して今の思いをストレートに告げた。そう、いくら褒められてもそれが野球をやる理由には到底ならない。

「どうして?」

 えりかが言った。聞き返すのは当然だろう。それに対して理由を隠してもしょうがないし、別に隠すつもりもない。環は本当の気持ちをえりかに伝えることにした。

「私がバントを得意なのは、小さい時から兄ちゃんと遊んでいたから」

 一呼吸置いて、環は続けた。

「兄ちゃんは野球をやっていた。最初はキャッチボール相手に付き合っていたんだけど、次第に兄ちゃんがピッチャー役、私がバッター役になったわ。兄ちゃんのボールは速くて全然打てなかった。だから私はバントに切り替えたの。兄ちゃんも正しいバントのやり方を教えてくれて、上手くいくようになってからは飽きもしないでずっとバントしてた。小学生の頃から現役高校球児のスピードボールをバントしてたんだもの、中学に上がる頃には大抵の球はバント出来るようになっていたわ」

 環が中学に上がった頃、兄は大学に進学していた。高校時代の兄、大学時代の兄、その変わりようを思い出して環は思わず溜め息をつく。

「でも、野球は嫌い。無駄に青春だ青春だってほざいて、まだ体の未成熟な高校生に無理をさせる。兄ちゃんはせっかくいいボールを持っていたのに、無理して毎日練習して、試合でもずっと投げてた。酷使に次ぐ酷使……それがたたって大学では使い物にならなくなっていたわ。野球で進んだ大学なのに結局部活にも行かなくなって、今じゃもう高校時代のはつらつした面影なんてどこにもない。そんな兄ちゃんを見てるから、私は青春なんてまっぴらごめんだしそんな状況を作ってしまう野球なんて大嫌い」

 青春の幻に侵され、帰って来ない兄。虚ろな目で生活している兄を見ているとなにも考えられなくなる。自分もああなるのは嫌だ。だからえりかの誘いには、乗ってはいけない。

「勘違いしないで」

 不意に、えりかが鋭い声を発した。太陽の陽射しの下、マウンドの頂上から環を見下ろすえりかの目には強い力がこもっている。

「あたしは青春したいわけじゃない。あたしがしたいのは『勝つ』こと。いかに効率よく勝利を手にするか。一回から九回まで、それに試合に至るまでの練習も、全部計算づくでやるわ。そこに青春が介入する余地なんてない」

 えりかの放った言葉は、環を不思議な気分にさせた。青春しないで勝つ。そんなマシンロボットみたいな世界があるのか。環は少しふらつきそうになったが、両の足で必死に堪えた。

「それにアンタ、野球が嫌いって言ったけど。ならなんで草野球なんてしてるの。本当に野球が嫌いならそんなことしないんじゃない?」

「あ、あれはバイトで……」

「バイトだろうがなんだろうが、嫌いならやらないんじゃないって言ってるの」

 えりかの言葉に、環は即座に反論出来なかった。バイトだから仕方ないじゃないか、と吠えたところで確かに説得力がない。えりかはなにも言わないが、その無言の時間がプレッシャーとなって環を追い詰めた。

「……メリットは?」

 思わず環は、苦し紛れに言葉を発した。

「私が入ることで、私にとってなにかメリットはあるの?」

「あるわ」

 環の問いに、えりかは即答した。

「アンタの知らない、極上の勝利の味を味わわせてあげる。きっと、一度知ったら病みつきになるわ。それは間違いない」

 勝利の味。それは全く知らないわけではなかった。助っ人で活躍し、チームを勝利に導いた帰りに感じる自転車の風。あれがきっと勝利の味。

 環は揺らいだ。あの大嫌いな青春は、存在しないとえりかは言っている。それなら特に拒む理由はないのではないか。でも、だからといって自分の時間を削って毎日汗水流す生活を送ることになってもいいのか。

「考えるだけ考えたらいいわ。その代わり、あたしはなにがあっても諦めないけど。なぜならあたしの思い描く勝利は、十割出塁出来るアンタがいてこそ成り立つものだから。それに、これだけは言えるわ……きっと後悔はさせない。きっとね」

 えりかの言葉には自信が溢れていた。それはたぶん、環を引き入れることが出来るという自信と、その先にある勝利への自信。

 環は考えた。乗るべきか、乗らざるべきか。メリットとデメリットを頭の中に列挙し、検討していく。

 そこに横から『勝利』の二文字が割り込んで来た。

 勝利の味を、味わえる。

 それに、青春しない勝利というのはとても独特だ。環は迷いに迷って、いくつか浮かんだデメリットを全て脳内のごみ箱に押しやった。

 ――いいだろう、乗ってやる。

「条件がある」

 環はえりかを見据えて言った。

「もしお互いに気に食わないことがあれば、この契約をいつでも解除していいことにする。その条件つきなら、やってもいいわ」

 その言葉を聞いた瞬間、えりかはにやりと笑った。なにか企んでいるような、これからの展開が楽しみでならないというような、そんな微笑み。

「決まりね。よろしく頼むわ」

 えりかはマウンドを降りて来て手を差し出した。環はえりかから目を逸らし、その手を掴む。照り付ける太陽を証人に、契約の握手が交わされた。

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