みんな台無しになってしまう
私は、全身の力を振り絞って、えいやと跳躍すると、川端の手元から芥川賞を奪い取り、消火活動を始めました。
まさか紙に水をかけるわけにもいかないので、結核に侵された肺に鞭打って、息を吹きかけます。
「ふうっ」
けれども、嗚呼、どういうわけか、火は余計に勢いを増していくではありませんか。
なんてことだ、これは川端の卑劣な罠に違いない。きっと紙に油をしみ込ませたのだ、鬼め! と叫び出しそうになったのですが、よく考えてみると、私の呼気にアルコールが含まれているせいかもしれないな、と思い直し、黙って地面を転げ回ることにしました。
勇者として授かった、高い潜在能力を全て無駄遣いしての、渾身の消火活動でした。
そうして、数分ほど地面を転がっているうちに、懐中が涼しくなっているのに気付きました。
火が、消えたのです。
「勝ったぞ!」
叫びながら立ち上がると、困惑した様子のトミエと目が合いました。視線を横に動かすと、川端も珍しく動揺しているのがわかります。
「見ましたか! これで僕は芥川賞作家です!」
川端は哀しげに目を伏せ、
「そんなはずないでしょう」
と呟きました。声に、どこか落胆したような響きがありました。
「たかが紙切れ一枚が、何になるというのですか。それはただの、物体にすぎないのですよ。いいかね太宰君。芥川賞の本質とは、世間の目だ。名のある作家が審査し、賞を与え、それを世間に公表し、作品の価値を認めさせる。そこまでやって、ようやく芥川賞作家になれるのです」
違う! と声を張り上げました。そんなのは間違っている。
「世間など関係あるものか! 貴方が認めれば、僕は芥川賞作家になれるのです!」
「私の独断に、そこまでの価値があるのかね」
「ある!」
「……?」
「僕は、お前に認められればそれでいいんだ!」
おや? という顔をされました。おそらく、私も同じ顔をしていたに違いありません。何か、秘めておくべき本音がうっかり漏れたような、とんでもない過失をしでかしたような、ろくでもない感覚があるのですが、既に臨戦態勢に入っていることですし、深く考えないようにしました。男はこの歳になると、羞恥心が麻痺して図々しくなるものです。
「では、私を倒せば、その瞬間から芥川賞作家ということで如何かな」
願ってもない申し出でした。
もはや、文学賞とは何の関係もない領域で張り合っているのは百も承知でしたが、しかし、今は川端の顔を張り倒したい気持ちでいっぱいなのです。
私は、無我夢中で川端に飛び掛かりました。川端もまた、両手を広げ、臨戦態勢に入りました。
「良い動きです。強くなりましたね、太宰君」
まるで、出来の悪い弟を労わるかのような口調だったので、今さら、と声を荒げたくなりました。どうしてこんな、殺し合いしかできなくなったところで、優し気な顔をして見せるのでしょう。私の人生は、いつもこうなのです。本当に欲しいものは何一つ手に入らないのに、要らないものはいくらでもやってくる。母と思っていた女性は、叔母に過ぎなかった。実母は私を疎んでいた。私を育ててくれた子守は、他所の家に嫁いでしまった。弟のように可愛がっていた甥は、私を残して自殺した。
私が愛したものは、みんな台無しになってしまう。
たとえ何人の淫売婦に好かれようと、母の愛は手に入らず、文学青年に懐かれたところで、甥が生き返るわけでもありません。
そうして、今また、同じ悲劇が繰り返されようとしています。あれほど高潔だった川端は、富と権力に溺れた魔王になってしまった。本当に頼りたかった時は何もしてくれなかったのに、悪の道に落ちてからは、配下になれと誘い文句を投げかけてくるのです。
「川端、お前まで台無しになった!」
「何を言っているのかよくわかりませんな」
川端の顔は、能面のような無表情に覆われていました。一方、川端の目に映る私は、今にも泣き出しそうな顔をしているに違いありません。民衆のために立ち上がった勇者というより、子供が癇癪を起こしているような滑稽さがあります。




