これが環の必殺技
「今は五回の裏、おじさんたちのチームが一点負けてるんだ。もうツーアウトだけどランナー二、三塁のチャンスなんで、あの全然期待出来ない九番バッターよりもゼヒ環ちゃんに行って欲しい!」
「こら、誰が全然期待出来ないって、おう?」
うっそうと髭を生やしたいかついおやじが、打席の方からベンチへ引き揚げて来た。
「このちっこいのが俺の代わりだって?」
髭はジロジロとなめ回すように環のことを見て来る。なんて失礼な、と思ったがいつもはすぐ出る口を今はどうにか抑えることが出来た。
「しっかり頼むぜ、凡退したら承知しねえからな!」
「ふふふ、それはないと思うから安心していいよ」
女子高生を相手に恫喝でもするような勢いの髭を、おじさんが制してくれた。
「ごめんね、今回初めて来てくれた助っ人さんなんだけど、家庭の事情で荒くれてて」
「ウッセーこのハゲ!」
髭の突っ込みでベンチには笑いが溢れた。今まで見たこともない新顔のクセになんて偉そうな髭面毛むくじゃらおやじだと思わず食ってかかりそうになったが、中々どうしてメンバー間の仲はそれなりに良いらしい。
「環ちゃんはいつもの調子で大丈夫だから。今回も期待してるね」
環は無言で頷いた。このおじさんはいい人だ、と環は分かっている。頭の方が少し寂しいが、いつも笑顔で依頼をくれる。環にとっては重要なクライアント、お得意様でもあり、大切な近所のおじさんなのだ。
だからおじさんの悲しむ顔は見たくない。今回の依頼も、必ず成功させる。
「制服のままだけど、着替えなくて大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
環は即座に頷き、マウンドの方へ意識を集中させた。スカートのヒラヒラが気になるし、おじさんの依頼だから本当はユニフォームをバシッと決めたいが、大慌てでここまで来たからもちろん持ち合わせの着替えはない。このままでやるしかない。
マウンドには不思議そうにこちらの方を見る相手投手が立っている。大きい身体をしているが、特にお腹の貫禄が目立つ。投球はどうか分からないが、恐らく守備は苦手だろう。相手投手を見詰めながら、足は自然と打席へ向かう。
「よーしそれじゃあ、審判さん、代打で!」
背後からおじさんの申告が聞こえる。それを受けた球審とふと目が合う。球審は環を見て驚いたような顔を見せたが、ゆっくり頷くとすぐにマスクを被り直しマウンドの方へ向き直った。どうやら女子がグラウンドに立つことに対して理解のある審判らしい。あるいは、過去の試合で既に会っているか。
「おいおい、このチャンスに出て来るのが女の子なの?」
「これ、ウチが勝ち貰っていいってことだよねえ?」
女子がグラウンドに立つことに対して全く理解のない相手方のクソおやじ共からすかさずヤジが飛んで来た。別に女子野球界のすそ野を広げたい気などさらさらないが、あからさまに下に見られると単純にムカつく。
「環ちゃん、頼むよー!」
優しいおじさんの声援が聞こえてきた。助かる。すさんだ気持ちの時におじさんの声を聞くと、心が落ち着く。
冷静さを取り戻した環はいつものように左打席に入り、丁寧にならす。そしてバットの先端でホームベースをつつき、相手投手に向けてから構えに入った。
「さーて嬢ちゃん、いったい、どれくらいの実力なんだい……!?」
相手投手がお腹を揺らしながら第一球を投じた。環はその球筋を、ジッと見定める。
「ストライク!」
球審の元気なコールが、すっかり暗くなってナイターの明かりだけが頼りのグラウンドに響いた。
「どうしたい、あまりの怖さに手も出ないか?」
「いいぞピッチャー、もっかい今のボールでいいよ! むしろ全部同じとこでも打たれんよ!」
相手方のヤジっぽい声援に心を荒げそうになるが、イライラの心を強引に押さえ込む。今はただ集中して、マシンのように依頼を遂行せねばならない。
ニヤニヤしながらセットポジションに入る腹を見詰めながら、たった今目の前を通ったボールの球筋を思い出す。綺麗な縦回転、若干おじぎ気味、まるで体格のような重さがこもったボール。様々な要素を洗い出し、脳内でミックスさせる。それから横目で内野陣の陣形を確認する。至って平時のポジショニング。
――行ける。
心は決まった。環は力みのない、自然な構えで投球を待った。やがてえいやと放たれるボールを限界まで引き付けて、
それから環は、バットを水平に構えた。
「「「ば、バント!?」」」
瞬間、相手守備陣から、まるでキャバクラで遊んでいるところに奥さんが現れでもしたかのような驚きの声が上がった。
ボールが三塁線をゆっくり転がるのを確認し、環は走り出した。服装と靴の関係で全力疾走は出来そうもなかったが、この相手なら充分だった。環はファーストへボールが投げられる前にベースを駆け抜け、振り返る。サードランナーは無事ホームインしていた。
「よっしゃあ!」
味方ベンチが沸いている。あのうるさかった髭は何が起きたのか分からないというように呆然としていた。
「見たかい、皆さん。これがウチの秘密兵器……どんな球でも必ずバントを成功させる、一撃必殺のバンティスト、環ちゃんさ!」
おじさんが得意気にふんぞり返る。その姿は思わず頭を撫でてあげたくなるほど可愛かったが、さすがにその紹介のされ方は顔から火が出そうになった。