夜な夜な行う怪しいバイト
寄川環は床に広がる割れた壺の破片を眺め、思いっきり溜め息をついた。
「ちょ、ちょっと! アナタのせいでもあるんですのよこれは! 溜め息なんかついていないで手を動かしてくださる!?」
環の横でガミガミと吠える玉城京は、人に手を動かせという割に自分一人でやたらと手際よく掃除を始める。いつの間にかロッカーから取り出しているホウキとちり取りでせっせと破片を集める京を見て、環はまた溜め息をついた。
「アナタ、暇ならちり取り持ってくださる?」
「はいはい、すみませんでした……っと」
京からちり取りを取り上げるように受け取り、破片の前に差し出す。
「アナタが掃除当番をサボろうとして教室から逃げようとしたことがきっかけでこんなことになっているのですから、もう少し申し訳なさそうにしたらどうです?」
京が愚痴っぽく呟きながら掃き掃除を進める。
確かに、当番から逃げるためにこっそり教室を出ようとしたところでカタブツ学級委員長の京に見つかってしまい、情けなくも焦って駆け出してしまったことで教壇に飾ってあった壺を倒してしまった自分には責任があるだろう。
でも、壺の落下に反応しながらキャッチ出来なかったのは京だし、せっかく早く帰ってバイトまでの時間をゆっくり家で過ごせるはずだったのだ。買っておいたマンガを読み漁ったり、買ったばかりのギターを弾いたり。なんなら人には言えないあんなコトやこんなコトだって出来る、くつろぎ放題の至福の時間。それをこんな虚無極まりない作業に駆り出されているのでは、そりゃ溜め息だってつきたくもなる。
「だいたい、なんで教壇に壺なんか置いてあるのさ。おかしくない?」
「それは有江先生に聞いてみないと分からないことですわよ」
「そうですか、そうですよね」
環はまたも溜め息をついた。
「まったく、これに懲りたら掃除当番をサボるなんていう考えは捨て去ることですわね!」
ホウキから片手を離した京はビシッと音が鳴りそうな勢いで環を指差した。
「はーい、考えておきますよ」
学級委員長に目をつけられると後が怖い。ここは適当に流して次なる脱出の機会をうかがうのが吉だ。
「アナタ……全然反省してませんわね」
京が目を細めてこちらを見ている。さすがカタブツ委員長、こちらの考えがしっかりバレている。
とその時、京の背後にかけてある時計が目に入った。もう六時を回っている。
「あ、やばっ……!」
環はちり取りを出来るだけそっと置き、すぐさま鞄を担いで駆け出した。「こらっ! 逃げるんじゃありませんのよ!」とヒステリックな悲鳴を上げる京に心の中で謝罪し、教室を出て自転車置き場に向かう。
まだ高校生活三日目で右か左か迷う。それでも記憶を頼りにどうにかマイ自転車に辿り着き、颯爽とまたいだ。
「まったく、三日目でここまで仲良く喋れるクラスメートがいるってのもありがたいよ……」
環は呟き、急いで自転車を漕ぎ出した。学校を出て信号を一つ越えながら明日、京にはいちごミルクでも奢ってやらねばならないと密かに決意した。
「遅れる、遅れる、遅れる!」
車にも負けない勢いで必死に自転車を飛ばし、目的地へと向かう。
それにしても、まだたったの三日だが環にとって高校生活は退屈極まりないものだった。ただテストで好結果を残すことに焦点を当てられたなんの面白味もない授業、クラスメートとの無難な会話、起きる気配のない恋愛沙汰。どのイベントも、思わずあくびが出そうなものだった。この短期間でそこまで決めつけてしまう自分の短絡ぶりに溜め息が出るが、事実そうなのだから仕方ない。
今日は最後の最後、あのじゃじゃ馬学級委員長のおかげで、うんざりはしたものの少しは張りがあった。明日以降も楽しみがあれば良いのだが、それは分からない。そうなれば、しばらくはこのアルバイトに精を出すしかない。それなのに、遅刻だなんて。
額の汗が頬をつたい、風に流される。四月の夕暮れの涼しさを肌で感じながら、環は懸命に自転車を漕ぎ続ける。大通りを曲がり住宅街を抜け、原っぱを通り過ぎるとやがて広々とした空間に到着した。
一面に広がる芝生と土のコントラストが綺麗なグラウンド。ユニフォーム姿の中年が守備位置に就き、声をかけ合っている。
着いた。環はホッと息を吐いた。自転車に鍵をかけ、乱れた呼吸を整え、ゆっくりと歩き出す。目の前には、この町一番の野球場が広がっている。バックネットは堂々とそびえ立ち、ナイターにはもう明かりが灯っている。
「おーい、こっちこっち!」
環は声のした方を見た。一塁側ベンチに近所のおじさんたちが集合している。走って移動し、ベンチに到着するや否や頭を下げた。
「すみません、学校の用事で遅れて……」
「いいのいいの。ちょうど今がナイスタイミングだよ!」
おじさんは口ひげを揺らしゲラゲラと笑う。
「おいおい、タイムいつまでかかるの?」
相手チームから野次が飛ぶ。おじさんがこちらを向いて言った。
「じゃあさ、早速で悪いけど環ちゃん、行ってくれる?」
「もちろんです」
環はそう言って、コクリと頷いた。