HUMAN LOST
翌る朝、私たちは日が昇る前に空き家を出ました。バジリスクが眠っているうちに、移動を済ませてしまおうと思ったのです。
屋内でぐずぐずしていると、トミエが入籍を迫ってくるというのもあります。密室で二人きりは危険なのです。
そうして、小一時間ほど歩くと、ここに来て初めて、人型の生き物と出会いました。耳の長い、端正な顔立ちの少女で、手には弓が握られています。トミエは、あれはエルフという亜人で、たいへんな長生きだと教えてくれました。普段は山奥で暮らしているそうなのですが、食料が不足すると、人里に下りてくるとのことでした。また、非常に警戒心が強く、興奮すると矢を放ってくる恐れがあるため、絶対に目を見てはいけないとも聞かされました。
「生態を聞く限り、ほぼツキノワグマだね」
「エルフを熊扱いする人は初めて見ました」
「冬眠はするのだろうか」
「さすがにそれは……仮にも亜人ですし」
私は、魔王城までの道のりが知りたかったし、どうせ女の子なら私に甘いだろうとたかをくくっていたのもあって、声をかけてみることにしました。
「おはよう」
エルフの少女は、びくっと肩をすくめ、
「どうして人間がここに?」
と怯えたような顔をしました。しかし、私がケルベロスに跨り、バジリスクの肉片をもぐもぐさせ、人魚の娘に甲斐甲斐しく世話をされているのに気付くと、「こんな人間がいるわけない。なんだ、新手の亜人か」と一人で納得し、握手を求めてきたのでした。
「おはようございます。散歩ですか?」
「魔王をね、倒しに行こうと思うんだ」
「ははあ、脳病院の患者でしたか。となると、隣の貴方は看護婦さんですね?」
エルフは、私を無視してトミエに話しかけます。何とも屈辱的な状況でしたが、ここは話を合わせた方が得だと考え、狂人のふりを決め込みました。パヴィナアル中毒で入院していた頃、そういった人々とたくさん知り合いになったので、彼らの言動に詳しいのです。空中の一点を見つめて、ひたすら政治か宗教の話を続けるのがコツだと思っています。
「プロレタリア革命を実現させるためにもね、僕は川端に会わなきゃならないんだ。これは神の指令なんだよ」
トミエは、目元を拭いながら話を合わせてきました。
「御覧の通り、夫は、妄想と現実の区別がつかなくなってるんです。これから、もっと大きな病院に転院させるつもりでいます。でもその前に、一度でいいから魔王城を見せてあげたくて。ひょっとしたら、最後の外出になるかもしれませんから」
「そうでしたか……看護婦ではなく、奥様だったんですね」
「イエース。夫婦なんです、私たち。できれば色々なひとに言いふらしてください」
どさくさに紛れて、外堀を埋めているように聞こえるのですが、こわいので何も言い出せなくなる私がいました。トミエは、やることがどんどん過激になっていく気がします。本物の富栄も、最後の方は手段を選ばなくなっていたので、私にはどうやら、女を狂わせる空気があるようで、それが事態をややこしていくのでした。
「魔王様のお城は、空気の綺麗なところにありますから。きっと旦那さんの脳にも良い影響を与えますよ」
エルフの少女は、快く道案内を引き受けてくれました。
「僕たちは、人里から逃げて来たんだ」
「苦労なさったんですね」
「よかったら、魔王領の暮らしぶりを教えてくれないか」
「まあ、……ぼちぼちです」
ため息交じりにぼやくエルフからは、疲労の色がうかがえました。人の営みに疲れ切っているように見えました。
「税金がね、どんどん上がっていくんですよ。軍事費、軍事費、また軍事費。そりゃあ、私たちのために戦ってるのはわかりますけど、ちょっとやり過ぎなんじゃ、って声が上がり始めてますね。あと、人類キョウト化計画っていうのは、誰も意味をわかってないんです。やたら外国風の建物を作っては、もののあはれだ、と魔王様だけが喜んでらっしゃる」
ほら、あそこです、と少女が指をさす方向には、和風の寺院が建っていました。民家のみすぼらしさとは対照的に、贅を凝らした、豪華な造りでした。これが、川端の心模様だというのでしょうか。病魔に侵され、人の心を失い、欲望のままに民の血税をすする、暴君と化した男。
それは、あまりにも出来過ぎているように感じました。どこか台本めいていて、川端の用意した線路を、まっすぐに進んでるような気さえしてきます。
「ここまで来れば、もう迷うことはないでしょう。それじゃあ、お大事に。奥さん、そう落ち込まないで。薬が効かないようなら、いっそ思い切り頭を叩いてみるのも手ですよ」
エルフの少女は、私達を魔王城まで送り届けると、木の実を取りにいかなくちゃ、と駆け出して行きました。
「エルフというのは、皆ああいう顔立ちをしているのかね」
「……種族全体が美形って聞きますね。でも、人魚だって人気があるんですよ」
「いかにも川端好みの人種だ」
「魔王も女好きなんですか?」
「僕とは違う方向で好いている。愛人にするのではなく、花鳥風月を愛でるように扱う。いささか偏執的に感じるがね」
私とトミエは、ゆっくりと城門に向かいました。番兵の姿はなく、門は堂々と開け放たれていました。
「かかって来い、と言っているのだろう」
「自信家なんですね、きっと」
いいえ。おそらくこれは、死にたがっているのです。同類は匂いでわかるのです。




