迷いと決意
「さあ環、今日からガッツリスカウト活動を始めるわよ!」
気付いたらえりかの顔が視界を埋め尽くしていた。
環は瞬間的に、ここに至るまでの動作を振り返った。休み明けの月曜日、いつものように目覚めて支度をして、週初めの気だるい気分を吹き飛ばせずにぼんやりと考えごとをしながら自転車を漕いでいたのだ。授業のこと、お昼ご飯のこと、バイトのこと、そして、女子野球部を設立しようとしていること。
頭の中にあれこれ浮かべはしたものの、考えは全くまとまらない。自転車を漕ぐことで普段なら冴えるはずの頭は月曜日の重さにやられてまるで働かない。貴重な登校時間になにも成果を挙げられなかったことを悔いて駐輪場にやって来たところだったのだ。そこに急にえりかが現れて、思いっきり顔を寄せて来たのだ。
「ああ、おはよう……」
辛うじて朝の挨拶を済ませ、環は教室に向かう。早朝から高いテンションについていける気がしない。
「待ちなさい環。今日は昼休みにアンタの教室に行かせてもらうわ」
「……なぜ」
ゆっくり振り返って尋ねる環に、えりかは硬球を得意気に見せつけた。それがいったいなにを表すのだろう。
「試したいことがあるの。ぜひ環にも同席してもらうわ」
えりかは月曜日の朝から元気いっぱいだ。そのエネルギーを少しでいいから分けてもらえればちょっとは楽になりそうだ。どうすれば分けてもらえるのか、エキス的なものを注入してもらえばいいのか、などと意味のない妄想をしながらどうにか「分かった」と一言だけ返事をして環は再び教室へ歩き出した。
「あの二人には負けないわ。あたし達のペアが先にいい人材をスカウトするんだからね!」
エネルギッシュな声が聞こえて来たが、早く机に突っ伏したい環にもう一度振り返る元気はなかった。
昼休み。
一週間が経過して皆この環境に馴染んで来たのか、ぎこちなさの解消された喧騒が教室を埋める。
「環、ちょっと来て」
そんなざわめきをかいくぐるようにえりかの声が廊下から聞こえて来た。食後の昼寝タイムを強引に奪われた気がして狂いそうになったが、そう言えば昼休みに来ると言っていたなと思い出す。
「さあ、早速始めるわよ」
廊下に出てみると、えりかは朝から変わらず活気に満ちているようだった。これだけ元気だと生きるのも楽だろうなと思いながら、環は疑問に思ったことを聞いた。
「始めるっていうけど、いったいなにをどうするわけ?」
「あの高飛車を廊下におびき寄せるのよ」
えりかはそう言って教室の中を指す。その先には京の姿があった。食事はもう済んだようで、なにやら分厚い本を読んでいる。
「あれはウチのカタブツ委員長玉城さんだけど、彼女になんの用が?」
「いいから廊下に呼んでくれればあとはあたしがやるから」
えりかは早口でまくし立てる。釈然としないが、呼べばいいのだったら依頼としては簡単だ。
「いいよ、分かった」
そう言って教室に入る。ここで愚痴らないとは随分丸くなったものだと自分に感心しながら京の前に立つ。
「玉城さん」
声をかけると、京はゆっくりと顔を上げた。環が触れて来たガミガミ言う京からは想像のつかない、穏やかな笑みをたたえている。
「あら寄川さん。どうしましたの?」
「ちょっと、こっち来て」
環は出来るだけ普段と変わらない振る舞いを見せるよう努め、京を廊下へ誘導する。怪訝そうな顔を浮かべる京を見て、なんだか騙し討ちしているような気がして気分が悪い。しかし、京を廊下に連れ出したことでなにが起きるのかは環にも分からないのだ。
「いったいなにがありますの?」
廊下に出た京は不思議そうに環を見詰める。怒鳴り口調でない京は、中々どうして美人かも知れない、などと野暮なことを思い浮かべたその時、遠くからボールが転がって来た。
「……あら」
環が気付いた時にはもうボールは京の足元まで転がっていた。京は驚くでもなく、跪くようにしゃがんでボールを拾い上げる。
「ごめんごめん、それあたしのなんだ」
不意に声がした。見ると、ボールの転がって来た方からえりかが両手を振って呼んでいる。
「ボール、ちょうだい」
えりかはなぜかこちらに近寄らずに、ただ声をかけて来る。京はそんなえりかを見て、ボールに視線を落とした。
次の瞬間、京はえりかに向かってボールを投げ返そうとして、止まった。上げかけた腕を下ろし、俯きながらえりかに歩み寄ろうとする。
「投げなさいよ」
唐突にえりかが言った。京は驚いたようにえりかの方を見る。
「あなた、なにをおっしゃるの? このボールは硬球です。グラブを嵌めていない人に向かって投げるものではありませんのよ」
「詳しいじゃない。そこまで把握してるなら今のウズウズも相当なものでしょ。さあ、投げなさいよ」
「だからあなたが痛いに違いありませんのに――」
「投げなさいよ」
京の言葉を遮るように、えりかが語気を強めた。京はその場で立ち止まり、手にしたボールとえりかを交互に見る。
「……知りませんよ」
一言だけ残して、京は投げた。スナップの利いた、流麗なサイドスロー。
バチっと、誰かが平手打ちされたような嫌な音がした。
「あの時やけにいいボールを投げると思ったんだけど……やっぱりね」
えりかは、京のボールを左手一本、素手でキャッチしていた。
「あ、あなたは、いったい……」
京はなにかを口にしようとしたが、えりかが右手を前に出して遮った。
「ねえ委員長サン、あたし達と一緒に野球やらない?」
えりかは京をまっすぐ見据えて言った。環は息を呑んだ。昼休みの喧騒の中、周囲の人目も気にしない堂々のスカウティング。
「野球、ですって?」
「そう。だってアンタ経験者でしょ?」
その言葉がえりかから届いた瞬間、京の肩がわずかに震えたように見えた。
「まさしくその通りですわ。でも、この学校には女子野球部はありませんのよ? それをどうやって――」
「部がないなら作ればいい」
えりかは平然と言い放った。京から返事の声は聞こえて来ない。その背中は心なしか、普段より縮こまっている気がする。
「アンタは野球をやりたいはずよ。この前のボールにも、今のボールにもそれはヒシヒシと伝わって来ている。それともなにかしら、野球を出来ない理由でも?」
「そ、それは……」
京はなにかを言おうとしたが、言い淀んだ。廊下は喧騒に包まれているというのに、三人を囲む空間だけ重い空気がのしかかっているかのようだった。
およそ数秒かも知れないし数時間にも感じられるような、長い沈黙。やがて、京が一度咳払いをして言った。
「……いいでしょう。ご一緒して差し上げましてよ」
京の言葉で、重苦しい空気がスッと消え失せたような気がした。
「宜しくね。期待してるわ」
そう言って近付いて来るえりかは、どこか肩の力が抜けたような様子だった。環は二つの個性がぶつかる未来を予感して自然と溜め息が出るが、決断までに京がなにを考えて、そして迷っていたのか、なんとなく気になった。




